000597 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

梶原和義のブログです。

梶原和義のブログです。

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

hirata20432

hirata20432

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

まだ登録されていません

コメント新着

コメントに書き込みはありません。

フリーページ

ニューストピックス

2011.06.21
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
目的を持たない人間文明

人間社会には目的がありません。文明という構造を造っていながら、文明自身に何の目的も持っていないのです。ただ今日という日を暮らしているだけです。
日本の政府も、目の前にある案件を処理するだけで精一杯です。これがユダヤ主義なのです。ユダヤ人の欠点を捜して足元をすくうことは、いくらでもできるのです。
ユダヤ人は神を知らないのです。神がアブラハムに約束を与えた。世界の中心民族になるべき約束を与えたのです。だから亡国民族でありながら、全世界をふり回しているのです。これは驚くべきことです。わずか二千万か二千五百万のユダヤ民族が、六十五億の人類をふり回しているのです。これは驚くべきことです。
どうしてそんなことができるのかと言いますと、ユダヤ人は神のやり方を逆手に取っているからです。神のやり方を悪魔に売って、ユダヤ人と悪魔が提携しているのです。その結果、世界全体の人間が悪魔的なやり方にひきずり回されているのです。
悪魔は目的を持っていない魔性です。目的を持っていない絶対人格を悪魔と言うのです。皆様は現在、悪魔的な人格にひきずり回されているのです。
皆様は人格を持っていながら目的がありません。何のために生きているのか、個々の皆様は人生目的がないのです。就職する、結婚する、家族を養う、家を建てるという人生目的はあります。これは目の前の生活目的であって、永遠の目的ではありません。個々の人間が人間存在の理想を持っていないのです。
新興宗教は日本の国を良くすると言います。日本の国を良くしてどうするのでしょうか。日本の国を良くした所で、それ以上の目的を持っていないのです。
人間文明は全く愚かなものです。現代文明を造っている人間は、全部死んでしまう人間ばかりです。キリストの復活を信じていると、言いふらしているキリスト教でさえも、復活が全然分かっていないのです。復活の歴史的実体、科学的実体が全然分かっていないのです。神が全然分かっていないのです。
現世の人間はユダヤ思想にひきずられて、肉体人間が存在するという妄想と、地球があるという妄念を基礎にして、文明を造っているのです。
般若心経は「色即是空」と言っています。地球が存在していないと言っているのです。全く痛快な発言ですが、日本人はこういうすばらしい文化財を持っているのです。
般若心経だけで、ユダヤ人をやりこめることはできるのです。新約聖書を持ち出さなくてもいいのです。新約聖書はユダヤ人にとって上等すぎるのです。
ユダヤ人が考えていることは「五蘊」ばかりです。政治も経済も教育も法律も、全部「五蘊」です。般若心経はそれを、「五蘊皆空」と切り捨てているのです。
現世があること、人間が生きていることが嘘です。嘘である証拠に、現世に生きている人間は全部死んでいくのです。もし本当に生きているなら死ぬはずがないのです。
死なない命、永遠の生命はあるのです。それをイエスは復活によって証明したのです。人間が死ななくてもよくなったので、西暦紀元が始まったのです。日曜日はイエスが復活した記念日です。
西暦紀元、日曜日の意味がはっきり分かれば、人間が死ななくてもよいことがはっきり分かるのです。



