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碁法の谷の庵にて

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2006年07月24日
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カテゴリ:その他雑考
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 島谷さんのところで、ちょっとやりあった。


 一もみした上での感想を言えば、島谷さんの発想は「ある意味では」物事を合理的にとらえていると評価できると思う。

 Aの過誤を守るためにBの過誤を低く設定するのは治安の悪化につながるという。
 この発想については以前こっぴどく非難したが、これは数学的に見ればある意味では物凄く合理的な発想であることは、私自身認める。被害者の数と言う面では、確かにこれが理想形であろう。

 そして、いかに建前を主張しようと、数的合理の一切を放棄することは不可能である。

 私は法律学をかじっているから、当然物事の建前に目が行く。そして、建前を見ていけば、決して建前がどこまでも合理に貫かれたものとは考えられないことは否応なく悟らされる。
 裁判官にとって判断を分かりやすくするため。権力の濫用を防止するため。一番大事な部分を守るため。そんなことで、諦めざるを得ない「合理」は世の中にいくつもある。

 その「合理」を阻む最大の敵は、実は憲法で保障された基本的人権とされるものであると正直思う。
 人権は公共の福祉に合致するように制限されるが、では公共の福祉とは合理に合えばなんでも制限していいのかと言うとそこは断固ノー、と言う領域があるのが難しいところである。つまり、日本国憲法は「個人の尊厳」を保障するもので、およそ尊厳をぶっ壊すような領域については公共の福祉論と言えど制約禁止の部分がある。確かにこの制限は合理的だからOKというようなこともある。だが、単純に合理性があるというだけでは許さんと言うこともある。
 個人の尊厳をおよそ放棄させてしまうようなもの、またせっかく憲法の条文に定めたものを無にすることは許されないだろう。

 刑事法の世界では、特にそれが多い。刑事処罰は捜査にせよ処罰にせよ個人の不利益が大前提なので、個人の尊厳を放棄させるような行為と許すべき行為の境界線は薄く、すぐにあれもだめこれもだめと言うのが出てきやすい。ダテや酔狂で日本の憲法は人権条文の三分の一を刑事法関連に投入してはいない。

 限りなく疑わしくても合理的疑いを超える証明がない限り処罰できない「疑わしきは罰せず」の原理。
 いかに処罰が妥当な人間でも法に規定がなければ処罰できず、しかもその規定の範囲内でしか処罰できない「罪刑法定主義」。
 奴隷的拘束の禁止(憲法18条)や残虐刑の禁止(憲法36条)はいかなる犯罪に対しても絶対禁止だし、適正手続を省いての処罰がいかに数的に見て合理的でも、手続は刑事問題で人権を守る最大最後の砦。それをおよそぶっ壊して国家の思うままフリーパスですというようなことは認められない。
 また、犯罪を防止するためだからと言ってやっていいことにも限度がある。「国民全員」に発信機を埋め込んで街頭に限らず住居に全て防犯カメラを設置し、ついでに定期的に犯罪意図がないかポリグラフでもかければかなりの犯罪が抑止あるいは検挙できるだろうが、費用対効果以前に身体不可侵や令状主義違反で違憲とされるだろう。例えそれによって殺人が全て防げるとしてもだ。
 例え「こいつに限って大丈夫」と思ってもアリの穴から堤崩壊。本当に大丈夫じゃない人間を大丈夫と誤認したときに目も当てられないことになる。

 フランス革命のすぐ後とか、日本でも戦前の軍部が台頭していた頃を考えるなら、これらは「国民の権利を守るために絶対必要だ」と言えば誰が相手でもそれなりの説得力があったかも分からない。だが、今どきそんなことないからそんな原理は放棄あるいは後退させちゃってもいいんじゃないの、と言う発想はある意味では当然かもしれない。


 それを当然のこととして受け止めるには、ある一定の価値基準を身にしみこませるしかない。私は割合すっと入っていけたが、人によってはそのような価値基準の受け入れは相当な苦痛を伴うのではなかろうか。
 だが、人間(日本人?)と言うのはどうも不合理な生き物で、同じようなことを微妙にあっちではああ、こっちではこうというのがある。



