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2012.05.09
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カテゴリ:カテゴリ未分類


s_617[1].jpg 高山陣屋跡 山岡鉄舟像

市内を歩くと、いたるところでこの山岡鉄舟さんに関する石碑などがよく見受けられます。

どんな方なのでしょう?

ちょっと気になり調べてみました。

「青雲 若き日の山岡鉄舟」と題された山岡鉄舟の銅像。山岡鉄舟(小野鉄太郎)は第21代飛騨郡代を務めた小野朝右衛門の子で、朝右衛門が飛騨郡代に任じられた弘化2年(1845年)から嘉永5年(1852年)までの7年間、10歳から17歳までの多感な時期を飛騨高山で過ごしました。 

s_624[1].jpg 宗猷寺 鉄舟碑

s_626[1].jpg  宗猷寺 父 小野朝右衛門の墓

s_625[1].jpg 宗猷寺 母磯の墓

 

すごい人がいたものです。

 明治の初頭に鎌倉円覚寺管長の今北洪川禅師(白隠禅師より8世)を拝請し、人間禅の前身である「両忘会」を創設した人物ですが、その波瀾に満ちた生涯と、剣と禅によって培われた孤高ともいえる境涯は、人間形成の究極の姿のように思えてなりません。

幼年期は飛騨高山で郡代(知事)の子息の一人として、なに不自由なく育てられ超一流の大家から剣や書を学んだが、両親の相次ぐ死去によって状況は一変し、江戸へ戻って結婚してからは正に極貧の生活を経験しています。

このころから剣と禅の修業にさらに専念し、道力と道眼を磨いた。23歳の時「心胆鍛錬之事」と題する手記を書き、

  「如何にして胆をならしむるかと尋ぬるに、先ず思いを生死の間に潜め、
  生死は其の帰一なることを知ること肝要なるべし」

と述べています。

またその2ヶ月後には「宇宙と人間」というすごい題の書を記し、宇宙界と人間界、諸外国と日本国を明確に分類した後、「本来の人に善悪の差あるにあらず」と人間には本来貴賎の別はないとの思想を語っています。

このような人間形成の努力は弱冠33歳にして花開き、勝海舟の命を受けて倒幕軍の西郷隆盛を駿府に訪ね交渉、江戸城無血開城の道を開きました。

命を顧みずに敵軍の中へのり込み和平交渉をやり遂げたすごい実行力であります。

徳川家が駿府(静岡)へ移ってからは行政の長として清水の次郎長などから信頼されたようです。

茶畑の開墾事業などを積極的に行ない、白隠禅師ゆかりの寺での坐禅修行もしたようです。

35歳前後のこのころが当時の男の働き盛りだったようです。

37歳で明治天皇の侍従になり当時21歳の若き天皇の師匠としてその人間形成の手本となりました。

しかし鉄舟自身も未だ修行の身であり、剣と禅の修業は怠らないどころか益々磨きがかかっていきました。

 明治13年、鉄舟45歳にして剣、禅、同時に大悟、滴水和尚から印加をうけて、ここに彼の人間形成はひとまづ完成の域に達しました。

47歳にして、無学祖元の「電光影裏、春風を斬る」という語からとった"春風館道場"を開き、「無刀とは心の外に刀無し」として"無刀流"を名乗りました。 

まさに彼の人格が結実したときであり、勝海舟や亡き西郷隆盛、そして明治天皇までがその人間性に敬意を表した人物でありました。

それにしても驚くべきことは彼の"無欲さ"です。

金銭欲は育ちが良いからか全く持ち合わせず、週に何日かは飯も食べられない時期がありました。

名誉欲が無いのは禅の修業のせいだと思えるが、海舟などに功名をゆずって平然としていました。

色情欲には悩まされたらしいが、女郎宿へ通い詰め、徹底的に極め尽くして捨て去ったそうです。

武士道の精神において、命を棄てて君主あるいは国家のために尽くすという美学がありました。

勝ちたいと思った時にすでに負けている剣の世界では、勝負にこだわらないという極意がありました。


幕府という官僚機構の中にあっても"群れずに"自分の意思でまっすぐな仕事をしました。

出家することなしに在家で禅の修業に励み、激動の時代に"今を生きる"ことを実践しました。

静岡で茶畑開墾事業などをしながら、三島にある龍澤寺で修行しました。

金も名誉も求めずに命すら惜しまずに国に尽くしておきながら、勲章までも突き返しました。

白装束で坐禅したまま大往生した年齢が、50を少し超えたところでした。


晴れてよし 曇りてもよし富士の山 もとの姿は変わらざりけり



勝海舟と西郷隆盛の影に隠れて歴史上の知名度は低いが、自ら表に出て名を残そうとはしなかった禅者が山岡鉄舟です。

 


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Last updated  2012.05.09 11:50:45
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