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碁法の谷の庵にて

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2011年09月27日
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 陸山会事件について、小沢一郎氏の元秘書3名に有罪判決が下ったことについて、情況証拠による有罪認定はおかしい、という批判が渦巻いているようなので一言。

 なお、事件の証拠関係はみていないのでこの件の有罪判決が妥当かどうかは論じかねます。





 大前提として、日本の刑事訴訟法は証拠によって事実認定をします。(刑事訴訟法317条)
 他方で、その証拠で有罪認定に十分かどうかを判断するのは裁判官・裁判員の自由な心証に委ねられています(刑事訴訟法318条)。ただし、自由というのは「○○があれば有罪、○○がなければ無罪という縛りをかけない」という意味での自由であり、その心証はあくまでも合理的なものでなければならない(合理的心証主義)、と考えられており、この考え方は今日の学説実務で異論はないと断言してよいでしょう。


 その上で、刑事訴訟法上証拠については、概念がいくつかあります。

 今回話題の情況証拠(状況証拠でも別に誤用ではない)は、「犯行を直接立証するものではない証拠」です。
 これに対する概念が「直接証拠」で、「犯行を直接立証する証拠」です。(情況証拠もこれと対で間接証拠と呼ぶのが主流ですが、今回は一般的用語に合わせて「情況証拠」を使用します)


 直接証拠の犯行を直接立証する、というのは、推認過程が要らない、ということです。つまり、この証拠が本物で、信用できると判断するなら、即有罪判決を下す心証が取れることになります。
 直接証拠にあたる証拠としては、犯行目撃証言や自白(共犯者含む)があげられます。(自白の補強法則は今回はパス)

 ・・・逆に言うと、実は直接証拠にあたる証拠というのはそれくらい(後は犯行を撮った防犯カメラの画像くらいか?)なのです。


 これに対して、情況証拠は、推認過程が入ります。

 つまり、情況証拠で立証できる事実があっても、犯罪事実をいきなり立証できるわけではありません
 例えば被害者をナイフで刺したという事実で起訴して、とあるナイフに被告人の指紋がついていたという鑑定書が出てきていたとします。
 が、仮に鑑定書が信用できてもそれは「とあるナイフに被告人の指紋がついていた」ことしか立証してくれません。別にナイフに指紋を残すことは犯罪でも何でもないのです。
 ナイフに被告人の指紋がついていた+とあるナイフが凶器であるなどという犯行そのものではない間接的な事実(間接事実)を積み重ねて初めて、「ということは、被告人がこのナイフを使って被害者を刺したのに間違いない」と推認することになります。


 そういう意味では、直接証拠より情況証拠の方が、推認の過程が入る分危険、と言いやすいでしょう

 その推認の過程で強引な考え方から有罪心証を取ってしまい、冤罪になる…というのは別におかしな話ではありません
 先述のナイフなら、確かに被告人の指紋のついた凶器のナイフだったけど、もともと被告人の所有物だったから被告人の指紋は犯人かどうかにかかわらずあって当たり前だし、たまたま現場近くにあった物を第三者が使用した可能性もあるのに、それをあり得ないと切って捨ててしまい、結果冤罪につながった、なんてことだってあり得ます。
 この推認は慎重に行う必要があり、過大評価は厳に戒めながら認定しなければなりません

 そういう意味では、情況証拠に基づく事実認定に対して疑念を抱く心情は間違っていないといえるでしょう。



 ただしです。「なら直接証拠なら問題ないのか」というとそうでもありません。
 直接証拠には直接証拠の難点があります。「情況証拠による事実認定が使えない」と言うのはそれはそれで大問題なのです。
 恐ろしいいい方ですが、情況証拠で認定しないやり方は、かつて拷問によって悲惨な冤罪を生んだ考え方と性質が同じなのです。


