私の問題解決の考え方 第14章2

14.3 「私の問題解決の考え方」の位置づけ

この考え方は、縁が目の前に現われたときに、縁の効果をできる限り大きくするために必要なものであると考えられます。

☆目的をきちんと認識する。

 本当にやりたい(やるべき)ことか?

 有意義な目的か?

☆まんずやってみれ!

縁に飛びつくかどうかの判断は、慎重に考えたら難しいところですが、私の場合、これは勘でしょうか、良いと思ったら素早く飛びつきます。これがまんずやってみれ!の駆動力になるのです。

どんな問題でも、まず始めなければ解決できません。前もってあまり考え過ぎない方がいいのです。考えるのは、やりながらでいいのです。やりながら考えた方がいいのです。

いろいろやってみて、何をやるべきかを探すのです。そして、見つけたら、行動に移し、その都度、結果を見て、次にやることを考えるのです。このような行動を繰り返して、問題を解決していくのです。

このときには、やっていることが正しいかどうかがだんだん分かってきます(次項参照)。

しかし、今やっていることが正しいかどうかが分からないこともあります。そうすると、いくら頑張っても解決が進まない可能性もあるのです。

どうしてもうまく行かないときには、思い切って最初に戻らなければならない場合もあります。よく考えた結果であっても、これはとても難しい判断になります。始めたときよりずっと難しい決断になります。

これまでのやり方をまず変えるという勇気が必要なのです。これは最初の「まんずやってみれ!」より何倍も難しいことですが、そうしないと問題解決は不可能になる可能性があるのです。

「まんずやってみれ!」というのは最初だけでなく、途中の過程でも忘れてはいけないことなのです。



☆チェック機能付き試行錯誤法

「チェック機能」付きというのが、私のやり方の特徴です。

この方法は「まんずやってみれ!」と密接につながっています。

まず何かを始め、試行錯誤しながら、答えに近づこうとするのです。何かをやって、それが目的に照らし合わせ、良いか悪いかを判定できれば(チェック機能)、解決までの時間を短くできるのです。このとき、悪かったときの解析と対策の発見が極めて大事です。

ここが、私の問題解決の考え方のポイントです。しかし、このチェック機能を毎回見つけられる保証はありません。私は、これまで、多くの場合は、見つけることができていますが、とても難しい問題に出会ったら、最後まで見つからない可能性もあります。

本当に新しい問題の解決では、初めのうちは、浅く、広く、いろいろなことを試すのです。なるべく白紙状態で、思い込みのない状態で臨むのです。遊び半分でいいのです。興味に任せてやってみるのです。自分の頭の中では考えられないような可能性に試行中に気づくかもしれません。

あまり早い段階で進む方向を絞ってしまうと、正しい答えに辿りつけないこともあります。ん。

よく学校で教えられる「仮説を立ててやってみる」というやり方は、初期の段階では(問題について何も分かっていないうち)は勧められません。それだけの情報がないのです。人間の想像力では、答えに向かった仮説を立てることは難しいのです。

むしろ、やりながら(やった結果を見ながら)、考えるのです。このような繰り返し作業をしているうちに、問題に親しみを感じてくるのです。そして、目的に照らし合わせて、どういう状態なら良い状態か、あるいは、逆に、どういう状態なら悪い状態かが分かってくるのです。

問題を解決するために、いろいろなことを試し始めたときは面倒くさいことだなどと思っても、私の場合、いろいろなことをやっているうちに、少しずつ熱中してきてしまいます。めちゃくちゃなことをやっていても、問題の姿がつかめてくるのでしょうか。作業しながら考えることを続けているうちに、面白いとか、興味深いようなことが出てきます、変なことや不思議なことにも気づくようになります。解決の作業が楽しくさえなります。いつでも問題について考えるようになるのです。いろいろ疑うことも大事です。

この頃には、「会社の」問題だったのが、だんだん「私の」問題になり始めているのです。疑問に思うことがあると、次々と新しいことを試します。

そして、「チェック機能」が見つかれば、問題はほぼ解決と言えるでしょう。



このチェック機能をみつけるまで、具体的にに、あるいは、理屈で、どう進むかを示すのは難しいですが、次の点は、頭においておくといいでしょう。

不良を減らすという課題では、良品を作る努力もいいのですが、不良品がどのようにできるかを考える方がしばしば効果的です。不良が作れるようになると、不良を作らない(良品を作る)方法が理解できてくるのです。



