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レトリックの知。左翼思想というウロコ。
「超芸術トマソン」「老人力」の発見者として知られる芸術家、赤瀬川原平翁のエッセイ集。表題「日本男児」はたまたま本をまとめる際に居合わせた人の呟いた言葉から来ています(直接繋がる話はない)。 赤瀬川翁のエッセイを読むと毎回感じる事は、あまり他の人が使わない“論”の進め方をする人だな、という事。 ロジックじゃないんですね。 しかし、きっちり「真偽」で判断する、そういう“知”のあり方以外に、「納得できる」「共感できる」、アレゴリーやメタファーで“論”を進めるやり方があって良いと思います。 いわば、レトリックの“知”。 むしろ、こうした“知”のあり方こそ今後注目されるべきでしょうね。 また、この点に関連して気が付いた点。 赤瀬川翁は、しばしば身体に関連したメタファーを使います。 万人が「身体をもっている」。当たり前の事ですが、実はこの事が重要な意味を持っていると思います。身体(感覚)を持っているからこそ、我々はそれを共通の土台として他者に共感する事が可能なんですね。 この理屈と軌を一にしているのだと思います。(たぶん赤瀬川翁は意識していないでしょうが)。 面白いと思った箇所。 「まえがき」 (p7)「生活が長引くと、みんな住人という玄人になる。玄人の目はもちろん必要である。生活の上ではそれが基本かもしれない。でもその一方で、玄人の目は素でなくなっていく、という弱点がある。」 「この本の隠れたテーマは“目からウロコ”である。」 (p9)「どうも気にかかる問題の奥には、いずれも『自由』というものが見えた。」 (P10)「自由は、近代化のための素晴らしいウィルスである。でもじつは、自由の中には善玉菌と悪玉菌がある。だから免疫不全の人間がすべての自由を体内に取り込んでいると、当然の事ながら、悪玉菌が活躍をはじめる。」 「この自由の悪玉菌は、別名、左翼ウィルスともいわれる。戦後日本の多くの人は、この左翼ウィルスの保菌者である。」 「男が合理化された」 日本における父性喪失の遠因を住宅環境の変化、特にトイレの変化にあると著者は睨む(^O^) 。椅子型座り式便器に向かって小をする時、汚さないようにするには、どうしても、男は少し腰をかがめて、顔は俯き加減で、何となく「すみません」の格好でしなければならなくなる。父性の喪失の第一歩だと筆者は述べている。 おぉ、鋭い(^O^) 。 しかし、これ腰の屈め方が「少し」だから良くないのではないか。グッと90度に脚を曲げて(空気椅子)、「事」を行えば、飛沫も飛ばず、腿も鍛えられて、良いと思う。 「子供を奉公に出す」 (p27)「子供に『我慢』を、この文明社会の中でどう教えるか。子供たちにものごとを強制する環境をどう与えるか。何かいま、ジロリと睨まれる視線を一斉に感じた。」 「いちばん現実的な形は、やはり軍隊生活ではないだろうか。徴兵制をもって、若い日の一、二年間を兵役に服する。いま物凄いジロリを感じた。第一波のあと、それに習った第二波がジロジロときたみたいだ。」 (p28)「とにかくいまほど強制という言葉の忌み嫌われている世の中はない。強制は全て悪で、自由はすべて善と思われている。強制も自由も、さまざまな相関関係の中にあるのに、自由というものが、目の前に持ってこられる物品のように扱われている。」 「夜型生活の頃」 (p30)「黒い色が好き、というのはインテリに多い。知識人というか、知的な人というか、そういう人々に黒を好む人が分布しているように思うが、どうなのだろうか。」スノビズムの指摘か。 「主義と人生」 著者の青年時代の思い出。不毛な座り込み活動を続ける労働運動の闘士達が出版社にいた。担当の編集者Tさんに聞くと、彼もこの先勝ち目は無いでしょうとの返事。(p44)「でもそうすると、あの人たちは何のために・・・・、とこちらが心配顔で質問すると、Tさんはあっさり、『まあ、それも人生』と言ってにこにこしている。