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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年05月22日
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カテゴリ:生きザマの問題


●大宇宙は、無数にある

S・ホーキング博士という、天才的頭脳をもった科学者が現れた。
その科学者が、こんなことを言った。

実は、私が今住んでいるような宇宙というのは、これまた無数にあって、しかも
ここにも、そこにも、あそこにもあるという。
ぎっしりと、この宇宙の中に詰まっているという。
この世に宇宙は、けっしてひとつではないという。

今、私たちがこの宇宙に住んでいるのは、偶然にそのまま偶然にすぎない。
生まれてみたら、たまたまこの宇宙に生まれていた。
「たまたま」だ。
簡単に言えば、そういうことになる。

そこであたりを見回してみる。
ホーキング博士は、私たちが住んでいるような宇宙は、無数にあるという。
が、ホーキング博士が説くような宇宙を、私は見ることができない。
ここにも、そこにも、あそこにも、広大な宇宙があるというが、それを見ること
ができない。
感ずることさえできない。
たまたま今、夜空を見あげれば、そこにあるのは、この大宇宙。
私たちが今、住んでいる、この大宇宙。
大宇宙だけ。
そこに無数の星が見えるのは、たまたま私が、この大宇宙に生まれたからにほかならない。
たしかにその大宇宙だけは、見ることができる。

しかしその「私」が、もし、どこか別の大宇宙に生まれていたとしたら、どうなのか?

私は今、ここに住んでいる大宇宙を、見ることはできるのか。
こちらから向こうの大宇宙は見ることができない。
だから向こうの大宇宙に生物がいたとしても、こちらを見ることはできない。
そちらの大宇宙に生まれていたら、今のこの大宇宙を、存在しないものとして考えるに
ちがいない。

話が混乱してきたが、私たちが今、「ここに存在する」と断言してはばからない、この
大宇宙にしても、存在していないということになってしまう。
存在しているか、存在していないかということになれば、そういうことになる。

たまたまこの宇宙の中で、生を受けた。
だからたまたまこの宇宙を、認識できる。
仮に、100歩譲って、死んだあとあの世で生まれ変わるとしても、その「あの世」
という宇宙は、「この世」という宇宙とは、似ても似つかない世界と考えるのが
正しい。
しかもどの宇宙で生まれ変わるか、それすらもわからない。

何しろ、そうした宇宙が、ここにも、そこにも、あそこにも、無数にある。
数をあげろと言われたら、「無限大」ということになる。
生まれ変わって、再びこの世にやってくる確率となると、かぎりなくゼロに近い。
1等1億円の宝くじを、数億回つづけて当てる確率より、さらに低い(?)。
しかしこれも(生まれ変わり)があるとするならの話。
もしそれすらもないとしたら、……?

●生まれていない孫から見ると……

反対に、こんなふうに考えてみたら、どうだろうか。
最近、私の三男が結婚した。
まだ新婚ホヤホヤというのに、もう子どもができるのを楽しみにしている。
私にとっては、孫ということになる。

もちろん孫は、まだ存在していない。
三男の嫁の胎内にも、存在していない。
その孫は、今、どこにいるのか。
やがて生まれてくるであろう、その孫は、どこにいるのか。

もし死後の世界があるとするなら、当然、生まれる前の世界もあるはず。
どこかに孫がいて、この世に生まれるのを、その世界で待っていることになる。
この大宇宙の中で、か?
それとも別の大宇宙の中で、か?

で、その孫にしてみれば、こちらから見えないのと同じように、向こうからも、
こちらの世界が見えないはず。
今、この世界に存在していないとするなら、孫から見れば、この世界は存在して
いないことになる。

仮に生まれ変わりがあるとしても、死んだら、この世は存在しなくなる。
ちょうど孫から見たら、今のこの宇宙が存在しないように、この世は存在しなくなる。
まだ生まれていない孫と同じ状態になるとしたら、そういうことになる。

(自分でも何を書いているか、よくわからない……ゴメン!
要するに、今、私たちが、「ある」と主張する、この宇宙にしても、ホーキング博士
が説く宇宙のひとつにすぎない。
つまりほかの無数の宇宙と同じように、この宇宙も、たいへん不可思議な世界だという
こと。
私たちは、光と分子の織りなす世界で、「これが宇宙」と思い込まされているだけ。

さらにたとえて言うなら、パソコンのゲームの世界に入り込んでいるだけ。
そんなふうにも考えられる。)

