カテゴリ:お山に雨が降りまして
実は、このブログを4年以上も続けてきて一貫して考えてきたことは「個人」がいかにして社会に対して開かれて、社会をきちんと部分的であれ凌駕する瞬間を生じさせることができるのだろうかというテーマだったと思う。
「いかにして」と「部分的であれ」と「瞬間」という要素を、きちんと定性的に言及しておきさえすれば 現代思想の大きな部分は一旦は終了証書がでると思っている。 しばらく 「国家社会主義」に言及している理由なのであるけれど・・・ その理由は、このおれの積年の思いから発したものだといえる。この社会は、けして個人を丁寧に担保したりはしない。経済行為では、個人とは個人であるだけで犯罪者であるかのように遇する。つまり「与信」なきもの、それが「個人」なのだ。 日本でベンチャー事業者が、なかなか成立しない理由はこの「与信問題」にかかっている。個人は、存在そのものが常に「確定債務」であるようなその存在である。 サルトルは言う。 「意識とは、その存在がそれとは別の一つの存在を巻きぞえにするかぎりにおいて、それにとってはその存在においてその存在が問題であるような一つの存在である」 冗談のようにサルトルの「存在と無」を読めば、個人とは「債権者」をまきこむかぎりにおいて、その存在が発現するような淡い輪郭であることが想像できる。 そして、ほとんど今日現代社会においては「無」であるかのようなわれわれ個人の意識は、実のところ日本国憲法にはけっして担保されてなどいない。そう考えたように思う。少なくとも自分は、そうだった。 われわれが、個人として信用を付与されるときには必ずといって経済社会の「国家社会主義」的な成分が起動する。これを経験的に味わってきたと思う次第だ。だから日常だれも語らない、幻視する国家社会主義はけして眼をそらせない課題としてあるのだ。少なくとも自分にとっては・・・ ![]() この稿もふくめて、以下の7月18日からの連続エッセーです。 内容の理解のために以下の記事から読み返しくださることを 強く推奨します。 2008/07/18 吉本隆明と「関係の絶対性」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年10月08日 05時56分19秒
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