問題を解決するとき、自分のために良い縁があったと言えるためには、その縁に出会ったとき、目標達成のために、倦まず怠らず、誠心誠意、上記の作業をやり遂げるため、最大限の努力を払う必要があります。「縁」の中には、周りからの間接的な効果だけでなく、自分が必死になって頑張るという大事な部分が含まれているのです。これは「いつも」です。



問題解決の際、

まず、世の中には、分からないことやできないことが沢山あることを認識しましょう。

ですから、科学の力で何でも解決できるなどという自信は持たない方がいいです。

しかし、だからといって、解決できないわけでもありません。自分がこつこつと努力をしていけば、かなり多くの問題は解決可能です。自分の力も勿論必要なのですが、自分が認識していない、周りからの「間接的な助け}(縁と呼びましょう)も寄与しているのです。

自信がなくても、とにかく問題解決に着手し、頭を使い、頑張れば、解決ににつなげられる可能性は十分あるのです。

解決した後になって確率論的に考えると、このような結果になることは決まっていたのです。今となっては、これまで起きてきたことは「自然の流れ」なのです。その中に私が必死で頑張ったということが勿論含まれています。

これを大胆に言い換えてみると、

問題解決開始時に、解決されるのは決まっていた(自然の流れでこういう結果になる)。但し、私が必死で頑張るという条件付きで、

ということになります。

これは、こじ付け的な考え方ですが、計画性に乏しく、自信のない私にとって、極めて有効な考え方なのです。問題解決に当たって、解決の自信が全くなくても、とにかく直ぐに着手し、必死の努力をすれば、「縁」の助けで(自然の流れで)、問題は解決すると考えるのです。

万が一失敗した場合は自分の頑張りが足りなかったことになります。他人のせいにはしないで、反省し、次回はこうならないような対策を考えます。あるいは、この、失敗したことを「縁」として、もっと大きな問題の解決につながるかもしれません。


14.4 まとめ

私の論文に対する「縁」の影響について書いてきました。一見「自然の流れ」のような(時の流れに身を任せのような)状況であったのに、私のいろいろな研究が一つの話にまとめられたのです。

与えられた仕事の各々は、そのときどき違い、ばらばらなものでした。私も強いてそれらを全部まとめようとなど思ってもいませんでした。それぞれ、それだけで大変で、目の前の仕事で精一杯でした。

それが、研究を進めていると、関連のあるものが少しずつ現われてくるようになりました。しかし、私は故意に研究をまとめようとする余裕はありませんでした。それなのに、このようにまとめられたことはちょっと信じられません。元々関連のない問題だったら、私の意思と努力があっても、できなかったでしょう。また、会社が意図的に関連のある問題を選んで、私に与えてくれたというのも考えにくいことです。

今になって考えると、このようになる「自然の流れ」が元々あったとしか考えられません。当時、会社でそのような問題が出始めて、それに対する研究も行なわれるという流れです。その過程で、私が関与した部分がかなりあり、それらをまとめることができる、という、私にとって、思いの外ありがたい成果になったのです。

(いや、それだけでなく、会社へ入る前と会社を出てからの、私の問題解決を含めても、私の行なってきた研究に、同じ「問題解決の考え方」が有効であるということも分かったのです。これもとても示唆に富む結果です。)

会社の研究で私がやってきたことは、その折々、そのときの研究を自然の流れに乗せ、それが自分の望む方向へ流れるのを「助ける」という役割を果たしたとも言えそうです。それにより、そのときには意識していなかったのですが、ばらばらな研究が一つの大きな研究にまとまってきたのでしょうか。

私はそれを意図していたわけではないので、望外(想定外)の喜びです。「自然の流れ」というものが、私にこの役割を与えてくれたとも考えられます。30年ぐらいにもなる私の(本当は会社の)研究がこのようにまとまるのは、とても驚くべきことです。そのときどきの問題を解決しようという意思は働いていたものの、全体をまとめようなどということは夢にも考えていませんでした。(無意識状態で、私がそのような意思を働かせていたのでしょうか。いい加減な私にそのようなことを考えられたのでしょうか。)



