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わけのわからない日が続く シカゴ編

わけのわからない日が続く シカゴ編

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2014.11.06
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先日に嫁さんとバイクショーへ行ったことを日記に書いたが、シカゴのバイク野朗は2月の後半になると準備を始める。
今日はまだマイナス4℃であるが、あと一ヶ月もすればバイクに乗れる日が1週間に1日ぐらいは現れる。
二ヶ月もすれば毎日乗れる。

気の早い社内のバイク野朗は自宅のガレージでバイクの整備を始める。
数年前の日記に写真を載せたが、HONDAファンにはたまらないCB750Fに乗っているRussという奴がいる。
CB750Fは私が高校3年生の1978年にアメリカで発売された。(何故か日本では翌年の1979年に発売)
日毎に暖かくなっていくこの時期に同じHONDAファンとバイクの話しを始めると仕事が手につかなくなってしまう。

先週もそうだった。
ラボでRussとすれ違う際に彼が私に「破れていたバイクのシートを換えたぞ!」と言ったことがキッカケで、その場で30分ぐらい立ち止まってバイクの話しをしてしまった。
私が不思議だったのは約30年前に発売されたバイクのシートをどうやって手に入れたかである。
そして私はRussから興奮する情報を手に入れた。

我々が住んでいるイリノイ州から2時間弱のところにアイオワ州があるのだが、そこにHONDAのバイク専門の店があり、30年前のバイクの部品であっても手に入れることができると言うのだ。
Russは新品は高いので、新古品を買っていると言う。
部品だけでなく、30年前のバイクもちゃんと整備されて十分走る物が売っているらしい。

RussはiPhoneを取り出して、写真見る?っと聞くので、私は仕事のことを完全に忘れて彼のiPhoneに見入ってしまった。
先日に彼がCB750Fのシートを買いにその店に行った時に撮った写真である。
私の青春時代の色々と懐かしいHONDAのバイクの写真を見た中の一つの隅の方に申し訳なさそうに写っていたのが、CB350FOURであった。

実は私が死ぬまでに絶対乗りたい乗りたいバイクはドリームCB350FOURである。
ユーミンの歌詞ではないが、"私の青春そのもの"のバイクである。

CB350F.jpg
ウィキペディアより

このCB350FOURの製造期間は1972年から1974年のたった2年間。
私が免許を取れる歳には既に製造中止になっていた。
エンジンは347cc空冷4ストローク2バルブSOHC直列4気筒。
最高出力は34ps/9,500rpm、最大トルクは2.79kg.m/8,000rpm。

現在のバイクからすれば、全然大したことがないバイクであるが、このバイクの4本マフラーから聞こえるエンジン音は最高だった。
50歳を過ぎた私が今までに車もバイクも全てHONDAに拘ったのはCB350FOURのエンジン音に惚れてしまったからである。(一時期、日産のブルーバードSSSターボに浮気したが...)

私はこのバイクを高校3年の時に運転していた。
バイクのオーナーは私ではなく、岩瀬という仲の良かった同級生だった。
我が家ではバイクなんか買ってもらえるわけがなかった。

岩瀬は最初にドリームCB250Tという250ccのバイクを買おうと思っていた。
バイクは250cc以上になると2年に一度車検を受けなければならないので当時高校生の岩瀬のバイト代で賄えるものでなかった。
だから彼は250ccのバイクにしようと思ったのである。

岩瀬はバイト代を貯めたお金を惜き集めてCB250Tを買いに行ったのであるが、実際に買ったのはCB350FOURであった。
当時私は岩瀬がCB250Tを買うものだと思っていたら、車検が必要なCB350FOURを乗ってきたので驚いた。

岩瀬は父親にバイク屋に連れて行ってもらったのであるが、若い頃にバイク乗りだった父親の方がその気になってしまい、CB250TからCB350FOURになったのだ。
さすがに若い頃にバイク乗りだった父親である「車検があるからといって自分の乗りたいバイクを変えなくてもいい。」と言ってくれ、足りないお金を出してくれたと言うのだ。
「車だったらどんな小さな車でも、どれだけ古い中古車であっても、我慢して乗ることはできるが、バイクはそういうわけには行かない乗り物じゃないのか?」と岩瀬の父親は言ってくれたそうだ。

