藤沢歴史散歩:その15 藤沢市川名地区を訪ねる
【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク「村岡御霊神社」を後にし、再び「古館橋」まで戻り、柏尾川を渡る。「腰越大船線」を柏尾川に沿って南下すると左手にあったのが「中外製薬(株)鎌倉研究所」。そして「手広」交差点を右折し、藤沢駅方面に歩く。「川名」交差点手前の路地を右折し進み、「川名清水谷戸」に辿り着く。「川名清水谷戸」は、近くの人々が農業を営み、自然と共生しながら里山環境を守ってきた場所。昔ながらの原風景がそのまま残る貴重なスポットなのである。左右を丘陵の稜線に挟まれた谷あいの平地で、田んぼや畑、水路、溜池があり、 いわゆる里山を形成しているのだ。藤沢市内には、三つの谷戸があり、「遠藤笹窪谷戸」「石川丸山谷戸」そしてここ「川名清水谷戸」。奥の沼には蓮が。未だ開花には早かった。そして次に訪れたのが「神光寺横穴古墳群」。神光寺の門を過ぎてすぐの土手にぽっかり穴が開いているのであった。右から第横穴古墳と第2横穴古墳。「市指定・史跡 神光寺(じんこうじ)横穴古墳(横花墓)群横穴墓は、丘陵斜面や断崖に横穴を堀り、死者を埋葬する墓で、古墳時代に造られた横穴系の埋葬施設の影響を受けて、5世紀代に九州北部で造られ始めました。横穴墓は有力者の墓であったと考えられており、藤沢市内では6世紀後半頃から7世紀代を中心に造営され、神光寺横穴古墳群の位置する片瀬丘陵では数多くの横穴墓が造られました。神光寺横穴古墳群は、昭和43年に横穴墓7基の調査が実施され、土師器片、須恵器片などが確認されています。玄室内では、遺体を安置する棺座が玄室の床面から高い位置に造られており、地域的な特徴とされ、市内の古墳時代を考える上で貴重な史跡といえます。」ここ片瀬丘陵には、一〇〇基を越える横穴墓の存在が知られているのだと。これが第2横穴古墳。近くにあったのが「シェア畑 湘南藤沢」。農具資材、種苗・肥料、アドバイザーサポート付きの貸し農園。入会金:11,000円 3㎡:6,400円 6㎡:8,400円〜そして「高野山真言宗稲荷山 神光寺」を訪ねた。「高野山真言宗稲荷山 神光寺」寺標。「掲示板」「何かにつまずいたら 一歩先を見るとよい いつまでも そこにいると その苦しみから ぬけだせない」「咲く花に この世の ご縁を学び 散る花に この世の 無常を学ぶ」「生きている間が人生 どう生きたら いいのか 今のうちに 考えておきたい」「 藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造虚空菩薩立像木造一木造り、彫眼。表面刳落、右腕・左肘先・両手足欠如(本来は右手に宝剣、左手に宝珠を持っていたと推定される) 像高108.7㎝。本像は、嘉永4年(1851)に神光寺に合併吸収された大勝寺・「新編相模国風土記稿」に「大勝寺、川名山金剛院と号す。本寺前(鎌倉手広青蓮寺)に同じ。本尊は虚空蔵なり」とある虚空像菩薩と推定される。風化が甚だしいが、古様の作風から製作年代は平安時代は中期頃と推定され、市内屈指の古仏である。また、立像の虚空菩薩像は全国的にも非常に希少な存在である。」高野山真言宗「稲荷山影向院(ようごういん)神光寺」の「本堂」。「本堂」の扁額 「影向院(ようごういん) 」 。「本堂」に向かって右前の「弘法大師像」。角度を変えて、後光のお姿を。弘法大師石像の「堂」。堂に添えられた石碑。「稲荷山影向院 大師石像 創建文政項 相模国巡四国八十八箇所 七十四番 川名村 御詠歌 いと深くかけし誓をたのみにて 川名のはしを わたるもろ人動物の像と合体したユーモラスでほのぼのとするベンチと石造の仏塔。