つまり、この世の中には、「自然の流れ」(もっとも確率の高い進み方)という縁があって、その流れに乗るきっかけが現われたときに、直ちにそれに飛び乗り(まんずやってみれ!)、私が最善の努力を尽くすことで、個々の問題の解決だけでなく、全体のまとめまで行なうことができたのです。

そして、私が考えたり、努力したりすること全てが「自然の流れ」に寄与していたというか、その一部だったのです。



このことについてもっと考察しても、結局は解明できないことになるでしょう。ですから、これ以上の詮索は止めて、この縁をいただいたことをありがたく受け入れ、感謝することにしましょう。

それより、私が問題を「解決」しているときに心がけていたこと(自然とそうなっていた部分もかなりあるので、精神状態とも言えます)をまとめてみましょう。

初めは何も分からないので、白紙状態で始め、思いつくままにいろいろ試した。難しく考えないで遊び心でやった。正直で素直に問題に接した。つまらないことでも、ある期間は試し続けた。面白いことや興味深いことに出会うと、うれしかった。疑問に思うことも沢山出てきた。何か不思議なことでも出てくると、なぜかを知ろうとして、夢中になった。問題に親しみを感じるようになった。やっていることが楽しくなった。だんだん会社の問題ではなく、自分の問題になってきた。これをやってお金を儲けようなどとは思わなかった。偉くなろうとも思わなかった。何か見つけて論文にしようとも思わなかった。ただ、答えを知りたい、完成させたいというような気持だった。

これって、子供みたいですね。そうなんです。私は自分の体験から、研究のやり始めは

「子供のようになる」

のがいいと考えています。



次に、「学ぶ」ということについて考えましょう。そのために学校へいくわけですが、私の体験では、学校で学んだことは本当に身についていませんでした。

私が学んだと思うのは(一部は今になって)、大学へ入る前に、入学試験に備えて、私がいろいろ考え、やった(勉強の内容以外の)ことや、会社に入ってから、難しい問題に出会って、そのときに、自分で実験しながら夢中で考え、自分から専門書を必死で勉強したり、専門家に教えてもらいに行ったときなどです。そのとき、私の知りたい気持、理解したい気持、問題を解決したい気持は最大になっていました。

なお、会社の場合は、仕事としてやるということが大きな要因になっていました。嫌なこと、つまらないことでも、お金のために、いくらかは続けなくてはならなかったのです。また、少しぐらい辛くても、問題の答えを出す義務を感じていました。

仕事の過程で、例えば、私は、会社に入ってから初めて、半導体と絶縁体が金属に対してどう違うかということを実感(身をもって)することができました。半導体の理論の大事な部分も、難しい問題で苦しんでいたときに理解して、応用することができました。電磁気学も、変な編集者に私の論文にケチをつけられ、ケンカしているときに学びました。

私は元々学問を究めたいなどと思っていなかったし、難しいことはあまり学びたくなかったのです。即ち、私は学者ではありません。ですから、私の場合、

「私は苦しまないと何も学べない。」

のです。

ということは、私に学問の一部を学ばせてくれた元わが社に感謝しなければなりません。



最後に、「自然の流れ」のことを考えていて分かったと思うことは、「生かされている」という言葉の意味です。

かつて、私は、共同研究者、私が助けを求めた人達、先方からの申し出で助けてくれた人達等に助けてもらって、自分の研究を行なうことができたと思っていました。その過程で現われた「縁」というものもあって、それをうまく利用したことが研究の成功につながることが多かったと考えていました。そして、これを運の良さと捉えていたのです。

しかし、本章を書きながら、話はむしろ逆で、「自然の流れ」というのが先にあったという気がしてきたのです。私の働きが必要となったときに、その都度、この縁が現われて、私が、これはいい機会だとばかりに飛びついて研究を行なっていたのかもしれません。

30年にもわたる、沢山の、ばらばらだと思っていた研究がまとまってきたのです。しかし、そのときどきは、私はそうしようという意図を持っていなかったのです。後になってまとめられることが分かったのです。これは、私の意思でも、会社の意思でもありません。何か、もっと強い力、「自然の流れ」(確率的にそうなるべくして起きる世の中の変化)です。