バイク屋で岩瀬の父親が足らない分のお金を出してやると言われた時に彼には二つの選択があった。
CB350FOURとCB400FOURである。

普通に考えたら確実にCB400FOURになる。
CB400FOURはどれをとってもCB350FOURを超えている。
CB400FOURはCB350FOURの後継車種なので、それは当たり前なのだ。

CB400FOURはCB350FOURの347ccから398ccにアップした。
最高出力は34psから37psにアップした。
そして5速ミッションから6速ミッションになった。

しかし岩瀬はCB350FOURを選ぶのである。
当時の私にとってはその選択は200%間違いだったと岩瀬に言った。
もっと素晴らしいバイクが目の前にあるのに、何故わざわざ劣るバイクを選んだのかと。
その事で私は岩瀬と大喧嘩になるのである。

その時期はCB400FOURが発売されたお陰でCB350FOURの中古価格が大幅に下がったのでお買い得だった。
CB350FOURでも私には凄く羨ましいことだと話したら、岩瀬が突然に怒り出したのだ。

「ほそみち! 俺はCB400FOURよりCB350FOURの方がええと思ったから、それを選んだのや!安かったからと違うぞ!」と岩瀬は私に怒鳴ったのを今でもよく覚えている。

そしてその後に岩瀬がCB400FOURよりもCB350FOURに惚れこんでCB350FOURを選んだことを私は心の底から理解できるようになり、私は岩瀬に謝るのである。

「ほそみち! CB350FOURがCB400FOURよりええのはエンジン音や!全然違うぞ!CB350FOURは4本マフラーや!」
私は最高出力や6速ミッションになったことなどばかりを気にかけていたが、CB400FOURから集合マフラーになったことにあまり関心がなかったのだ。

CB400FOUR.jpg
CB400FOURは通常「フォーワン」と呼ばれ、Four into oneの集合マフラーが特徴的だった。

そして町でCB400FOURが走っているのをよく見かけるようになった時に岩瀬の言っていた4本マフラーのエンジン音の良さが心の底から理解できるのである。
集合マフラーは機敏さを増すための軽量化の為でもあったが、主な理由はメーカーのコストダウンだった。
高速回転まで一気に吹き抜けるHONDAエンジン音は圧倒的に4本のマフラーからの4重奏の方が似合っていると私は確信した。

バイクという乗り物は早く走る能力だけで選ぶものではない。
スタイルやエンジン音、その振動...数え上げればきりがない。
CB350FOURはCB400FOURに比べて走りは劣るが、4本のマフラーから出てくるエンジン音の4重奏は小排気量の4気筒のエンジンが一生懸命に回転している音や振動が身体全体で感じることができるのだ。
シカゴで暮らし始めた時に同僚が乗るBMWの1200ccの大型バイクを運転させてもらったが、100Kmほどの速度で走行してもエンジンはアクビをしているような退屈な態度であり、私にとってはほとんど感動するものは無かった。

私は岩瀬に謝った。お前の言ってたことがやっと今になって理解できたと。

その時に岩瀬が話してくれた。
実は岩瀬もバイクを買いに行くまではそんなエンジン音のことや4本マフラーのことなんて全く関心がなかったと言うのだ。
岩瀬は彼の父親がCB350FOURのアクセルを吹かした時のエンジン音を聞いて「おー、ホンダらしい"ええ音"しとる!」と父親がCB400FOURよりもCB350FOURの方を気に入ったのが決め手だったことを話してくれた。

後に私は岩瀬の父親がバイク乗りの先輩として尊敬することになっただけでなく、私が父親になったら岩瀬の父親のようになろうと決心したぐらいだ。
それは今でも変わっていない。

