●子どもの巣立ち
●巣立ち++++++++++++++++++岐阜県在住の、Yさん(母親)より、こんな相談があった。「高校2年の息子と、断絶状態にあるが、どうしたらいいか」と。メールには、「転載、引用、お断り」とあったので、詳しくは、紹介できない。++++++++++++++++++ 岐阜県のF市に住む、Yさんという方より、こんな相談があった。家族構成は、わからない。 Yさんは、目下、Yさんの、高校2年生になる息子と、断絶状態にあるという。それについて、「どうしたらいいか」と。 メールには、「転載、引用、お断り」とあった。私のほうで、簡単にまとめてみる。(1) 朝食を食べないで学校へ行く。用意しても無視する。(2) ときどき、学校をサボって、部屋の中に引きこもってしまう。(3) 部屋の中で、何をしているかわからない。(4) 小遣いがあると、ヒーローものの人形を、買い集めている。(5) 夕食も、ひとりで食べる。家族との接触を避ける。(6) 会話は、ない。話しかけると、すぐけんかになってしまう。(7) けんかといっても、一方的にキレてしまい、会話にならない。(8) 「(中学時代)、行きたくもない塾に行かされた」と、Yさんを責める。(9) 「こんなオレにしたのは、お前だ」と、Yさんを責める。(10)無気力状態で、勉強をしない。成績はさがった。(11)中学2年生ごろまでは、いい子で、Yさんに従順だった。(12)中学生のころには、成績もよく、クラスでもリーダー的な存在だった。 子どもは小学3、4年生を境に、急速に親離れを始める。(ほとんどの親は、それに気がつかないが……。)この時期、たいていの親は、「うちの子にかぎって……」「まだ何とかなる……」と考えて、子どもの心を見失う。あるいは「親離れ」というものが、どういうものかさえ、わかっていない。 ただ「親離れ」といっても、一次直線的に、親離れしていくのではない。ときに幼児ぽくなったり、ときに、妙におとなびてみたりを繰りかえしながら、徐々に親離れしていく。これを「ゆりもどし」と呼ぶ。 女児であれば、この時期を境に、父親との入浴をいやがるようになる。男児であれば、学校でのできごとを話さなくなったりする。同時に、第3世界(子供どうしの世界)が、急速に拡大する。相対的に第1世界(家族の世界)が、小さくなる。 そのあと、子どもは、思春期に入り、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。自我(私は「私」でありたいという意識)が強くなってくると、「私さがし」を始めるようになる。 そのとき自己概念(私は、こうでありたいという自己像)と、現実自己(現実の自分)が一致していれば、その子どもは、たいへん落ちついた様子を見せる。自己の同一性(アイデンティティ)が、確立されているからである。 が、この両者が不一致を起こすと、子どもは、(おとなもそうだが)、ここに書いたように、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。これを「同一性の危機」と呼ぶ。わかりやすく言えば、心が、スキマだらけになる。誘惑に弱くなり、当然、非行に走りやすくなったりする。 それは、たとえて言うなら、嫌いな男性と、いやいや結婚した女性の心理に似ている。あるいは不本意な仕事をしている男性の心理に似ている。 こうした状態が慢性的につづくと、それがストレッサーとなって、子どもの心をゆがめる。それから生まれる抑うつ感が、うつ病などの精神病の引き金を引くこともある。それはたいへんな抑うつ感といってよい。決して、安易に考えてはいけない。 Yさんの息子は、メールを読むかぎり、小中学生のころは、親に従順で、(いい子)であったようである。Yさんも、それに満足していた。そして多分、世間で起きているような子どもの非行問題を横目で見ながら、「うちの子は関係ない」「うちの子は心配ない」と思っていたはずである。 が、そんな子どもでも、ある時期から、急変する。その時期は、ここにも書いたように、内的な性的エネルギーが急速に肥大化する、思春期ということになる。 大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)引きこもり型がある。症状はまったく反対だが、引きこもり型でも、突発的にキレて、大暴れすることも、珍しくない。 Yさんの息子について、いくつか気になる点は、過去の問題をとりあげて、被害妄想的に、それを親の責任にしていること。「行きたくもない塾に行かされた」「こんなオレにしたのは、お前だ」という言葉に、それが集約されている。 しかしこうした言葉を、Yさんに浴びせかけるようであれば、まだ症状は軽いとみる。この段階で、対処のしかたを誤ると、子どもは、さらに二番底、三番底へと落ちていく。はげしい家庭内暴力を繰りかえしたり、あるいは数年単位の引きこもりを繰りかえしたりするようになる。(ご注意!) で、こういう症状が出てきたら、鉄則は、ただ1つ。(1) 今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えながら、1年単位で様子をみる。