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カテゴリ:友だち
先週の出張。京都では中学時代の同級生宅に泊まった。彼とは年に数回会っているし、別に懐かしくもないのだが。 京都駅の中央口付近で待ち合わせ。駅舎の変わり様には驚いた。ほんのわずかなりとも旅情を感じさせたあの京都駅はどこへやら、延々とエスカレーターが続く大大駅ビルと化している。長い階段を駆けのぼる大会への出場を募る大きな垂れ幕がぶら下がっていた。 駅前の京都タワーの情緒のなさもどうかと思っていたけど、この駅ビルがトドメだな。古都への入り口にふさわしくないこと、この上ない。 友人とふたりで鴨川沿い、二条あたりの居酒屋へ。彼の奥さんがそこで待っているという。タクシーに乗っていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。 「あ、あそこあそこ。あの赤ちょうちん」 と言う友人の声に止まるタクシーから降りたぼくらは、氷雨の中をお店へ。ところがそこは目的の店ではなく、ぼくらが行くべき店はまったく反対方向。コロコロバックを引っ張りつつ、逆向きに歩くこと数分、店に到着。 確かに赤ちょうちんは似ている。が、店構えがまったく違うじゃないかっ! 店の座敷では彼の奥さんが。 「遅いわね~」 「あんたのだんなが思いっきり間違えたんよ」 奥さんは彼の大学の同級生。ぼくも学生時代からよく知っている。しかし、会うのは20年ぶりくらいだ。ふっくらした昔の面影はなく、驚くほどスリムに。逆に、色白の美少年だった友人は、ふくふく横に大きくなった。ものの数ヶ月前に会ったときに比べても、膨張している。 おい、成人病、だいじょうぶか? この友人とは小学校から顔見知りで、特に仲がよくなったのは中学2年の時に同じクラスとなってから。おとなしくいい子、つまりは教師にとって扱いやすいタイプだったぼくが、若い女性教師を泣かせ、職員室に呼ばれるようになったのは、彼のおかげである。 職員室に呼ばれたのも、彼とペア。 「先生のどこが嫌いなの?!」 泣きながらそう問いかける教師に、 「えこひいきするからよ」 と、偉そうに答えたのは彼である。 「そうそう」と、ぼくはうなづき役だった。 彼の家は、お父さんが電器屋、お母さんが着付けと商売をやっていた。奈良漬けを一切れ食べると真っ赤になるほどの下戸のお父さんに対し、一升瓶も平気というお母さん。高校1年の正月に年始に行ったぼくに、「まぁ、飲まんね」と、ドンと一升瓶を出してくれた。 「あの~、オレ、まだ飲めんのやけど・・・」 「なしね!」 なしね、と言われてもなぁ・・・・。 未成年は禁酒ということをぼくの母も知らなかった。炭坑街の女だから? このお母さんの子育ては、ぼくの母のあこがれだった。「大きくなるまで育てたのだから、あとは自分でやりな」ということがとにかく徹底していたのだ。 高校を卒業し、当然のように浪人し、さらにもう一度大学をすべった友人が、ある日、自宅に帰ると玄関に一組の布団が積んであった。こりゃ、なんや?と思った彼に、お母さんは、 「あんたにそれやるけん、どこへでも行き」 とのたまった。 高校まで行かせて、さらに1年間、予備校にも通わせた。もう親の役目は十二分に果たした。あとはどう歩くのか。それは子ども自身の責任なのだ。 子どもをどうしても突き放せないぼくの母は、「偉いよねぇ」と、友人のお母さんのことを、畏敬の念を込めて今もそう言う。 布団を一組受け取った友人は、それを餞別に関西へ。お金持ちの街・芦屋の、お金持ちが住む地区ではない場所にアパートを借りた。どこで聞きつけてきたのか、新聞社の奨学生として新聞配達をしながら、予備校に通い始めたのである。 そのころの彼のアパートに、夏、一度泊まったことがある。 小さなテレビ以外にはなにもない四畳半。ビールや日本酒を飲みながらぐだを巻き、酔って寝た日の翌朝、3時ころ、彼はごそごそと起き出して朝刊の配達に行った。 入れ墨もまがまがしいお兄ちゃんが人生相談にやってきたり、40代も後半とおぼしきひとり暮らしの女性が夜な夜な迫ってきたり、唯一の娯楽であるテレビを「受験生には必要ないやろ」と既に大学生となっていた友人に拉致されたり、他人には抱腹絶倒、本人には涙と哀愁を禁じ得ない話がこのアパート暮らしには山とある。 それは、ぼくのアパート暮らしも同様だった。 あの時代、どうしてぼくらはあんなに滑稽だったのだろう? 新聞配達をしながら京都の大学に合格した友人は、京都駅近くの3畳間に下宿した。東京の大学に行っていたぼくらには、帰省するにしろ東京に戻るにしろ、京都はちょうどいい中間点だったので、途中下車しては彼の下宿を襲った。 ある夏休みにはその3畳間に居候し、彼と共に京都駅近くの喫茶店でバイトをしたことがある。その喫茶店は昔で言うところの「純喫茶」。なにが、どう「純」なのかは知らないが、結構客が入っていた。 友人は、初めて接客した相手がオーダーしたコーヒーを、トレイですべらせその客にぶっかけた。