この「自然の流れ」の中に、普段は無計画で怠け者の私が、お呼びのときに、それぞれの問題解決のために必死で考え、頑張るという展開が組み込まれていたのです。そして、一方、私はこれらの「自分の研究」をもっと大きな研究の一部としてまとめていたのです。また、個々の研究での、解決のための考え方の共通性についてまで論文にしていました。

でも、今になって考えてみると、私の意思よりもっと大きな力が、私に各種研究をやらせてくれたとも考えられます。

即ち、これが

「生かされてきた」

 
ということかなと思いました。


つまり、孫悟空が大活躍をしたと思っても、実際は仏様の掌(てのひら)の上をうろうろしていただけだった、ということに似ているのでしょうか。

いや、むしろ、私の場合、研究が進まなくて困ったときに、私は知らないのに、仏様が背中を押してくれていたのかもしれません。


これって、次の言葉とも関係があるかもしれません。アナウンサーで僧侶の川村妙慶さんが

「命があなたを生きている。」

と言っていました。

一方、私も、「人生は問題解決」とどこかで言ったと思います。そして、「問題解決」に、「縁」のお蔭という部分が多いとすると、問題解決の連続である人生に縁の影響が大きいということになります。即ち、「生かされている」とも言えそうです。また、妙慶さんの言葉もそういう意味なのではないでしょうか。


14.5 これから

1)私は変わっています。

正確には、原発事故のときからです。

事故が起きて、その恐ろしさを知り、その後の国や東電の対応をテレビや新聞などで見たり、聞いたり、読んだりしました。

さらに、国が原発を日本に導入することを決め、素早くそれを始めた経緯、運転を始めてからの対応なども調べました。

国は、日本が世界大国の一つになれるように、原発を導入することを強引に決めて、その方針を推し進めてしまったのです。石油のない日本には、石油がなくなったときのために、原発が絶対に必要だと国民には宣伝しました。原発は平和のためで、安全で安価だ、としか国民には説明しないで、国策として、原発を次々と作っていったのです。

しかし、主導者の頭の中では、経済発展のために、電気を自由に沢山使える(使わせる?)ようにするだけでなく、軍事的にも、原発を原爆に変えられる、つまり、武器にできることを考えていたのです。

つまり、何が何でも、原発を作る技術を持ちたかったのです。本当は、安全でも、安価でもなかったのにです。

原発の運転を始めてから、事故や不都合なことが起きても、できる限り隠そうとしたのです。発覚して初めてそれを認めるようなことが何回もありました。

一方、国民には、原発が安全で、国の経済のために必要であると、さらに大々的に宣伝を続けていました。このような宣伝や工作費として大変な額の税金を使っていました。



その結果、起こるべくして、原発事故は起きてしまいました。国も、東電も、反省するどころか、全て、津波のせいにしたのです。その後も、嘘、ごまかし、隠ぺいを駆使して、想定外の津波さえなかったら、事故は起きなかったと言い続けています。

これは、真実ではありません。大きな津波が千年あまり前に起きたことは知っていたのです。設計者も対策を考えようとしたのですが、上司に、「千年に一度の津波のことなどは考えなくてもいい」と却下されてしまったのです。津波が起きたときのことを考えていたら、あれだけの大きな事故にはならないで済んだのです。

津波が起きるのは「自然の流れ」なのです。いつ起きるかは分からなかったのですが、貞観の大津波から千年ぐらいの間にまた同じような大津波が少なくとも一回は起きる確率は60%以上あったのです。それを、人間が勝手に無視したから、とんでもないことになったのです。人間が悪いのです。


一方、私は、上記のような事実を知り、原発をこれ以上続けてはいけないと確信しました。原発の施設も対策が必要ですが、それより、原発に関わっている人達にもっと大きな問題があるのです。彼等は、国民の安全のことを第一に考えていないのです。こちらの話も通じません。人間同士の付き合いが難しい人達です。


