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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年02月08日
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カテゴリ:育児問題
ああ、運動をつづけてよかった
ふつうこそ最善(失敗危険度★★★)

●なくしてから気づく
 ふつうであることにはすばらしい価値が隠されている。賢明な人はその価値をなくす前に気づき、そうでない人はそれをなくしてはじめて気づく。健康しかり、家族しかり、そして子どものよさもまたしかり。

 私は三人の息子のうち、二人をあやうく海でなくしかけたことがある。とくに二男が助かったのは奇跡中の奇跡。そういうことがあったためか、それ以後、二男の育て方がほかの二人とは変わってしまった。二男に何か問題が起きるたびに、私は「ああ、こいつは生きているだけでいい」と思いなおすようになった。たとえば二男はひどい花粉症で、毎年その時期になると、不登校を繰り返した。中学二年生のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。しかしそのつど、「生きているだけでいい」と思いなおすことで、私は乗り越えることができた。

●子どもは下から見ろ
 子どもに何か問題が起きたら、子どもは下から見る。「下(欠点)を見ろ」というのではない。「生きている」という原点から見る。が、そういう視点で見ると、あらゆる問題が解決するから不思議である。またそれで解決しない問題はない。

 ……と書いて余談だが、最近読んだ雑誌の中に、こんな印象に残った話があった。その男性(五〇歳)は長い間、腎不全と闘っていたが、腎臓移植手術を受け、ふつうの人と同じように小便をすることができるようになった。そのときのこと。その人は自分の小便が太陽の光を受け、黄金色に輝いているのを見て、思わずその小便を手で受けとめたという。私は幸運にも、生まれてこのかたただの一度も病院のベッドで寝たことがない。ないが、その人のそのときの気持ちがよく理解できる。いや、最近になってこんなふうに考えるようになった。

●健康であることの喜び
 私はこの三〇年間、往復約一時間の道のりを、自転車通勤をしている。ひどい雨の日以外は、どんなに風が強くても、またどんなに寒くても、それを欠かしたことがない。しかし三〇年もしていると、運動をしていない人とは大きな差となって表れる。たとえば今、同年齢の多くの友人たちは何らかの成人病をかかえ、四苦八苦している。しかし私はそうした成人病とは無縁だ。そういう無縁さが、ある種の喜びとなってかえってくる。「ああ、運動をつづけてよかった」と。その喜びは、小便を手で受けとめた人と、どこか共通しているのではないか。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか?
それ以上、何を望むか(失敗危険度★★)

●子育てで失敗した
 法句経(ほっくぎょう)にこんな説話がある。あるとき一人の男が釈迦のところへ来て、こう言う。「釈迦よ、私は死ぬのがこわい。どうしたらこの恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦はこう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

 これまで多くの親たちが、こう言った。「私は子育てで失敗しました。どうしたらいいか」と。そういう親に出会うたびに、私は心の中でこう思う。「今まで子育てをじゅうぶん楽しんだではないか。それ以上、何を望むのか」と。

●母親とのきずなが虐待の原因?
 子育てはたいへんだ。こんな報告もある。東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏に調査によると、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らかの形で虐待しているという。「愛情面で自分の母親とのきずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

七%という数字が大きいか小さいか、評価の分かれるところだが、しかし子育てというのは、それ自体大きな苦労をともなうものであることには違いない。言いかえると楽な子育てというのは、そもそもない。またそういう前提で考えるほうが正しい。いや、中には子どものできがよく、「子育てがこんなに楽でいいものか」と思っている人もいる。しかしそういう人は、きわめてマレだ。

●子育てが人生を豊かに
 ……と書きながら、一方で、私はこう思う。もし私に子どもがいなければ、私の人生は何とつまらないものであったか、と。人生はドラマであり、そのドラマに価値があるとするなら、子どもは私という親に、まさにそのドラマを提供してくれた。たとえば子どものほしそうなものを手に入れたとき、私は子どもたちの喜ぶ顔が早く見たくて、家路を急いだことが何度かある。もちろん悲しいことも苦しいこともあったが、それはそれとして、子どもたちは私に生きる目標を与えてくれた。もし私の家族が私と女房だけだったら、私はこうまでがんばらなかっただろう。その証拠に、息子たちがほとんど巣立ってしまった今、人生そのものが終わってしまったかのようなさみしさを覚える。あるいはそれまで考えたこともなかった「老後」が、どんとやってくる。今でもいろいろ問題はあるが、しかしさらに別の心で、子どもたちに感謝しているのも事実だ。「お前たちのおかげで、私の人生は楽しかったよ」と。