ぼくの失敗は・・・・まぁ、それはいいが、よく首にならなかったものだ。 ちょうどピンクレディ全盛期で、来る客来る客、ジューク・ボックス(懐かしい)でピンクレディのレコードをかける。かける方は一回聞いて帰るからいいだろうが、こちらは一日に何度も何度も「♪UFO!」を聞くのだ。もう、辛抱たまらん。 アパートにテレビがなく、動くピンクレディその人たちをまだ見たことはなかったぼくが彼女たちをキライになったのは、このときのトラウマが原因に違いない。 この喫茶店の近くには暴力団の事務所があり、組員が入り浸っていた。そして、夏の甲子園やプロ野球をネタに、店で堂々とバクチをやっていた。気はすこぶるいいが小指のない皆さんに接するのは初めてだったので、アイスコーヒー(関西では「レーコー」と呼んだ。今もかな?)を運ぶのにも緊張した。 賭場が開かれた翌日は、賭に負けた客が金を持ってきて、「これ、やっといてんか」とぼくらに渡す。胴元のふところに入るその金は、多いときは客ひとりで200万くらいあった。その一万円札の束を手にしたぼくらの頭に「逃げよう!」という思いが走ったのは事実。一夏のバイト料の十数倍はあるのだ。喫茶店に履歴書などを渡しているわけではないし、とんずらしてもわかるまい。 しかし、200万で一生逃亡者として暮らす度胸はぼくらにはなく、昼下がりに胴元がやってくると、「これ、あずかってました」と渡すのが常。胴元は「おう」と一言、札束を腹巻きにしまい込む。B級映画じゃないのだが、現実の方が劇画タッチ。いや、ギャク・マンガかな? 友人は東京にもよくやってきた。ふとんをかかえて家を出てから仕送りは「ゼロ」。東京で左官屋の仕事を見つけた彼は、長い休みごとに上京し、ぼくの四畳半の下宿をねぐらにせっせと生活費と学費を稼いだ。 優しく、人なつっこい彼は、ぼくの下宿の大家老夫婦にも受けが抜群によかった。夏休み、帰省していたぼくが部屋に戻ると、1階から大家さんのおばあちゃんの声がする。 「○○さん、○○さぁ~ん」 おばあちゃんが呼んでいるのは、友人の名だった。ぼくが窓から顔を出すと、おばあちゃんはびっくりしたような顔をして言った。 「あら、××さん、いたの」 はい、ぼくの部屋ですから。 そんな暮らしをしながら、友人は大学の四年間を自分ひとりでやりくりした。学問を修めたかどうかは「?」だけど、ぼくらのころに既に死語だった「苦学生」だったことは確かだろう。 「苦学生」を、彼は、やり通したのだ。 大学を出て関西の企業に就職した友人が、入社したばかりの5月のゴールデン・ウィークに上京してきた。どこか元気がないのでどうかしたかと聞くと、 「これからカミさんをもらいに行かないかん・・・・」 「はぁ?!」 それが、こんどの旅でぼくが20年ぶりに会った奥さんなのだが、当時、つきあっているとはまったく知らなかった。 まぁ、なんだかんだといろいろあって、関東の某市にある彼女の実家に「娘さんを下さい」と言わねばならない状況に陥っていたのだった。 新入社員の冬には、もうパパとなっていた友人。「あまりに早すぎ」「準備がよすぎ」と、同僚・上司からあれこれ言われたらしい。 そりゃそうだ。 彼ら新婚夫婦の家庭を訪ねたとき、その家は積み木のようなかわいい家だった。1階は六畳間と台所、2階は四畳半一間。その六畳間で鍋をつつきつつ、飲んだぼくらは、2階の部屋で寝た。ふとんはふた組に増えてはいたが、客用のものはなく、ぼくは寝袋に入り、足を階段の踊り場に出して横になった。 夜中。何時ころだろう。川の字の真ん中に寝ていた赤ん坊が、火がついたように泣き出した。赤ん坊の扱いなどもちろん知らないぼくは、おそるおそる揺らしてみたりするものの、ぎゃんぎゃん大泣きして止まらない。その両親はと見れば、父親も母親も酔って大いびき。こちらは揺り起こそうとしてもまったく目を覚まさない。 どうしたらいいものやら、途方にくれたぼくは、この世が終わるかのように泣く赤ん坊と、楽園に魂を遊ばせている如き両親の寝顔を見比べながら、子どもはたくましいなぁと感心していた。 大泣きしていたその赤ん坊も、もう大学院生だという。 先日、泊めてもらった友人の家は、住宅街の一角に最近、建てたばかり。夜遅く帰ったリビングには大学一年の次男坊がテレビの前に寝ころび、家の裏からは犬の鳴き声が。覗いてみるとひょうきんな顔をしたパグがご主人様にお帰りをしていた。 雨の中、友人はパグを散歩に連れだした。 彼がふるさとを離れてからもう30年近くの歳月が流れた。関西に居着いた彼は、もうふるさとに戻ることはないだろう。 こうして人は新しい居場所を見つけていくんだな・・・・・・。 お前は、子どもたちにふるさとを用意した。大したもんじゃないか! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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