この時点で、私は変わりました。

原発反対の署名運動に協力したり、反対のメールを首相官邸、国の関連省庁などへ沢山送りました。

しかし、署名はなかなか目標の数に届かないし、メールの反応もなし、原発を止めるどころか、再稼働の準備を進めるし、外国へ輸出しようとさえしています。

国は反対意見が多いにも関わらず、聞く耳を持たず、これから原発をベースロード電源にしていくつもりです。そして、再生可能エネルギーのことは本気で考えていません。

国策として始めた原発を何が何でも続けたいのです。

追及されても、自分達の非を認めません。原発が日本のために必要だと言い続けています。

私達庶民が質問しても、追及しても、意見を言っても、無視されることがほとんどです。

マスコミなどの追及にも、はぐらかしたり、はっきり言わなかったり、嘘をついたりします。

署名運動で集めた署名も一部国に提出されているのですが、それでどうなったのか分かりません。

あんなに大きな事故を起こしておいて、津波のせいにして、責任を取ろうとしないのです。警察や検察も動きません。告訴しても、不起訴になってしまうのです。

原発を止めてしまってはいけないとしか言わないのです。そして、再稼働を促進し、輸出までしようとしています。

これでは、何を言っても、人間同士の対話になりません。焦燥感を覚えるだけです。


企業が不祥事を起こしたときも、いくらか似たような状態になります。食品の偽装が沢山発覚したときに、阪急阪神ホテルの社長の言葉「偽装ではなく、誤表示」が思い出されます。



私事でも、似たような経験がありました。あるホテルと住宅会社に苦情を言ったときの先方の対応です。口では、ご迷惑とご心配をかけたとか言って謝るのですが、こちらの指摘や質問に正直に答えないのです。そして、会社として、会社の悪いところを認めないのです。他の部門だの、担当者のせいにするのです(どちらも間違い)。

さらに、彼等は、これからのきちんとした行動で償いたいとか言ったのです。

これらのことに対し、なお追及したら、ホテルの方は、私の言った通りだと認め、謝罪の手紙をくれました。しかし、これは、私が社長にも手紙を出したからであって、当事者はそれほど悪いことをしたとは思っていないような気がします。社長からは何の返事も来ませんでした。

一方、住宅会社の方は、結局、全てを担当者のやる気のなさのせいにして、社員の教育に力を入れるという答えでした。本当は、この会社の、何が何でも契約数を上げろという至上命令で、営業担当が契約を取ることしか考えなくなってしまったからでした。その結果、契約後の仕事が疎かになっていたのです(ですから、担当者のやる気がなかったどころか、彼は沢山契約を取りすぎてしまったのでした)。しかし、会社は最後までこれを認めませんでした。

私の場合も、どちらも、悪い点を指摘しても、話が通じないという印象が強かったです。人間同士の話し合いにならないのです。


こういうことから、国や東電に対しても、国民の多くは、何を言っても駄目だと諦めてしまうところがあるのではないでしょうか。世論調査では原発反対が多くても、原発推進派の自民党が選挙では勝ってしまい、安倍政権の成立を許してしまったのです。

1000万人の原発をなくすための署名運動でも、3年以上経っても、まだ目標の1000万になりません(2014年8月の時点で844万人あまり)。安倍政権は、原発を日本のベースロード電源にすることを決めてしまい、さらに、再稼働と輸出の準備も始めています。それなのに、支持率はかなり高いのです。

どうも分かりません。危険だけれども、経済最優先で(本当は原発に採算性がないのが分かってきたのに)行くつもりなのでしょうか。国民も、危険ということを、喉元過ぎればで、もう忘れてしまったのでしょうか。

しかし、私の周りでは、原発を止めたい人がまだ圧倒的に多いです。



ここで、「私が変わった」ところへ戻りましょう。

私としては、微力ですが、これまでやってきたことを続けます。小さい努力でも、集まれば、大きなことができるのです。新しい試みも始めています。

国をはじめとする、原発推進派に心を入れ替えてもらいたいと、前より強く思っています。考えてみると、相手は、国とか、大会社など、大きな組織の一員なのです。組織が大きくなり、古くなればなるだけ、その中では、世間では認められていないようなことが正義になったり、真実になっていたりするのです。(例えば、ちょっと信じられないのですが、電力会社内では、原発は絶対安全であると信じ込まされていたらしいです。)

国の関連省庁でも、原発は何が何でも続けなければならない、ということが担当者達の頭に強く刻み込まれているのです。安倍首相のように、日本にもっと経済力と軍事力をつけて、世界大国の仲間に加わりたい政治家もまだ沢山いるのです。経済界もそれを支持しているのです。