現代文明はユダヤ文明

宗教と真理とどこが違うかと言いますと、宗教はこの世の常識で生きている人間を、幸せにすると言うのです。現存在の人間をそのまま取り上げて、認めているのです。
現在の人間のあり方、至らなさをはっきり指摘しないままで、現世の人間を丸呑みにして幸せを与えるというのが、宗教の考え方です。
例えばキリスト教の場合で言いますと、自分が救われたいと思う人が、キリスト教の門を叩くのです。キリスト教の門を叩くのが悪いのではなくて、その人を導くキリスト教の指導者が悪いのです。キリスト教の指導者は、教勢を拡大することだけを考えて、聖書を正しく説こうとしないのです。
仏教の場合を言いますと、釈尊の心境は悟りにあります。仏陀という言葉が、悟りを意味しているのです。正覚者、正覚そのものを仏陀と言うのです。
釈尊はもとはただの人間でした。ただの人間であった人が、悟りを開きました。そして成仏しました。これが釈尊の状態です。仏ということ自体が、正覚を意味するのです。
人間存在を正しく見る、正しい悟りを得る。そうすると、現在生きている人間ではない、別の世界観、人生観を持つことができるのです。この世に生きている人ではない、別の人格者になる。これを成仏というのです。
これは宗教ではありません。宗教という道程を通って、自分自身を完成したことになるのです。これならいいのです。
ところが宗教は、本当の悟りを取りあげないままの状態で、現在常識的に生きているままの人間を鵜呑みにして、その人が極楽へ行けるようなことを言うのです。
私が言いたいのは、般若心経を鵜呑みにするのではなくて、それを自分自身の生きざまにしてしまうということを言いたいのです。
信じるということは、ただ観念的、概念的に分かったとか、信じたというのではなくて、そのものになりきることをいうのです。
仏を信じますと、自分自身が仏になりきってしまうのです。自分自身が成仏するのです。釈尊の悟りに、できるだけ正確に同調するのです。この志を持たないで、ただ釈尊は偉い人である、万徳円満釈迦如来であると思うだけではだめです。
だいたい拝むという言葉じたいが、同調することを意味するのです。南無という言葉は一つになるという意味です。
皆様が現在生きておいでになることは、生まれながらの命、先天的な命で生きていらっしゃいます。これは死なない命です。皆様の心臓が動いているということが、神そのものなのです。
ですから、皆様の心臓が動いているという事実に、皆様が成りきってしまいますと、死なない人格を発見することができるのです。
キリスト教はそのように言わないのです。イエス・キリスト様は購い主であるから、この人を信じれば自分の罪がなくなると言うのです。そして死んでから天国へ行けると言うのです。
これは人間の理屈であって、全く概念です。人間はそのままの自分が天国へ行くのではないのです。
即身是仏と言います。その体が、そのまま仏であるという考えなのです。これは本願寺の考え方です。その身そのまま仏であるというのが、通念になっているのです。だからナムアミダブツと申せというのです。
南無とは帰依することです。アミダ仏の心境に一つになれば、成仏するのです。
アミダ仏という人格は、釈尊が悟りを開いた悟りの人格そのものです。ですから、アミダ仏という人格に同調すれば、極楽へ行くでしょう。帰依したことが、極楽になっているのです。
死んだら極楽へ行くのではありません。現実に、アミダ仏の心境が持てれば、現実に生きているままで成仏することになります。そこまですれば宗教ではなくなるのです。
生きているままの人間が成仏してしまうのです。ところが、現在の日本の仏教では、それを全くしていません。全然していません。ただ声明念仏しなさいと言うのです。
それでは成仏のしようがないのです。いくら念仏してもだめなのです。
念仏ということにも問題があるのです。声明するのです。名前を唱えるのです。念ずるとは、自分自身の気持ちが仏に同化するためにするのです。これなら立派なものですが、これをしないのです。口で仏の名を唱えることが念仏だと思っている、これは大きな間違いです。
日本の仏教が仏をばかにしているのです。仏を軽んじているのです。まともにナムアミダブツという言葉を取り扱っていないのです。
キリスト教の場合でもそれと同じことが言えるのです。イエス・キリストを信じると言いますが、イエス・キリストの購いだけを信じると言うのです。イエス様は救い主だから、彼を信じると地獄へ行かなくてもいいという安直な考えをもつのです。この点が間違っているのです。
皆様が現在生きていらっしゃる命は、この世に出る前に持っていらっしゃった命です。神と一緒に持っていた本当の命です。
以前にNHKのテレビで放映していましたけれど、生まれた直後の赤ちゃんが、母親の顔をじっとながめていたのです。その赤ちゃんには、生まれたままの命がそのまま出ているのです。物心が全然ついていないのです。人間の常識も知識も全然関係がないのです。これが皆様の本当の命なのです。
皆様の目が見えること、料理が味わえることが、先天的に神に与えられた命です。生まれたままの五官の力が、今もなお皆様の中にあるのです。
ところがこの世の中で、三十年、四十年生きていらっしゃる間に、世間の常識にごまかされて、生まれた時とは全く違った人格になってしまったのです。これが物心という人格です。物心は持って生まれた人格ではありません。この世で造られた、この世の人格です。
この世の人格で生きておいでになるために、皆様は本当の命を持っていながら、それをつかまえることが全くできなくなり、死なねばならないことになるのです。愚かなことです。私が強調したいのはこの点なのです。
皆様が生きているという事実は、神の事実です。神的事実です。このことをよく理解して頂いて、常識や知識で生きることをやめて頂きたいのです。
電車やバスに乗る時には、切符を買わねばなりません。この時には常識がいりますが、命を考える時には常識は邪魔になるのです。
皆様はご自分の人生を見るのに、もっと正直になって頂きたいのです。もっと率直に、冷静になって頂きたいのです。平明に、綿密に生きている事実を見て頂ければ、宗教の助けをかりなくても、釈尊が成仏したように、皆様も成仏できるのです。
その気になれば、死なない命を見つけることは誰にでもできるのです。この世の物心が困るのです。これが皆様を迷いの中にひきずりこんでいくのです。善悪利害得失の中へひっぱりこんでいくのです。善悪を考える、利害得失を考える、これが人間の迷いです。
この迷いから醒めるのです。これは宗教ではできません。宗教は迷っているままの人間を幸福にしようと考えているのです。仏の悟りを真正直に説かないのです。イエス・キリストの人格を、真っ直ぐに説かないのです。歪めて説くのです。
宗教は宗教教学を説いているのです。宗教の教えを真理のように説くのです。イエス・キリストを信じると、罪が許される、アミダ如来を信じると仏国浄土へ行けるというのです。この理屈は間違ってはいません。間違ってはいませんが、あくまでも概念を説いているのです。
アミダ如来を信じるというのは、アミダ如来の悟りに同化することです。これをしないで、現世の常識をもったままで極楽へ行けるという、これが間違っているのです。
宗教は間違いをばらまいているのです。宗教は幼稚です。キリスト教の場合は聖書の考えがあいまいです。あいまいや幼稚の状態で、分かったようなことを言うのです。これが間違っているのです。
皆様は般若心経の五蘊皆空を口にしていながら、五蘊が皆空であるとは考えないでしょう。色即是空を本当に考えないままで唱えています。これは空念仏です。空念仏がいけないのです。実念仏ならいいのです。
実念仏は宗教ではありません。本当の命を念ずることになりますと、今日の日本の宗教ではないものになるのです。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011.06.22 04:37:53
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.