旧東海道を歩く(藤枝~金谷)その6:島田市・大善寺~川越遺跡・芭蕉庵
『旧東海道を歩く』ブログ 目次島田宿の旧東海道・本通り(県道34号線)を更に西に進む。ここは島田市向島町。右手次の信号右角に大きな山門が見えて来た。『大善寺』。山門前の寺号標。大善寺『山門』。山門から境内に入ると右手にあったのが『梵鐘楼』。『大善寺の梵鐘』。「当山の鐘は、天命四(一七八四)年、「時の鐘」として備え付けられました(旧鐘銘)。それ以後、昼夜六時(二時間おき)にこの鐘によって宿民は刻を知らされ、明け六ツ(日の出時刻)と暮れ六ツ(日の入り時刻)の鐘の音は、大井川川越の始まりと終わりの合図ともなっていました。 しかし、この鐘は、昭和十九(一九四四)年、太平洋戦争の際、供出され、現在の鐘は昭和四十八(一九七三)年に新しく造られたもので、毎月一日・十五日と大晦日に撞かれています。 」『本堂』。「ニ尊山成就院大善寺は静岡県島田市向島町に境内を構えている浄土宗の寺院。大善寺の創建は江戸時代初期に青海を名乗る修行僧が当地に草庵を設けたのが始まりと伝えられています。寛永年間(1624~1643年)に西入法師が当寺を訪れると、大井川で犠牲になった人々の供養を行う為、法師自ら釈迦如来像を彫刻し、本尊として阿弥陀如来像を迎え境内を整備しました。その後衰微しましたが、知恩院(京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院)の末寺である大善寺の寺籍を移し、浄土宗の寺院として再興しています。山号:二尊山。院号:成就院。宗派:浄土宗。本尊:阿弥陀如来。」本堂前左には『永代供養塔』。『當山歴代上人之墓』。旧東海道に戻ると左手信号角にあったのが『新東海製紙㈱』の入口が。平成19年(2007)、東海パルプ株式会社と特種製紙株式会社が経営統合し、 その後平成28年(2016)、 日本製紙との販売機能の統合により日本東海インダストリアルペーパーサプライ株式会社、特種東海製紙島田工場の分社化により新東海製紙株式会社が誕生したのだ。若い頃、昔の東海パルプ㈱に何度か通ったことを懐かしく想い出したのであった。『新東海製紙㈱』の前を進む。『島田市博物館』、『大井川川越遺跡』は左へとの標識が。左折のT字路手前にあったのが『島田宿』道標。金谷宿境まで六町(0.7km)と。県道34号線を離れて、ここを斜め左手に旧東海道は延びていた。右手に平屋屋根の中心が一段上がった木造の建物が。『上段の間が現存する塚本家』。「「上段の間」とは、奥の一室が一般の座敷より一段(約二十cm)高くなっていて、身分の高い人をお迎えする特別な部屋のことです。江戸時代、大名や公家などの宿泊する本陣には必ず備えられていました。 塚本家に伝わる文書によると、九州肥前(長崎県)で古い家柄を持つ大名、大村藩(二万七千九百石余)によって建てられた家です。そして大村藩の参勤交代や大村藩とゆかりのある諸大名や武家が、大井川を渡るときに、特別の便宜をはかり、川越しの準備や手続きを代行しました。その間大名を座敷の上段の間にお通しして接待し、休憩や昼食をとったことが伝えられています。なお宿泊は、定められた宿場の宿泊施設以外では、原則禁じられていましたので、大名は島田宿内の本陣に泊まりました。建物はその後、修理や改築の手が加わっていますが、基礎や上段の間には当時の様子が残されています。 塚本家歴代の主人の多くは「三太郎」を名乗り、家系の記録では、元禄までさかのぼりますが、川越し場が開設された当時からの旧家と思われます。」『国指定 島田宿大井川 川越遺跡町並』と刻まれた木標。そしてこの場所の先で発掘調査が行われていたのであった。東海道線 島田駅から 西へおよそ2キロの地点に, 大井川の渡し(川越〔かわごし〕 )の跡「島田宿大井川川越遺跡」。国の史跡に指定され, 当時の街並みが整備・保存されているのだ。「島田宿」の入口に 大きな説明看板があって, 建物の名前などが図示されていた。 これがなかなかよくできていたのであった。『島田宿』を大井川に向かって進む。左手に『口取宿』。川越人足の定年は45歳であったとのこと。陸取り(おかどり=現役を引退した川越人足など)が詰めていた建物で、人足たちに公平に偏りが出ないよう仕事を割り振ったところ。