箱根~河口湖への紅葉巡り(その9)
「新倉山浅間公園 忠霊塔」にも多くの外国人観光客が。鉄筋コンクリート造で、1962年に完成した高さ19.5メートルの五重塔。戦争で死亡した市内出身者1055柱を合祀するために建てられた。毎年9月に戦没者慰霊祭が行われていると。「忠霊塔の由来Ⅰ 忠霊塔の概要 1 正式名称 富士吉田市戦没者慰霊塔(俗称:忠霊塔) 2 所在地 富士吉田市新倉3360番地の1 市立新倉山浅間公園内 3 構造等 ①鋼板一文字葺鉄筋コンクリート五層建 大阪四天王寺の五重塔を模している ②大きさ 基礎部分7.3m四方 1階床面積4坪(13㎡) ③高さ 19.5m(本体部分13m、相輪6.5m) ④総工費 9,368,884円 (工事費9,210,767円 事務費158,117円)忠霊塔建立の経緯富士吉田市戦没者慰霊塔(通称:忠霊塔)は、明治(1868年)以降の日本国として参戦した戦役(日清、日露、第一次世界大戦及び太平洋戦争)において戦没した市内出身者960余柱(現在1055柱)を合祀するため、市の援護会が中心となり、昭和33年8月12日に富士吉田市長を委員長とする富士吉田市慰霊塔建設委員会が設けられた。委員会は、その建設資金を旧下吉田町在郷軍人林を恩賜林組合に売却した300万円を基礎資金として、その他不足する部分を広く市民の浄財に寄り、昭和34年4月起工し3年間の工事期間を経て昭和37年4月に完成し現在に至る。平成26年7月 富士吉田市慰霊塔奉賛会 富士吉田市遺族会」「新倉山浅間公園周辺案内図」。右手の「富士吉田市」市街を見下ろす。道志山塊の山々・杓子山(1598m)・高座山(1304m)の姿か。そして再び「新倉山浅間公園 忠霊塔」横から富士山を。ズームして。「この展望デッキは、全国の皆さまからいただいたふるさと納税寄附により整備されました。令和2年度「新倉山浅間公園の展望デッキを増設し、多くの皆さんに日本唯一の眺望を楽しんでもらいたい!」をテーマにふるさと納税クラウドファンディングを実施したところ、全国から8,652人という多くの皆さまのご賛同をいただくことができました。 令和4年2月富士吉田市」「展望デッキ」。「展望デッキ」から富士山を追う。『桜(紅葉)・雪の富士山・五重塔』という代表的な日本の象徴を一望できるということで、タイ?のSNSで広まり、あっと言う間に東南アジアに広まったようです。東南アジアでのSNS発信、拡大が十分理解できる「これぞ日本」の光景なのであった。「展望デッキ」を後にして「忠霊塔」横から。頂部の「相輪・九輪」を見る。古くは仏塔の最上部にある塔身の上の覆鉢(ふくばち)に立てられたもので、1~13の重層よりなるもの。日本では塔の最上部におかれる青銅または鉄製の尖塔で、一般に九輪(くりん)という。下記写真はネットから。下から露盤(ろばん)・ 伏鉢(ふくばち) ・ 平頭(へいとう)・請花(うけばな) ・檫管(さっかん)・九輪(くりん) ・相輪風鐸(そうりんふうたく)・水煙(すいえん)・ 竜舎(りゅうしゃ) ・宝珠(ほうじゅ)で構成されている。「殉國之塔昭和三十七年四月二十一日建立」と。展望デッキの東側の法面の下、市街地を見下ろせる場所にあったの「李良枝 (イ・ヤンジ) 文学碑」。富士吉田市で育ち、37歳の若さで亡くなった在日韓国人2世の芥川賞作家、李良枝 (イ・ヤンジ) さん(1955~92年)の功績を後世に伝えようと、李さんの小中高の同級生らが計画した文学碑が同市の新倉山浅間公園に完成し、2016年5月の命日の22日、除幕式が行われた と。碑の言葉は、同級生らでつくる実行委員会の会長で同町の「湖みずのホテル」女将おかみ・山下淳子さん(61)らが選び、李さんが芥川賞の受賞スピーチで話した「韓国語で愛はサランと言い、人はサラムと言う。そして人の生そのものをサルムと呼んでいる」との一節と、その中の「愛」「人」「生」という文字を刻んだ のだと。「富士吉田市出身 第百回芥川賞受賞作家 李良枝 (イ・ヤンジ) 文学碑」。 「新倉山浅間公園 忠霊塔」広場から再び富士山を。ズームして。そして再び、富士山、紅葉・黃葉をカメラで追いながら、398段の「さくや姫階段」を下る。「位置図緩やかな遊歩道あります」と。225段目から階段と坂道と遊歩道に分岐しているのであった。225は「フーフー!!ゴメン」であろうか??紅葉の赤はまるで炎のような輝きを放っているのであった。その色は深く濃厚で、まるで宝石のような鮮やかさが。陽光の中で輝く赤は、木々を一層豊かな色彩で飾り立て、まるで自然が織りなす華やかな絨毯のように。白い雪に覆われた富士山頂付近、まるで天に届きそうなほどの威厳を持ってそびえ立っていた。その頂上の純粋な白さが青空と調和し、神々しささえ感じさせるのであった。