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カテゴリ:ショートストーリー
転機 妻子と別れてまで仕事に頑張ってきた男の転機
「専務、おめでとうございます」 快活な声だった。 この声に励まされて、自分は頑張ってきたのだと田端新一は思った。 声の主は美穂だった。 美穂は、田端が役員になった日から、この10年間ずっと田端専属の秘書を務めていた。 「おいおい、何だよ。突然」 「惚けなくてもいいじゃありませんか。次期社長就任の内諾を頂いてこられたのでし ょう。創業以来、社長といっしょに朝も夜もなく頑張ってこられたのですから当然で す。ご家族を犠牲にしてまで」 「いや、実は、保留してきた。社長には息子さんもおられるからな」 「そんな、あの方は、去年、役員になられたばかりですし、社歴も3年足らずです。 業務のことなど分かってません」 田端は、ほんの小さな町工場だったT社を世界的なブランドまでに育てあげた功労者 だった。 しかし、その間には、妻との離婚もあった。 最愛の我が子との別れもあった。 そんな悲しみと努力の甲斐あって会社が飛躍的に成長したのは幸いだったが、家を振 り返ることのなかった田端は妻子を会社の犠牲にしたと言われても返す言葉もなかっ た。 「息子が大学を卒業してね。これで、仕送りもしなくてもいいかと思い始めたら、急 に力が抜けて…」 社長就任を保留したのは、確かに、そのこともあったが、田端の中では、もっと大き な別の気持ちが芽生えていた。 それは美穂のことだった。 妻と別れてから、ともすれば心の支えを失いがちな田端を支えたのは、他ならぬ美穂だった。 美穂は、美人ではないが、よく気のつく可愛い女だ。 その気になれば、とうの昔に嫁に行くこともできたはずだ。 それが世に言う適齢期も過ぎてもなお、身を持て余しているように思えて 仕方のない田端だった。 もし、美穂さえ良ければ、役職を全て辞して遅咲きの家庭の 味に共に浴してみたい、そう田端は思うようになっていた。 「お疲れなんでしょう。長い間、盆も正月もなかったんですから。しばらくお休みに なれば、また頑張ろうという気持ちになれます」 「君も、いっしょに頑張ってくれるか?」 「…」 美穂は少し考えた。 そして、思い切ったように話し始めた。 「実は、私、専務のことずっと好きでした。専務の傍にいられれば、それだけで幸せ でした。でも、そろそろ、お暇しなくてはなりません」 「僕も同じ気持ちなんだよ」 「ダメです。私は限界です。体力的にも精神的にも…それに、故郷に、私のことずっ と好きだったって言ってくれる人がいたんです。彼、専務のように頭は切れませんが、 のほほんとして、あの映画のフウテンの寅さんのような人で、私にピッタリだと思い ます。ほんとは、私、家庭にいたいタイプですから。専務は社長になって、世の為、 人の為に、やらなければならない人です。普通の人のようなこと言ってる場合じゃあ りません。あ、そうそう、1階の待合室に来客があります。すぐに行ってください」 そう言う美穂の言われるままに田端が待合室に行くと、待っていたのは、5年前に別 れた妻と息子だった。 二人を呼び寄せたのは、他ならぬ美穂だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.08.16 09:40:21
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