僕は一瞬、頭が止まった。え・・・、人生という言葉は、そうやって使うのか。(略)Tさんはにこにこしているけど、人間のにこにこ顔も、苦悩した顔も、等しく人生なのだ。その時以来、人生という言葉の実質がズキンとぼくの頭に焼きついて、今日まできている。」 「頭を警戒すること」 三木成夫の発生生物学に触発された話。 人体は内臓部と体壁部から出来ている。内臓は栄養吸収の場で、内臓だけならその存在はほとんど植物に通じるという。その内臓を護るのが体壁。その体壁部から手足が伸びて移動し始めたのが動物。植物を四輪駆動にしたのが動物といえる。 で、動くためには環境を察知しなければならない。そしてその感覚を統合し動きを指令する器官が必要。それが脳。 つまり、脳とは体壁部の発達した部分である。(p50)「つまり頭は壁なんだ。生命の内臓を護る壁の一部だ。」 では、心はどこにあるのだろうか。(p51)「それは頭では考えにくい、ということである。(略)今ふうにいうと、アタマテキに考えにくい。いわば、頭で考えるという作法の外側にある。そこをあえて頭的にいうと、心の中心は内臓にある、でも内臓は野菜を通じて畑に繋がり、魚を通じて海に繋がり、だから体の外の環境にも心は分散している。」「問題は、こうやって考えているのは頭によってであるという事。心は考えたりしない。心はただ感じて、ふくらんだり、縮んだりしている。」「ここで問題は、頭には権勢欲があるということである。心にはそれがない。内臓は飢えれば食欲によって飯を食うが、満腹以上に食おうとはしない。それを満腹以上に食おうとするのは頭だ。」(p52)「とにかく頭がすべてではなく、内臓を護る壁部分なのだと、それを頭で自覚することはけっこう難しい。」 「左翼マインドコントロール」 (p63)「若いころの頭の考えは直線的に進みやすいから、だいたいは左翼になるものだ。左翼というのが古いなら、反権力、反体制。要するに自分はともかく世の中間違っている、というところに頭の考えは行きつく。」(p64)「それがしかし歳をとったこともあるのか。人生には挫折や崩壊や幻滅が地雷のように待ち構えていて、直線コースでの歩行が正義とはいえなくなってくる。それに自分には宗教心はないけど、世の中には宗教や信仰というものが、ほとんど原始の時代から消えずにあるようで、それが何なのか気になってきた。神や仏の、仏は何となくわかったことにして、神というのが一段とわかりにくい。そのわかりにくさの中に天皇もある。」 (p66)「(一般参賀に初めて行ってみた話)ふと見ると前を進む男の首が太い。髪がパンチパーマだ。右翼だと思った。おばさんがいて、おじさんがいて、若者の男女もいる。この人たちはどういう右翼だろうかと疑った。途中に普通の服装の若者が何人か立っていて、みんなに紙製の日の丸の小旗を渡してくれる。こういうふつうの優しそうな顔の右翼もいるのか。(略)長和殿の前の広場は人がいっぱいだった。右翼の特徴は何だろうかと目を走らせた。」(p67)「東京の言論界とは縁の薄い人たちなのだと、そう気がつく間もなく、群集にさっと感情がみなぎり、広場でいっせいに日の丸の小旗が振られた。」「参賀が終わり、みんなゆっくりと出口に向かいながら、パンチパーマはただのパンチパーマに見えてきて、その感覚に晴々とした。冒険を成し遂げたという実感に包まれた。肝腎の天皇のこともさることながら、それまでじわじわと固まっていた自分の中の縛りのようなものが、あっさりと外れていった。頭の上の方から忍び込んでいた左翼マインドコントロールが、体の隅々からきれいさっぱり流れ落ちていくのを実感しながら、人には見えない冒険があるのだと思った。」 (その2に続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年11月08日 07時39分34秒
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