「弘法大師報恩謝徳供養塔」。③神光寺 ④横穴墓群 案内柱「文化財ハイキングコース案内板村岡の歴史と文化財 村岡が歴史上注目されるようになるのは、坂東八平氏の祖として知られる桓武平氏の一族に生れた平良文(村岡五郎)がこの辺りに荘園を開いたとされる平安時代の中頃(10世紀前半)からです。鎌倉幕府成立以後の村岡は鎌倉への交通の要所となり、元弘3年(1333)新田義貞による錬倉攻めの際に激戦地になったのをはじめ、室町・戦国時代を通して村岡周辺は幾度も戦場になりました.やがて戦乱の世が鎮まり、徳川将軍による治世が確立すると、村岡地区の7ヶ村〔柄沢、渡内、高谷、弥勒寺、小塚.宮前、川名〕は藤沢宿の助郷と定めら街道を往来する大名や武士などの荷物を運ぷための人や馬を提供することを義務づけらました。明治時代になって助郷題度が廃止されるまで、それは村岡の農民にとって大変重い負担となっていたようです。現在の村岡地区は.武士が権勢を誇っていた頃の村岡とは地形もかなり麦っているようですが、それでもこの地を歩くと、平良文の居住地といわれる村岡城址をはじめとして、二伝寺境内に伝わる良文の墓、良文が将門の乱鎮定にあたって勧請したと伝えられる御霊神社、渡内村の名主であった福原家の番屋門など、村岡の地に生きたひとびとが遺した多くの歴史的遺産に接することができるはずです。」そしてこの日の「藤沢歴史散歩」の最終ゴール地点の「川名御霊神社」を訪ねた。「御霊神社」社号標石。石鳥居。「社殿」は長い階段の上に。三回折れて平場がある、四本連なる階段。「御霊神社由来」碑。 創 立 天慶四年八月(千有余年前) 祭 神 早良親王 合祀 平景政 例 祭 九月吉日早良親王は相模平氏村岡良文の祖神なり良文は村岡郷に住し四辺を開拓して恩恵を垂れ景政は良文の裔にして鎌倉時代武者を以て知らる因縁浅からず当初鎮護の神となす我々民族心の古里である手水場。「まきの樹」。「明治百年記念 まきの樹」石碑(昭和43年(1968年)銘)。更に階段を上って行く。階段上に「社殿」。藤沢市川名の御霊神社は、村岡御霊神社の分社と伝えられている。祭神の早良親王は、桓武天皇の弟。川名の地は、鎌倉郡津村郷に属し、村上五郎(平良文)の領した村岡に近いことから、村岡氏の支配下にあったものと考えられるが定かではない。平安時代後期には、鎌倉権五郎景政が開発した大庭御厨の一部として、大庭氏の支配下にあったと考えられている。祭神 早良親王 鎌倉権五郎景政扁額「御霊神社」。「稲荷社」。扁額「正一位 稲荷大神」。「福禄寿像」。相州村岡七福神の福禄寿。相州村岡七福神巡りでは、残りの弥勒寺(毘沙門天) 、小塚荒神社(布袋和尚)、柄沢神社(恵比寿) 、渡内日枝神社(弁財天)、高谷大神宮(大黒天)、宮前御霊神社(寿老人))に会えるのであった。そしてこの日のゴール地点から帰路への階段を下る。そして県道32号線藤沢鎌倉線に出て「御霊神社前」江ノ電バス停で藤沢行きのバスを待ち、藤沢駅に17:30に到着し、更に自宅まで、神奈中バスを利用し帰宅したのであった。そして18時過ぎに帰宅して、この日の歩数を見ると何と!!早朝6時に自宅を出発し。18時に過ぎに帰宅するまで、ひたすらカメラ片手に歩いたのであった。しかしこの日は足の痛み等はほとんど無く元気に帰宅できたのであった。そしてこの日でほぼ全ての「藤沢歴史散歩」コースを完歩したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・