(2) 進学、学習は、あきらめて、なるように任す。高校中退も念頭に入れる。(3) 「がんばれ」「こんなことでどうするの」式の励まし、脅しは、タブー。(4) キレる状態がはげしければ、一度、心療内科で相談してみる。+++++++++++++++以前書いた原稿を、1作、ここに添付しておきます。+++++++++++++++●家族の真の喜び 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむける。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私はダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言った父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんでしまう。 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親をみると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだではないですか。それ以上、何を望むのですか」と。 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかりではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872~1970)は、こう書き残している。「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」と。こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。 ++++++++++++++++ 問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない家庭はない。いわんや、親の願いどおりに育っていく子どもなど、さらに、いない。つまり子育てというのは、そういうもの。またそういう前提で、子育てを考える。 Yさんの息子のケースでは、遠くは、母子間の信頼関係が、じゅうぶん育っていなかったことが考えられる。心配先行型の子育て、不安先行型の子育てだった可能性は、じゅうぶん、考えられる。あるいはそれ以上に、Yさん自身の過関心、過干渉があったことも、考えられる。子どもの心を確かめないまま、子育てをしてきた。親のリズムだけで、子育てをしてきたかもしれない。 だからYさんの息子は、思春期に入るまでは、(いい子)だった。子どもの側から見れば、(いい子)であることによって、自分の立場をとりつくろってきた。が、ここにきて、一変した。Yさんにとっては、つらい毎日かもしれないが、それも巣立ちと考えて、親は、1歩、退くしかない。 子どものことは、子どもに任す。もしYさんの心が袋小路に入って、悶々とするようなら、つぎの言葉を念ずればよい。 『許して、忘れる。あとは時の流れに任す』と。 子育てというのは、基本的には、そういうもの。あるいはYさん自身は、どうであったかを考えてみるのもよい。あなたは、あなたの親に対して、ずっと(いい子)であっただろうか。たいていの人は、「私には問題がなかった」と思っているが、そう思っているのは、その人だけ。 先にも書いたように、子どもは、小学3、4年生を境に、急速に、親離れをする。しかし親は、それに気がつかない。親が、子離れするようになるのは、子どもが高校1、2年生になったころ。 「このクソババア!」と叫ばれて、はじめて親は、自分に気がつく。そして子離れをする。それはさみしくも、つらい瞬間かもしれない。しかしそれを乗り越えなければ、子どもは子どもで、自立できなくなってしまう。 忘れていけないのは、Yさん自身も苦しいかもしれないが、それ以上に苦しんでいるのは、子ども自身だということ。その子どもが今、懸命に、Yさんの助けを求めている。が、肝心のYさん自身は、自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。 こんな状態で、どうしてYさんの息子が、Yさんに、自分の悩みや苦しみを、心を開いて話すことができるだろうか。 先にも書いたが、こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。今の状態を、決して「最悪」と考えてはいけない。むしろ事実は逆で、Yさんの息子は、まだじゅうぶん立ちなおることができる状態にある。悪い面ばかり見るのではなく、息子のよい面もみる。ほかの子どもよりは、独立心がおう盛で、かつ自分の人生を、真剣に考えている。親は、自分の(常識)の範囲だけでものを考えようとするが、一度、その常識をはずして考えてみることも、大切なのではないだろうか。 「あなたは、あなたの道を行けばいい。それがどんな道であっても、お母さんは、あなたを信じ、支持するからね」と。 今、Yさんの息子が待っている言葉は、そういう言葉ではないだろうか。