●孤独の始まり

やはり死んだら、「私」はこの宇宙もろとも、この消滅する。
わかりやすく言えば、母親の胎内に宿ったときを原点とするなら、
その原点よりも、前の世界と同じ世界に戻る。
暗闇すら認識できない、(無)の世界に戻る。
もちろんそこには(時間)もない。
ちょうど私やあなたが、数10億年という気が遠くなるような地球の時間を、
今の今、まったく感じないように、死んだあとは、やはり仮に数10億年たった
としても、それを一瞬にすら感じないだろう。

しかしそう考えることは、同時にこの世との絶縁を意味する。
そこにいるあなたの家族や肉親との、永遠以上の永遠の別れを意味する。
あなたはすべてのものを失う。
財産も地位も名誉も、そして光も音も思い出も……。
それは想像を絶するほど過酷な世界である。
「孤独」という言葉では、ひょっと言い表せないほど、孤独な世界である。

この孤独とどう闘うか。
結局は、実存主義を唱える人たちの問題は、ここに集約される。

そう、私のように、神や仏の存在を信じられない人間は、自由と引き換えに、
孤独の世界に叩き落とされる。

●孤独論

逃げるか、闘うか?
あるいは深く考えないで、適当につきあうか?
孤独というのは、つきつめれば、そういう問題である。

「逃げる」ためのもっとも有効な方法は、「あの世」を信ずること。
思い込みでも何でもよい。
それで気が楽なるなら、それでよい。
どうせ死んだら、(だまされた)ということすら、わからない。

(もし「死んでもあの世など、なかった。オレはだまされた」と言って怒ってくる
人(=幽霊)がいたとしたら、それこそパラドックス。
幽霊になれたということは、あの世があるという証拠。
あの世がなかったら、「だまされた」ということすら、わからない。)

だったら、どうするか?

私のばあい、「あの世はない」という前提で生きている。
「死んだら、私もろとも、この大宇宙もろとも消えてなくなる」という前提で
生きている。
何度も書くが、それは宝くじのようなもの。
あるかないか、わからない世界をあてにして、この世の生活をだらしないもの
にはしたくない。
当たるか当たらないかわからないような宝くじをアテにして、車を買ったり、
旅行をしたりする人はいない。
車を買ったり、旅行をするのは、宝くじが当たってからでよい。

同じように、死んでみて、あの世があれば、もうけもの。
そのときは、そのとき。
あの世はあの世で、楽しく生きればよい。

●祖父の話

私の祖父には、無二の親友がいた。
祖父はいつもそう言っていた。
その親友と祖父は、生前、固い約束をかわした。
どちらか一方が先に死んだら、あの世があるかどうか、それを相手に知らせるという
約束だった。

で、親友のほうが、先に死んだ。
が、親友は、祖父のもとには、現れなかった。
そのことを説明しながら、祖父は、あるとき私にこう教えてくれた。

「浩司、あの世なんて、ないよ。
もしあれば、あいつが真っ先に教えてくれたはず。
あいつは、オレを裏切るはずがないから」と。

その話を聞いて、私は子どもながら、「そういうものだろうな」と思った。

●現実主義

こう書くからといって誤解しないでほしいのは、だからといって、この世に
生きるのはつまらないとか、無意味とか言っているのではない。

私が書きたいのは、むしろ、その逆。
この宇宙が奇跡であるとするなら、その宇宙で生きている私たちは、さらに奇跡。
生きていること自体が、奇跡。
だったら、その軌跡を大切にしたらよい。
もっとわかりやすく言えば、「たった一度しかない人生なら、思う存分、生きてみよう」
と。

私が言う「現実主義」は、ここから生まれる。
そしてその現実主義は何のためにあるかといえば、名誉や地位のためではない。
もちろんお金のためでもない。

真理探究のためにある。

人間の能力では、(私の能力と言い換えてもよいが)、この先、1万年生きても、
(真理)のふもとにもたどりつけないかもしれない。
しかしそれでもその山に向って歩きつづける。
それが真理探究ということになる。

●完全燃焼

ということで、「生きていること自体が奇跡」(アインシュタイン)というなら、
思う存分、その(生きていること)を、満喫しようではないか。
一瞬だって、一秒だって、無駄にできる時間はない。
燃やして、燃やして、燃やし尽くす。
一縷(いちる)の悔いさえも残さないように、燃やし尽くす。

もし正しい生き方があるとするなら、そういう生き方をいう。
その結果として、その私やあなたがどうなるか、またどういう結末を
迎えることになるか、それはわからない。
しかしそのときは、そのとき。
そのときがくれば、わかる。

今は今として、できることを精一杯する。
やるべきことを、精一杯する。
「たとえ明日、世界が終焉を迎えることになっても」(ゲオルギウ)だ。
それが「生きる」ことの意味だと、私は考える。


Hiroshi Hayashi++++++++May・09++++++++++はやし浩司





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最終更新日  2009年05月22日 13時35分11秒
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