そんな。。。まだ55歳。。。
相撲も、プロレスも、類まれな天才、肉体的にも恵まれて、期待されたのに、性格的に向いてなかったんだよなあ。。。
残念です。。。。
御冥福を、お祈りいたします
元横綱双羽黒の北尾光司さん死去 格闘家でも活躍
[2019年3月29日18時45分]
87年大相撲秋場所初日 土俵入りを行う双羽黒(1987年9月13日撮影)
新日本東京ドーム大会 プロレスデビュー戦を勝利で飾った北尾光司は花道でガッツポーズ
(1990年2月10日撮影) ルー・テーズ(右)自身が所有するジムで指導を受ける北尾光司
(1989年6月7日) WAR両国大会で天龍源一郎と戦う北尾光司(1995年7月)
大相撲の第60代横綱で、現役横綱双羽黒のまま廃業し、プロレスラーに転身した北尾光司さんが、2月10日に慢性腎不全で亡くなっていたことが29日、分かった。55歳だった。87年12月にトラブルで立浪部屋を飛び出し、その後は冒険家、タレント、格闘家へと転身。98年に格闘家も引退した。波乱に満ちた人生が幕を閉じた。
◇ ◇ ◇
北尾さんは立浪部屋から1979年(昭54)3月の春場所で初土俵を踏み、86年(昭61)1月の初場所から大関、同年9月の秋場所から横綱に昇進。横綱として8場所務めた後、87年12月にトラブルで部屋を飛び出し、その後、師匠から当時の「廃業届」が提出された。1909年(明42)に優勝制度が導入されて以降、唯一、優勝経験のない横綱となった。これをきっかけに、横綱昇進は慎重な見方をされるようになり、大関として連続優勝、またはそれに準ずる成績が求められることになった。
相撲界を離れた後、90年2月10日の新日本東京ドーム大会で、本名の「北尾光司」でプロレスデビューした。クラッシャー・バンバン・ビガロとのデビュー戦を勝利。その後、SWS、UWFインターなどにも参戦し、総合格闘家としても活動したが、98年7月にプロレス、格闘技界からも引退した。
03年9月には、自身が相撲界にいた時とは代替わりしていたが、16年ぶりに立浪部屋を訪れ、部屋のアドバイザーに就任した。その際には「名門立浪復活の手助けをしたい」と、意気込みを語っていた。
当時から師匠を務める立浪親方(元小結旭豊)は「交流はその時の一瞬で、その後は連絡を取っていなかったから、最近の様子は知らなかった」と話していた。
◆双羽黒光司(ふたはぐろ・こうじ) 本名北尾光司。1963年(昭38)8月12日、三重県津市生まれ。中学卒業と同時に立浪部屋に入門し、79年春場所で初土俵。84年春場所で新十両を果たし、同年秋場所で新入幕。85年九州場所後に大関、同年名古屋場所後に第60代横綱昇進。ちゃんこの味付けをめぐり87年12月27日、師匠の立浪親方(元関脇安念山)と大げんか。仲裁に入ったおかみさんを突き飛ばし部屋を飛び出した。同親方は協会へ廃業届を提出。4日後の大みそかに臨時理事会を開き、双羽黒の廃業を決議した。通算348勝184敗24休、優勝次点7回、三賞7回。幕内優勝経験がない横綱は史上初。引退後はスポーツ冒険家として遊学後、プロレスラー、格闘家として活動。03年には立浪部屋のアドバイザーを務めた。
北尾光司さん、2月に死去 慢性腎不全で2013年から闘病生活 元横綱双羽黒
死去した北尾光司さん
大相撲の第60代横綱双羽黒の北尾光司(きたお・こうじ)さんが2月10日午前7時30分、慢性腎不全のため千葉県内の病院で死去していたことが29日、分かった。妻の淑恵さんが明らかにした。55歳。三重県出身。故人の生前の希望で2月中に家族葬が執り行われた。2013年から闘病生活を送っていた。
立浪部屋に入門し、15歳の1979年春場所で「北尾」のしこ名で初土俵を踏んだ。2メートル近い長身で懐が深く、突き、押しや右四つの攻めで早くから将来を嘱望された。
84年初場所で新十両、同年秋場所で新入幕を果たした。85年九州場所後に大関となり、86年名古屋場所後に横綱昇進。部屋の先輩横綱「双葉山」と「羽黒山」にちなんで双羽黒に改名した。横綱在位8場所は昭和以降2番目の短さだった。
引退後はプロレスラーなどとして活動。2003年に立浪部屋のアドバイザーに就任していた。