そして岩瀬の親父は価格ではなく、バイク本来の良さで選んだということを確信することになる。
私が岩瀬の家に遊びに行って、バイクを運転させてもらおうとした時に岩瀬の父親が既に仕事から帰って来て家にいたことが時々あった。

岩瀬の親父は何となく現在の私に似ていて、子供達が話しているとそれに割り込んでくるタイプの父親だ。
「ほそみち君、ちょっと待っててな。そこまでタバコ買いに行くし。」と言って、あの親父はよくCB350FOURをぶっ飛ばしてタバコを買いに行った。
当時高校生の私でも岩瀬の父親はバイクをカッコよくぶっ飛ばす姿をいつも我々に見せたいためにわざわざハイライトを買いに行ったことぐらいは判っていた。

しかし私は岩瀬の親父にノックダウンされたのだ。

CB350FOURにまたがった親父は慣れた手付きでキックレバーを出し、たった一発の右足のキックでエンジンをかけ、我々の前からぶっ飛んで行ったのである。

えっ、えー、この世代の人達はキックを使うのか! ボタン一つでエンジンをかけるセルモーターがあるというのに!

しかも一発で.....

我々世代の者にしか分からないと思うが、中型バイクをキック一発でエンジンをかけるのはそんなに簡単ではない。
一発のキックでエンジンをかけるというのは二つの意味がある。

バイクに慣れているということと、バイクが日頃からちゃんと整備されているということだ。
岩瀬からは「昨夜親父にチェーンの張り具合をを調節してもろた。」なんてよく聞いていた。
さすがに岩瀬の父親、若い頃に相当なお金をバイクに注ぎ込んでいたというのは本当のことだったんだと一瞬で判った。
「おー、ホンダらしい"ええ音"しとる!」と親父が店で言ったことを岩瀬から聞いた時に私は「お前の親父にそれが判るんかい?」と口に出してしまったが、訂正させて欲しいと心の中で思った。

バイク乗りならわかると思うが、一発のキックでエンジンがかかる整備されているバイクは100万円のバイクよりも価値がある。
岩瀬のバイクはほとんどそうだった。

その時私は確信した。
岩瀬の親父は価格ではなく、本当にバイク本来の良さでCB400FOURよりもCB350FOURの方を選んだのだとを確信した。

チキショー! 岩瀬の親父、カッコ良すぎるやんけ!

去年に亡くなった私の親父の悪口は言いたくはないが、「わしは会社からカリフォルニア大学に行かせてもらって、世界最新のコンピュータを勉強した。」と自慢していた私の親父よりも、キック一発でCB350FOURのエンジンをかけた岩瀬の親父の方が今でも1000倍カッコいいと思っている。
私の親父には申し訳ないが、それは私が死ぬまで変わらないだろう。

岩瀬の親父は田舎町の中小企業の鉄工所で働く職人さんであり、いつも薄青の汚れた作業着を着ているオッサンであるが、バイクに乗ったら何を着ていてもカッコいい奴はカッコいい奴なのだと悟った。
岩瀬の家はそんなに裕福ではなかったが、息子のためにポンとCB350FOURを買ってやるだけの器のある理想の父親だったのだ。
「あかん!もっと丁寧にやらんとネジ山が潰れるやろ!」と親父に怒られながらオイル交換している岩瀬親子を側で見ていて私は滅茶苦茶羨ましかった。
そして私が購入したHONDAのナナハンをメンテナンス出来るのも、基本はあの時の岩瀬の親父から教えてもらったからだ。

私はクラスメイトのヨシが18歳の誕生日を迎えて車の免許を取ったら、それまで乗っていたドリームCB250Tを5万円で譲ってもらう約束をしていたのだが、ヨシは私に譲る少し前にCB250Tで電柱に激突して天国に行ってしまった。
私は高校を卒業したら岩瀬と10日間ほどバイクツーリングに行く予定をしていたが、5万円ではツーリングに行くバイクも買えなかったのでCB350FOURをニケツ(二人乗り)で北陸に行った。