 ……だから、子育てに失敗などない。絶対にない。今まで楽しかったことだけを考えて、前に進めばよい。
 

はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

いつになったら、できるの! 
己こそ、己のよるべ(失敗危険度★★★)

●自由とは、「己による」こと
 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基本は、この「自由」にある。

●考えさせない過干渉ママ
 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイプの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」、母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」、私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」、母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変えて、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と、今でいう「できちゃった婚」をした。どこか不本意な結婚だった。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

●行動させない過保護ママ
 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護のもとだけで子育てをするなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出すと、「すぐ風邪をひく」。

●責任をとらせない溺愛ママ
 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親は、「子ども(小六男児)が合宿訓練にでかけた夜、涙がポロポロと出て眠れなかった」と言った。私が「どうしてですか?」と聞くと、こう言った。「あの子は私がいないと何もできない子です。みんなにいじめられているのではないかと思うと、かわいそうで、かわいそうで……」と。また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


はやし浩司+++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

口がうまい親ほど、要注意!
あせる親は結論も早い(失敗危険度★★★)

●口がうまい親ほど……?
 あるおけいこ塾の講師が、こんなことを言った。「親の中でもワーワーと騒いで入会してくる親ほど、要注意。そういう親ほど、やめ方がきたない」と。たとえば「先生の教え方はすばらしい。うちの子がおとなになるまで、お世話になりますと言う親ほど、ある日突然、ハイ、さようならとやめていく」と。別の塾の教師も、同じようなことを言っていた。「口がうまい親ほど、気をつけている」と。「どうしてですか?」と聞くと、「口のうまい親は、やめたとたん、今度は悪口をあちこちで言い始める」と。

私にも、つきあいたい親と、そうでない親がいる。そのキーポイントとなるのが、やはり信頼関係。この信頼関係があれば、つきあっていても心地よいが、そうでなければそうでない。もっとも私のばあいは、その信頼関係が切れたとき、それは同時に互いの別れということになる。が、学校の先生はそうはいかない。中にはその母親からの電話がかかってきただけで、体中が震えると言う先生もいる。

●教育は人間関係
 ……と書きながら、これ以上書くと、親の悪口になるので、書けない。私の世界では、親はいつもスポンサーであり、また私のよき理解者である。いわばお客さんのようなもの。そういうお客さんに向かって、「こういう客はよい客だ。こういう客は悪い客だ」と書いていたら、仕事(商売)にならない。しかしこれだけは言える。

 教育がふつうの商売と違うところは、そこに太い人間関係ができること。ものの売り買いとは違う。自動車学校や予備校の指導とも違う。子どもに与える影響は、きわめて大きい。だから教育を商売と同じように考えることはできない。そこでいくつかのポイントがある。これは親側からみたポイントということになる。

●先生とつきあうポイント

(1)先生とつきあうときは如水淡交……子どもの教育だけにかかわり、プライベートなことは、避ける。よく誤解されるが、プライベートなつきあいをしたからといって、信頼関係が深まるということは、ない。

(2)過剰な期待はしない……教師を聖職者だと思っている人は多い。神様のように思っている人もいる。そしてそれに甘える形で、やりたい放題のことをする人がいる。しかし先生が聖職者と思うのはまったくの誤解。子どもを相手に仕事をしているという点をのぞけば、あなたやあなたの夫と、どこも違いはしない。とくに人間性がすぐれているということもない。怒るときには怒る。不愉快に思うときは思う。そういう前提で、つまり同じ人間という前提でつきあう。

(3)別れ際を大切に……人間関係は、すべてその別れ際の美学で決まる。出会い以上に、別れ際を美しくする。美しい別れ方をするということは、つぎの新しい出会いをまた美しくするということにもなる。教師というのは因果な商売で、その人との出会い方をみると、その別れ方までおおよその見当がつくようになる。「ああ、この人は別れ方がきたないぞ」と。しかしそう思ったとたん、信頼関係は半減する。





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最終更新日  2009年02月08日 19時14分36秒
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