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カテゴリ:高野街道記補足
西名阪自動車道ガードそばに豊臣秀頼に仕えた武将「薄田隼人正の墓」があります。 この地は元和元年(1615)大阪夏の陣の 『道明寺合戦』の折り、「薄田隼人正」が玉手小松山で後藤又兵衛基次を打破った徳川方の松倉・伊達・水野らの連合軍を迎え撃ち、激戦の結果敗れ、この墓地付近で、河村新八と戦い討死にしたとろです。 別名岩見重太郎ともいわれる隼人正は、兵力的に不利な大阪方に 『義を見てせざるは勇なきなり』として大阪城に入城した人で、講談のひひ退治はよく知られています。 墓地は隼人正の子孫にあたる芸州浅野家の子孫にあたる人々が永年の研究によって当地で戦死したと断定され、墓碑が立てられました。 現在でも子孫の浅野・薄田・佐々の各氏によって毎年5月6日に慰霊祭が執り行われています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.04.29 07:51:33
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