 先述したとおり、一般に直接証拠として犯罪を立証するものと言えば「自白(共犯者含む)」と「犯行目撃証言」くらいです。

 犯行目撃証言etcは、「そもそもない」場合が少なくありません。犯罪は人に見えない所で行われるものが主流です。防犯カメラの映像でも大同小異でしょう。
 あるとすれば被害者の証言が比較的多いでしょうが、被害者の証言が被害感情や不適切な警察などでの聴取からおかしな方向に行ってしまい、結果冤罪に寄与してしまう例など別に珍しくもなんともありません。仮に第三者の証言であっても、本当にきちんと見ていたのか、別人と見間違えていないか、不適切な警察などでの聴取で誘導されてしまい、おかしなことを言ってしまっていないかという問題は常に残ります。

 自白なら、冤罪でなければほとんどの事件で得る可能性があるでしょうが、自白を取りたい故の過度に厳しい追及から虚偽の自白をしてしまう例は、現代でもあることは常識に過ぎないでしょう。
 共犯者の自白の場合、真犯人が情状を引き出すために第三者を引きずり込む、引っ張り込みの危険も常に指摘されている所です。


 そして、歴史的に見れば、むしろ直接証拠なしでは有罪にできない、という考え方を脱却して、証明力判断を裁判官に委ねる自由心証主義、という考え方につながっているという点も見逃せません。刑事訴訟法の学者の書いた教科書ならまず書いてあります。

 昔は直接証拠(大体自白)なしでは有罪にできないというルール(法定証拠主義)になっていました。そうすると、頑強に否認する被告人は、やったやってないに関わらず放免するしかありません。流石にそれはまずい、ということで許容されてきたのが、いわゆる拷問です。
 近代に入り、拷問のまずさが認知されました。また写真機なども発達し、証拠を簡易に公判廷に持ち込むことが可能になりました。それで「では自白なしでも間違いないといえるのならば有罪にできるようにしましょう」という考え方から生まれたのが、自白を有罪の要件としない自由心証主義です。この自由心証主義は、自白の強要を捜査機関に強いる法制度からの解放という意味もあったのです。

 ここで情況証拠による事実認定が危険であると言って、内容に踏み込む以前に否定するのは、自白、あるいは採取の可能性が低い直接証拠としての目撃証言etcがなければ有罪認定できないということにつながります。結果として、自白の強要による冤罪、あるいは「否認すれば逃げられる」という結末につながりかねません。
 自白に頼らない刑事裁判を作っていくことは、逆に言えば自白以外の有罪認定の手法とセットなのです。


 もちろん、事件によってはそれでも自白に頼って有罪立証をするほかない場合があるでしょうし、現に自白強要による冤罪が起こっていることも周知の事実です。
 情況証拠の前記した特質に注意して、厳密に認定すべきであるのに今回の判決は厳密ではなく、決めつけが多かったという批判(一例として、こちら)ならば十分ありだと思います。

 しかし、情況証拠による事実認定だから危険だ、ダメだ、という論調は実を言えば歴史的に見て刑事裁判の基本的な流れに逆行する主張なのです。
 まあ、それくらい厳密に、後は否認されたら処罰できなくても仕方ないんだ、とでもいうのなら、それはそれで筋が通っていますが…。





 ちなみに、物的証拠という概念がありますが、物的証拠は法廷で証拠を裁判官に見せる際にどうやって見せるのか、という方法論の問題にすぎません。
 物的証拠ではないものは人的証拠、つまり人を連れてきて法廷で喋ってもらうことで証拠にするものを指します。

 金田一少年の事件簿やら名探偵コナンあたりで名探偵に追い詰められた犯人がそれはただの状況証拠だ、物的証拠を出せ、と騒ぐシーンがありますが、物的証拠であるが状況証拠でもある、というのは全くおかしくない現象として成り立ちますし、直接証拠だからOKで間接証拠だからダメ、ということもないのです。





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最終更新日  2011年09月27日 19時54分22秒
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