 こんな例えはどうだろうか。前者は先日死刑制度について調査していて見つけた、一橋大学の後藤昭教授の出した例え、もう一つは司法試験受験教育で有名な伊藤真氏の書いた入門の本に元ネタがある。(厳密に一緒ではないのでその辺注意)
 相当非現実的な話ではあるが、例え話なのでお目こぼし願いたい。

「瀕死の患者10人がいる。全員に臓器移植をすれば何とかなるのだがドナーが現れない。
そこで通りかかった人を検査したら見事全員に一致した。
しかし、10人を確実に助けられるとしても、彼を殺して臓器を配分することは許されない。」


「凶悪殺人鬼11人がいる。全員死刑相当であり、釈放したら再犯をする可能性が高い。
ところが、11人のうち1人が無実であることが明らかになった。しかし、誰かは分からない。
10人により再犯されることが十分予想されても、一人のために全員釈放しなければならない(分かるまで刑務所と言うのは×)」



 前者については、何の罪もない人をとっ捕まえて殺すことは、彼の個人の尊厳の否定である。
 例えそれにより10人助かって、10人や国から十分な慰謝措置やなされ、名誉がはかられたとしても、断固許されない。この辺は、多くの人が上の見解に賛同するのではないか。

 だが、後者となると見解が分かれることであろう。
 死刑にするとなれば慰謝措置も名誉も何もないが、それでも見解はかなり分かれるのではないかと思う。むしろ多数派は後者の見解を支持しないのではあるまいか。

 同じ人が死亡するという事態でも、なぜか犯罪、それも故意の犯罪になると人々の目の色は変わる。
 そして、なぜか何の罪もない人を犠牲にしてでも新たに被害者を生まないということを重視する場合があるように思う。
 はっきり言って私自身もその考え方はなんとなく理解できるのであるが、この2つの相違を理屈で説明する方法は私には思い浮かばない。病気が天災で殺人は人災だから?臓器移植が必要になる原因が必ず天災であるとは限らないではないか。
 そういう意味では、人々は合理を求める一方で情緒にも支配されており、そういったところはなかなかの難儀である。以前寿命が数日縮まる尊厳死はダメで寿命が20年、30年と縮む不健康の放任というOKと言う風潮は理解できるものの情緒的、という強烈な書き込みがあったが、それと似たようなものかも分からない。(こちらは立法によって何とかできないわけではないと思うが・・・)


 法律家としては、いずれにせよ個人の尊厳の最高価値である生命を本人に何らの責任なく侵害するということで、許されないということになる。
 たとえそれで死者が出たとしても、それは運命(これは相当突き放した言い方だが、他にいい言葉が浮かばない)ということになり、殺人の場合なら11人から無実の1人を抜き出せなかった権力者の無能(日本は民主国家だから、国民全体の無能と言い換えてもよい)や、釈放されてなお殺人に手を染めた犯人を処罰したり呪ったりするほかないということになる。



 これまで、色々言ってきたが、憲法の方にもちょっとメスを入れてみたい。
 「個人の尊厳」なる思想だって、かなりの情緒的産物で、情緒的支持がなければ残れないものである。もちろんそれを認めさせるまでに多大な血が流され、先人たちの命を賭けた努力があったのは事実だが、科学の実験のような具体的根拠があるわけでもなく、単なる宗教的幻想の産物であることは否定できないだろう。

 個人の尊厳を守る発想と日本人の持つ独特の感覚のズレ。そして前者が憲法とされ、世界中で支持を受けているようになっている。そこに奇妙な現象が生じることになる。先日の安田弁護士バッシングなんかもその一つだろう。


 ここで人間の持つ不合理な感覚を一切排除するか、国際的総スカンを覚悟で日本人の持つ独特の感覚を新たに憲法にするか。
 さもなくばうまく両者の融和を図る必要がある。





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最終更新日  2006年07月24日 17時50分47秒
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