風がそよぐたびに葉っぱが揺れ、赤い輝きが光を反射して、まるで大地が燃えるような壮観な景色を作り出していた。その赤は季節の変わり目を告げるシンボルであり、見る人の心に深い感動を。いつまでも留まっていたい空間なのであった。そして大きなヒノキの木。「子育て神木」と。「富士吉田市指定天然記念物新倉富士浅間神社のヒノキ平成六年二月一日指定所在地 富士吉田市新倉三三五三番地所有者 富士浅間神社ヒノキは日本特産種で、用材として優れているため需要が多く、ズギとともに各地で植林されているが、一般的にスギと比べて成長は遅い。この木は地上2.5 mくらいから南北二幹に分岐しており、分岐部には幼いスギの木が着生していることから、いつ頃からかは定かではないが「子育て神木」と呼ばれるようになった。樹勢は旺盛で樹形も良好であり、市内のヒノキの代表的な巨樹である。大きさは次のとおり。 一 根元の周囲 5.05 m ニ 目通り幹囲 3.70 m 三 樹 高 25.5 m 四 枝 張 り 東4.6 m 西5.5 m 南6.7 m 北5.6 m 平成六年三月 富士吉田市教育委員会」「三國第一山 富士浅間神社雨屋殿改建記念碑 平成十四年十一月吉日建之」そして、順序が逆であったが「新倉富士浅間神社」を訪ねた。由緒人皇第四十二代文武天皇の御代慶雲三年(西暦七〇五年)九月九日、甲斐国八代郡荒倉郷へ富士北口郷の氏神として祀られる。第五十一代平城天皇の御代大同二年(西暦八〇七年)富士山の大噴火があり八月二十二日当社に朝廷からの勅使が参向せられ、国土安泰富士山鎮火祭を執行し、その時、平城天皇より三国第一山の称号並びに天皇の御親筆なる大鳥居勅額・金幣・破魔宝面(勅使面)を奉納された。この破魔宝面は現在、富士吉田市の郷土資料館に展示されている。六十年に一度斎行される式年大祭「御更衣祭」は神社で一週間潔斎しながら神様の御召になる衣を織り御更衣する特殊な神事である。富士急行下吉田駅北方新倉山の中腹に鎮座し、緑の森に赤い鳥居が調和良く見える。階段を登ると左に手水舎、右に神楽殿、本殿は流造二間に二間半、拝殿は三間に七間の荘厳そのものである。神域は新倉山浅間公園として内外より親しまれ、多くの信仰を集めている。 赤い大鳥居と戦没者慰霊の五重塔「忠霊塔」は当地のシンボルとして眺望は随一である。 御祭神は・木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大山祇命(おおやまづみのみこと)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) の三柱の神様。と「新倉富士浅間神社」のHPより。「三國第一山 新倉富士浅間神社」。「手水舎」。龍の吐水口。社殿正面から。神楽殿。社殿に近づいて。新倉富士浅間神社は約1,300年前、文武天皇の御代慶雲3年(705年)に富士北口郷の氏神様としてお祀りされた。大同2年(807年)には富士山の大噴火があり、当社に朝廷からの勅使(天皇からのお使い)が参向され、国土安泰富士山鎮火祭が執り行われた。そして時の天皇である平城天皇より「三国第一山」の称号と御親筆による大鳥居の勅額、金幣、破魔宝面を奉納された。扁額「三國第一山 富士浅間神社」。内陣を見る。内陣を正面から。社殿の見事な彫刻。屋根には鬼の面が見えた。迫力のある形相で魔除けの役割を担うのだと。御朱印 授与所。御朱印を頂きました。「新社務所造営 境内整備事業 御奉賛のお願い当社は、慶雲三年(七〇五年)に創建されたと伝えられ、永きにわたり地域の守り神として御鎮座されております。近年では、富士山と桜と五重塔を一望できる景観が現在、日本を象徴するものとして、国内外から多くの方にご参拝いただいております。現在、当社の社務所は歳月の経過と共に老朽化が進み破損、傾斜が日立ち危降な状態となっており、このまま使用することが困難な状況になっております事から、この度、新社務所の造営、境内整備を計画いたしました。つきましては、時節柄大変厳しい状況の中、恐縮ではございますが、何卒趣旨をご理解頂き、皆様の御奉賛を賜りますようお願い中し上げます。令和四年十ニ月古日 三國第一山 新倉富士浅間神社各位 記一、募財日標額 三千万円一、奉賛金額 一口 金 五千円一、御奉賛に対する待遇 一口以上 境内に芳名を掲示いたします。 ニロ以上 記念品を贈呈いたします ※記念品は事業完了後にお送りいたします。」上記の絵画。以下2枚はネットから。桜の時期には!!桜、富士山、五重塔、これぞ日本の春の姿。神楽殿の右奥にあった「忠魂碑」。見事な紅葉の神社であった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・