その後私は大学進学で都会に出て行き、バンド活動が主になっていったので岩瀬との付き合いが薄れていった。
そして彼とは大学1年の最初の夏休みに彼ともう一度バイクツーリングしたのが最後になった。
能登半島の最先端でイカ釣り船から上がったばかりのイカの刺身を食べたのをよく覚えている。

同僚のRussのiPhoneでCB350FOURを見て、三十数年前の高校時代にトリップしてしまったのだ。
今、無性に岩瀬に会いたい!
俺はシカゴで暮らしていても、こうやってまだHONDAに乗っているんだぜ!と彼に話したい。
シカゴではヘルメット無しで乗れるのでバイクで走ると風の匂いまで感じられるのが堪らない!

S018.jpg
HONDA Shadow 750 Sprit









岩瀬が結婚して男の子を授かったことまでは知っているが、お前は自分の息子にバイクのオイル交換の仕方をちゃんと教えているかぃ?と話してみたい。
残念ながら俺の息子は完全に失敗したけど。

「お父ちゃん、世の中には楽しいことが沢山あるのに、なんでわざわざそんな不安定な乗り物を飛ばすことが楽しいねん?お母ちゃんから聞いたけど、ヘルメットも被ってへんそうやな。そういう危険なことをすることでしか楽しみが無い人なんや。悲しい人や。」

息子は大学の寮から年に1,2度帰ってくるのだが、父親の私が何が悲しくてバイクのことで息子に説教されなければならないなのだろうと思うと腹が立った。
嫁さんは日本ではバイクの中型の免許を持っている。
そんな父親と母親で育った息子にそんなことを言われるとは夢にも思ってみなかった。
凄く悲しかった。

私は息子が幼稚園の頃から毎週末にバイクに乗せて近くの公園まで遊びに行った。
後ろに乗せるにはまだ身体が小さ過ぎたので私の前に乗せてハンドルを持つ両手でしっかり息子を押さえていた。
市販のどんなヘルメットも息子には大き過ぎたのでヘルメットの中に発泡スチロールと丈夫な生地で息子の頭にぴったり合うヘルメットを作った。
私が少し加速すると息子はウォーと叫んで喜んでいたのをはっきり覚えている。

その頃から私には漠然とした将来の大きな不安が渦巻いていた。
この子が高校生になってバイクの免許を取れる歳になったら毎日不安な日々が続くことを...

息子が小学生になってから渡米したのであるが、アメリカでは16歳になると学校の授業の一環で車の免許を取らなければならない。
私の息子のことだから、16歳でバイクに乗るのは間違いないだろう。
そうなると息子が高校から帰ってきてバイクに乗って飛び出して行ってから帰ってくるまで私はずっと無事に帰ってくることを心配しなければならなくなると思っていた。

岩瀬の親父がそうだった。
我々滋賀の田舎の高校生バイカーは天ヶ瀬ダム(京都府宇治市に流れる宇治川に建設されたダム)までの山中の曲がりくねった道を飛ばすのが一番の楽しみであった。
学校の授業を終えてから天ヶ瀬ダムまでバイクを飛ばし、帰りに深夜まで開いている国道沿いの食堂でいつもの親子丼を食べてから岩瀬の家まで帰って来ると午前1時頃になる。

岩瀬と私がそっと玄関のドアを開けて家に忍び込むと岩瀬の親父が未だTVを観ていることが多かった。
我々をちらっと見て「今日も阪神、負けたわ。」と下らない話しをするのであるが、それから岩瀬の親父がサッポロ一番醤油味を作ってくれることがよくあった。

ナイター中継が午前1時まで放送しているわけではないという当たり前のことに気付くのは自分の息子を持ってからのことである。
岩瀬の親父は我々二人がバイクをニケツして飛び出して行ったから戻って来るまで寝られなかったに違いない。
無事に帰ってきた我々二人を見て岩瀬の親父はほっとしてお腹が空いたのだと思う。
父親になってから判ることが色々あるのだ。