私は、反応がなくても、私の意見や指摘をメールやホームページで発信し続けます。フェースブックやツイッターも利用します。皆さんも思っていることを心の中にしまっておかないで、どんどん発表して下さい。

一つひとつの声は小さくても、沢山になると、効果が出てきます。



その考え方で、心が通う人間同士の付き合いの輪が広がるように、私の周りから努力を始めています。他の人にそうしようと持ちかけるわけではなく、私が少しでも多くの新しい人と知り合いになり、その人と楽しく話し合える状態を作ろうとしています。相手の言うことをよく聴いて、こちらの言うことも理解してもらおうとしています。

昨年、ちょうどいい具合に、私は栃木県さくら市に家を建てました。そして、町の人達に親切にしてもらい、知人も増えて、いろいろお話もできるようになりました。

町で人に会うと、できる限り挨拶するようにしています。お店も、なるべく個人の店へ行き、買うときに、雑談をします。私は、かつてはあまりしゃべらなかったのですが、この頃は大きく変わりました。しゃべりだすとなかなか止まりません。自分の町だけではなく、隣町へ行ったときにも、おしゃべりをするようにしています。

これまで相当数の人達と人間のお付き合いができると感じることができました。

しかし、これだけでは、私が好きな人を見つけ、友達を増やしているだけです。



問題は、上記の二つの会社の人みたいに、話が通じない人達です。今の私は、上記のように、何か被害を受けたときには、黙っていないで、はっきりと言うべきことを言っています。怒りは抑えて、こちらの考えを理解させるように努力をしています。何が悪いかを分からせて、これからどうするかを考えてもらうようにしています。とにかく、喧嘩はしないようにしています。

他にも苦情を言った例はありますが、いくつかの場合は、先方が素直に非を認めてくれ、今後起きないようにすると言ってくれました。私の見る限り、うまく行っているようです。

なお、一社は、あられ屋さんでこの店があられとナッツを混ぜて売っていたのですが、ナッツが古くて臭かったことがありました。私が知らせると、直ちに謝罪の手紙が来て、お詫びの印に新しい商品も沢山送ってくれました。しかし、まだ古いナッツが混ざっていました。そこで、また連絡をとったところ、チェック係りの人が原因だということが分かりました。古いナッツにあまり敏感ではなかったのです。

それを指摘して終わりにしました。この会社にも話はきちんと通じました。

ということで、これまで、話が通じる場合の方が多いのですが、・・・



2)さて、原発を止めさせることはできるでしょうか。

論文「私の問題解決の考え方」のまとめを書いていて、どうして国民がもっと大きな声で原発を止めるべきだと叫ばないのだろうかと考えています。

世論調査を見ると、6割以上の人達が原発反対です。それなのに、原発推進の自民党が選挙に勝ってしまうし、安倍政権は着々と原発の再稼働や輸出を進めようとしています。(さらに、集団的自衛権とか、秘密保護法などもあります。)

でも、本音では、原発より経済の方が大事なのでしょうか。大津波も一回起きてしまえば、後はそう簡単には起きないと思っているのでしょうか、それとも、少しぐらい危険でも、豊かな生活を続けたいのでしょうか。本当は、原発を続けてもいいと思っているのでしょうか。

そういえば、1000万人原発反対の署名運動でも、3年経っても、目標達成できていません。主催者は1000万人集まるまでやると言っていますが、800万人あまりであまり増えていないのです。発起人は、10名ほどの良識のありそうな有名人なので、1000万人ぐらいすぐに集まるだろうと思っていましたが、この始末です。私も再度署名集めにもう一頑張りすることにしましたが、皆さんも原発反対であればご協力お願いします。

http://sayonara-nukes.org/

で電子署名ができます。



もう少し考えてみましょう。

でも、私の周りの人達はほとんど全員原発反対で、そのためにもう少し慎ましい生活をしてもいいと言っています(私も同じ)。これは、多分、彼等がほとんど私の友達で、考え方が似ているからかもしれません。

当然のことですが、原発をなくすということは、使う電気の量も減らすということになります。私も節約を心がけるだけでなく、家で太陽光発電も行なっています。実際に、企業でも勿論節電をしていて、太陽光発電などの再生可能エネルギー事業への参入も増えています。

