窪川アグリなユル研修記53
よーし、今回は龍馬伝でアツイ高知城をレポートしちゃうぞ。みんな耳の穴だけじゃなく鼻の穴までかっぽじってよーく見ておくように。でも、きっと人前ではやらない方がいいと思うよ。はい。じゃ、6月10日の続きから。午後3時、高知市内へと向かう。この日寺尾さんの車に便乗させてもらっているのは、私と奈良出身の中野さん。いつも寺尾さんが気を使って遠征の際には車を出してくれているのだ。高知市内はソテツの街路樹。南国高知のイメージのまま。高知城はJR高知駅の西南約500mに位置し、高知県庁の北に隣接する。早速駐車場に車を停めて城門へ向かう。城門に入る前、向かって左側にお城のお堀。城下町っていいよなぁ。何がかって言うと、多くの城跡は現在は大規模な公園になっているので町の中心が大規模な緑地帯となっており、癒しを感じさせてくれるからだ。城門の右に山本容堂像。山本容堂はかつて龍馬も属した土佐勤王党を壊滅し、党首である武市瑞山を切腹に追いやった土佐藩の藩主。土佐勤王党に暗殺された吉田東洋は容堂の家臣で参政に起用された。城門をくぐり・・・・遠くに天守閣が見える。城門をくぐって正面に、板垣退助の像。板垣退助は山内容堂の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。明治維新以降自由民権運動の主導者として活躍。坂本龍馬とは親戚関係にあるそうだ。長いダラダラとした階段が続く。ようやく天守閣に近づいた。私の父と同じ世代の寺尾さんは少し息が切れている。でもまだまだ階段が続くぞ。ようやく登り切ったところに高知名物のアイスクリンの屋台が見えた。アイスクリンは乳脂肪分がソフトクリームなどより低く、さっぱりしていてシャーベットに近い味が特徴。私も遍路の時に何度か道端で販売しているものを食べた。ま、今回はケチって食べなかったんだけどね。ようやくたどり着いたぞ、天守閣。みんな記念写真なんか撮っちゃってるな。つーか、オレのカメラ意識してんじゃねーぞ。ボクは城を撮りたいだけなんだ。ともかく天守閣兼資料館に入ってみっか。おのれ容堂、覚悟しろやジブン。突撃じゃー! ってなテンションで。明るい中庭が見えた。こちらは欄間で土佐湾の波を表現したという部屋。欄間(らんま)とは障子や襖と天井までの空間のこと。つーか、欄間写ってねーし。落ち着いた木の廊下と中庭。年期の入った黒い柱と中庭。庭には、二羽の鶏が・・・・・・いる訳ねーか。高知の家臣団編成。高知城天守閣から市内を眺める。結構ビル多いねぇ。昔の城下町。幕末の海路。龍馬も確か船で江戸に向かったんだったよなぁ。幕末の主要人物たちをズラーっと。中岡慎太郎は武市瑞山の道場に入門して剣術を学び、後に土佐勤皇党に加盟。そして京都の近江屋で坂本龍馬と共に襲撃され二日後死亡。享年30歳。150年ほど前、幕末明治維新のエネルギーが土佐で生まれた。一般的に革命が起こるその際、重要なのが必ずその閉塞感を生む社会構造になっていることだ。幕末の土佐においてそれは山本容堂が率いる土佐藩であった。彼は土佐に閉塞感を生み出し龍馬ら明治維新の反撥エネルギーを創ると同時に大政奉還へ向けて結局は新たな時代を動かす力となった。つまり。何か時代が大きく動くときには必ず悪役とも言うべき人物が閉塞感を生む役割を演じているのではないだろうか、ということ。ん?これってラオウとケンシロウの闘いと同じだ。ともかく明治維新のその後、同じ土佐の国から出た板垣退助が自由民権運動を主導、岩崎弥太郎が三菱財閥を創出し、日本が真の民主主義国家となる礎を築いた。土佐は新しい何かを生む力を秘めている土地かもしれない。明治維新は身分を自由に解き放った。次は、精神の自由を。「ねはんの里」