現役の人足へのアドバイスなども行っていたと。右手に『島田市博物館分館』が。「遺跡」と言っても,建物の土台などが残っているわけではなく, 図に描かれているように, 昔の宿場町の「川会所」という役所と, 川越し人足等が使っていた「番宿」など, いくつかの建物が復元された 短い街並みなのであった。これらの建物は 基本的に内部も公開されている?のだが, ところどころに 普通の民家が混じっていて, うっかりすると 間違えて民家に入り込んで しまうのではないかと。『島田市博物館分館』手前にあった『六番宿』。「番宿」は「一番宿」~「十番宿」まであって, 人足の溜まり場。 人足はここで待機し, 休息していたらしい。そしてチケットを購入し、『島田市博物館分館』内部に入る。内部は明治中期建築の日本家屋の様子が懐かしく展示されていた。『土間の台所そして竈』。『お米つき』。一升瓶に玄米を入れ、上から棒で根気よく突っつくと白米になって行くのだと。流石に私はこれをやった経験はないが、旅友は如何に?素朴な和室。庭には水の流れが。『床の間』。こちらにも。『中庭』。正面の建物は海野光弘版画記念館であったが、この日は展示品替え?の為、中に入れなかった。『日本家屋について』。明治33(1900)年に建てられた島田でも有数の地主の住まい。正面の玄関から2階の屋根まで葺き上げた瓦の大屋根が特徴の町家は、旧家の風情が漂っています。1階は伝統的な工法で骨太に仕上げられており、2階は茶室としても利用できるよう、繊細で落ち着きのある京都の数寄屋風の造りになっています。日本情緒溢れるくつろいだ雰囲気の中で、展示作品をごゆっくり鑑賞していただけます。また、屋外にはこの家が建てられた当時の井戸や、その他民俗資料を展示しています。そして奥の『民族資料室』へ。市民の方々から寄贈された貴重な民俗資料約4,000点を展示。昭和を中心に明治、大正時代の昔懐かしい生活用品や木工機具、農機具などを並べてあった。『井戸と釣瓶(つるべ)』様々な種類、大きさの『鋸(のこぎり)』。『斧(おの)』。小型の『手斧(ておの)』『囲炉裏(いろり)と当時の食事』も。『千歯こき』。懐かしき『いも水車』。里芋等を中に入れ、小川等の水の流れで回転させると、綺麗に皮が剥ける優れもの。『ムシロ編み機』。『タイプライター』。『足踏み縄ない機』。『木鍬』『氷かき』、『洗濯機』。懐かしき展示品を大いに楽しんだのであった。そして再び島田宿、旧東海道へ。「酒屋跡」に島田宿大井川川越遺跡の見学案内板が設置されていた。 近寄って。『橋下仲間井戸』が六番宿の奥に。「この井戸は「つるべ井戸」といわれるものです。いつごろ堀られたかはっきりしませんが、明治30年ごろ改修され現在のような形となりました。井桁にはそのころの利用者仲間の人たちの名前が刻まれています。 なお、この井戸は昭和29年に水道が敷かれるまで使われていました。 井戸の直径 1メートル 井戸の深さ 11メートル 水までの深さ 9メートル(冬期)」『三番宿』に飾られていたお雛様。『十番宿』に入る。川越人足の詰所では「六さん」が迎えてくれた。川越人足は一から十までの組に分けられ、各番宿にて待機していたと。川越人足の数は、島田、金谷でそれぞれ350人と幕府より決められていたが、幕末には島田、金谷側共に650人を超えていた。人足たちは裸で、腰に二重廻しと称するもの(浪に千鳥又は雲に竜の模様)を締めてお互いに「川越取」と呼び合い、天下の関取に一脈通じると自負していたのだと。煙管片手に一休み。『二番宿』。内部には見事な『七段飾り』が二式。こちらは『仲間の宿』。「主に年をとった川越し人足たちの集まった宿です。ここは人足達の仕事上の意見交換や各組どうしの親睦の場として使用されたといわれています。」ガラスケースに入った各種人形も。『札場』「一日の川越しが終了すると、それぞれの番宿(ばんやど=人足の待機場所)で、各組の陸取り(おかとり)などが人足の川札を回収し、札場で現金に替えて人足たちに賃金として分配していました。」街道沿いには地蔵様の姿も。『芭蕉庵』。旧東海道沿いにあり島田宿川越茶屋内のお土産販売店、ここには15代将軍 徳川慶喜も愛した和風のコーヒーを再現したものが楽しめると。その名も「江戸珈琲」。 その5 に戻る。 ・・・つづく・・・