さて、世論調査の結果ですが、原発反対という意見は本当だと思うのですが、今の生活は手放したくないというのが本音ではないでしょうか。今の社会は、電気のお蔭で、とても便利になっています。原発事故のとき、私は、このことをつくづくと感じて、逆に、こんなに電気に頼らないようにしなくてはと思いました。

しかし、驚いたことに、原発後ひとっきり経ったら、一度暗くなった町はまた明るくなるし、自動車の数や人出も前のようになってしまいました。観光地も混んでいますし、海外旅行へも大勢の人達が行っています。

つまり、こういうことではないでしょうか。原発事故は怖かったけれど、私達が生きている間にはこのような事故はもう起きないだろう(これはとても危険な考え方;事故が起きる可能性はちっとも減っていない)。だから、今、経済のことの方が大事だ。原発に反対するより、これまでの生活を続けたい。原発はない方がいいけれど、これ以上事故が起きなければ、今までの生活を続けられることの方が優先だ、などと思っている人が多いのではないでしょうか。

ということで、自民党に投票し、安倍政権のやることを容認しているのではないでしょうか。



しかし、実際には、原発はお金がかかりすぎて、採算が取れなくなっているのです。再生可能エネルギーもどんどん安くなり、この事業に参入する会社も増えていきます。さらに、電力が自由化されると、原発の電気より安い電気がさらに多く使われるようになるでしょう。そうすると、原発の電気は使われなくなってしまいます。

でも、そのときのことを国はもう考えていて、原発を止めるのではなく、国民に差額を負担させてまで、原発を続けられるようにするつもりなのです(こんなことを考えるということは、原発が安価ではないことを既に知っている証拠です)。さらに、国と電力会社は、再生可能エネルギーの導入を邪魔しようしています。このままいくと、日本の借金はもっと増えていくばかりです。

ですから、私達は今から手を打っておかないと、損失が大きくなります。原発を止める決心を、国に少しでも早くさせなければなりません。そうすれば、産業界も、原発の後のことを真剣に考えて、進む方向を決められるのです。国のためにも、その方が得になります。



しかし、このままの状態だと、国も、電力会社もできる限り原発にしがみついていきます(国民の負担で)。その結果生じる危険と損害は計り知れないものです。その後事故は起きないとしても、借金は増えることになります。国債なら増えてもいい、というのはとんでもない考え方です。一つの家族で、親の金なら自由に使っていいと言うのと同じです。いや、親の金どころか、子や孫、その先の子孫のお金まで使っているのです。

このまま行くと、国は、規制委員会が合格と認めた原発を、安全性が確認できたと拡大解釈して、再稼働させるつもりです(規制委員会は安全だとは言わないのに)。

そして、国民から借金までして、日本が世界大国の一つだと威張るために、大盤振る舞いをしています。しかし、原発事故の収拾は捗らないし、放射性汚染も増え続いています。


皆さん! 大勢で声を上げましょう! 私達が原発をどう思うかを、国や東電に知らせましょう。首相官邸に、関連省庁に。地元の議員に、各党に、自治体に、関連の県知事にも。

私達も互いに話し合いましょう。勉強しましょう。新聞も前よりよく読みましょう。私は東京新聞をできるだけよく読むようにしています。この新聞は原発についてかなりきちんと報道しているように感じます。

辛抱強く、何回でも言いましょう。感情的にならず、冷静に。間違いを指摘しましょう、質問しましょう。やってもらいたいことを言いましょう。率直に言いましょう。

私達の安全と安心のために、言うべきことをきちんと言いましょう。

抗議や質問のメールを沢山出しても、ほとんどの場合、自動の受領文しか来ないでしょう。でも、根気よく続けましょう。大勢で。


また、身の回りから、人間同士の付き合いの輪を広げていきましょう。そして、互いに率直に意見が言え、相手の言葉をよく聴くようになりましょう。そうすれば、何か問題が起きても、こちらが素直で正直に振舞っていれば、多くの場合、解決できます。