岩瀬の親父は雪がちらつく日でも決して決してバイクに乗るなとは言わなかった。
運転に気をつけろとも言わなかったが、バイクのメンテを少しでも怠ると雷を落す厳しい人だった。

息子がバイクで帰ってきて、二階の自分の部屋に駆け込むと岩瀬の父親は黙ってチェーンの張り具合など基本的なことをチェックしてやっていたのである。
岩瀬の親父が錆び付いた鍋でサッポロ一番を三人分作っている姿を思い出すと、父親が息子にしてやることはただ一つであることを私は学んだ。

それは心配してやることである。
しかもそれを絶対に顔に出さないことがバイク乗りの父親の条件である。

岩瀬の親父と同じことが出来てこそ、本物のバイク乗りだと称することができる資格があると悟った。
バイクをぶっとばすだけが”バイク乗り”ではないのである。
あれだけのCoolな親父になれるかどうか私は不安だった。
息子という生き物は父親が着ているスーツの値段の高さなんかで尊敬してもらえると思ったら大間違いなのだ。

結婚して男の子が生まれた時から息子にバイクのオイル交換を指導してやるのが夢だったと言っても過言ではない。
しかし残念なことに神様は私にはそういう父親の楽しみを一切与えてくれなかったのだ。

我々は勉強なんかはろくにせず、バイクを飛ばして夜中にこそっと帰って来たのであるが、岩瀬の父親は何も余計なことを言わずに我々にただサッポロ一番醤油味を何も具を入れずに作ってくれた。
いや違う、生卵だけは時々入れてくれたなぁ...
岩瀬はラーメンの上に乗せた半熟の卵の白身の部分が時々気持ち悪いと言って私の丼に入れるので、私は2個の卵入りのサッポロ一番を食べたものだ。

あのラーメンの美味しさを私の息子にも味わせてやりたかったのだが...

私の息子が私のナナハンに乗ったのはたった一回だけ。
それも父親の権限で無理やり後ろに乗せて走った。
父親の私を「そういう危険なことをすることでしか楽しみが無い悲しい人や!」と言っ放った息子に人生の本当の楽しみを教えてやりたかった。
もし息子が私よりも出世して、ドイツの高級車を運転するようになったとしても、そんなものより桁違いに面白い乗り物があることを息子に教えたかったのだ。

バイクに乗らないことは世の中の楽しさの半分ぐらいを捨てるようなものだから、一度だけでも俺のナナハンに乗れと言ったのだ。
そしてバイクに乗っている途中で恐くなったら俺の背中を叩けと息子に言ったが、ハイウェイで80Mile(130Km)以上出しても息子は背中を叩かなかったことだけは認めてやる。

まぁあれだけ小さな頃からバイクに乗せていた息子だ、その辺の免疫はついているだろう。
バイクに乗らない人達には理解し難いと思うが、バイクの後ろに乗ってくれるだけで大きな信頼感を貰えるものなのだ。

しかし息子は言うのだ。

「お父ちゃん、これはほんまに危ない乗り物やで。周りの者に心配させてまでこういう物を乗りたいと思う人の気持ちが全く理解でけへん。好きにしたらええけど、ヘルメットぐらいは被ってくれよ!」

まさか自分の息子に心配されるとは夢にも思わなかった。
そして私はヘルメットを被ることを約束させられてしまった。

ヘルメットというものは周りの者を安心させるために被るものでもあることを初めて知った。

そうかぁ...車と違ってバイクという乗り物は周りに心配をかけて乗る贅沢な乗り物だったのだ。
自分だけの乗り物ではなかったのだ。

しかし流石にバイクの免許を持っている嫁さんである。
「あんたが嫌やったら無理してヘルメットを被らんでもええで。」と言ってくれた。
どうせ息子が帰ってくるのは年に数回やからと言う。
シカゴでは自分の安全は自分で決めるもの。
嫁さんはヘルメット無しだと風の匂いまで感じられる爽快感をちゃんと理解している。

私は嫁さんに言ってやった。

「合格や!」





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最終更新日  2018.05.18 15:42:03
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