ところが、個人対お役所や大企業の人の場合は、相手に不行き届きがあったとき、かなりの確率で、こちら(個人)があきれたり、怒りたくなったりすることがあります。

相手は彼等(組織)の常識で対応してくるわけですから、普通の人間同士の付き合いで許されないような言動は、率直にきちんと指摘してあげましょう。怒って感情的になるのではなく、冷静に。

口では「ご心配とご迷惑を・・」と謝っていても、具体的な質問や指摘になると、答えなかったり、はぐらかしたりするのです。嘘をついたり、事実を隠したりすることもあります。責任をはっきりさせないで、お詫びの品でごまかそうとすることもあります。

言っても駄目だと諦めずに、怒りで感情的にもならずに、冷静に、こちらの質問や指摘に一つひとつ答えさましょう。何かもらって終わりにするのではなく。

多くの場合、相手は本当の悪人ではないので、いろいろ質問しているうちに、事実がある程度分かってくることが多いです。どうしても真実を隠していると思われる場合もありますが。

言うべきことはきちんと言いましょう。

(一度、ある大学の学科長さんに、そういうことは世間では許されない、と言ったら、この学校の中ではそうすることになっていると言われてしまいました。)

それでも、こういうとき、黙っていないで、こちらの意見を言うだけでも、言いましょう。



私の「人間同士の付き合いの輪」を広げようという運動は、原発を止めることそのものには、まだ何も役に立っていません。しかし、二つの会社に対しては、話が通じて、私の働きかけが成功したようです。これらの会社とは、その後もお付き合いがあり、前より良好な関係になっています。

それから、他の一社に対しては、表面上は話が通じ、悪いやり方を改めると先方は言ったのですが、本当に心を入れ替えてくれたかどうかあやしいと思います。

もう一つの会社、住宅会社は、非を認めないし、問題が大きいです。言うべきことはきちんと言って終わりにしました。先方は、心の中では、こちらの指摘も、自分達の良くないことも分かっているはずです。でも、心を入れ替えることはしないと思います。

しかし、私個人は、本件では、この営業担当がいたお蔭で、かなり得をしているのです。

こんな会社でしたが、私がこの会社のやり方を早い段階で察知し、本当はやる気があるのだけれど、契約後対応が鈍くなった営業担当を叱咤激励して、私の希望の家をほぼ納期通りに完成させました。このお蔭で、私は元の元気を取り戻し(母が亡くなったばかりのときでした)、ものすごいやる気で家作りに挑戦できました。さらに、私が、設計や工事に口を沢山出したので、今では、私は家作りのプロになったような気分だし、前より人を動かすのがうまくなったようにも思えます。

そして、今メンテナンス担当の人はいい人で仲良しなので、いやなことはあったものの、今は新しい家で、満足な状態にあります。



さらに、私が人間同士の心の通う付き合いの輪を広げ、言うべきことはきちんと言えるようにしたいと思ったときから、振り返ってみると、私がこれをやり始めてよかったという感触があります。

原発はすぐになくならないでしょうが、世の中の人間同士が互いに理解し合えるお付き合いの輪が広がって、悪いことは悪いと率直に指摘し合えるようになれば、お偉いさん達も、私達の言うことを聞くようになるでしょう。

どうせ国は言うことを聞いてくれないと諦めることは止めましょう。どんどん質問し、指摘して、注意しましょう。勿論、原発のことを含めて。



また、予想外のことですが、最近、なんとなくですが、私の周りの状況が私の思うような方向へ進んでいくように感じられます。

もしかしたら、これは、私の期待している効果が出始めた兆候かもしれません。



まとめると、今やっていることが原発を止めさせることに、何時つながるか分かりませんが、やることは意味があると考えられるので、誠実で、率直に、心の通う人間同士のお付き合いを増やしていくつもりです。


しかし、あまりのんびりしてはいられません。

やりたいことを実現させるとは、自分が生きているからこそ意味があるのです。ですから、私自身が健康に気を付けて、実現したとき、自分が生きていたいです。

そのために、私は、もっと緊張感と危機感を持って、一層頑張らなくてはならないのです。

(一方、首相をはじめ、原発推進派のお偉いさん達は、自分が生きている間は、原発事故はもう起きないだろうとか、国の借金は増やしてもいいのだなどと考えて、好き勝手をやっているのです。)


国や電力会社を変えるために、私達がまず変わりましょう!


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