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イザヤ書29章を読んで思うこと。それは、「イザヤ書における、エルサレムへの預言(2)エルサレムの運命」こと。イザヤ書28章〜33章は、再び一つのまとまりになります。 「ああ」という嘆きの言葉から始まる預言、エルサレムの運命。この嘆きの言葉は、旧約聖書中51回、イザヤ書では21回登場します。「アリエル」とは、イスラエルのこと。ダビデが定めた永遠の都、シオンのことです。 「ああ、アリエルよ、アリエルよ、ダビデが営をかまえた町よ、年に年を加え、祭をめぐりこさせよ。」(イザヤ書29:1) 「アリエル」は、「神の獅子、英雄」を意味し「祭壇の炉、礼拝」を意味します。人々が毎年集まって神を礼拝する場が、この「アリエル」です。ダビデが営んだ町が、この「エルサレム」です。 この時、毎年集まる神の都が、アッスリヤ軍によって包囲されています。しかしこの恐怖の時であっても、民は神を求めません。そこに、神の嘆きの言葉「ああ」があります。 私たちも日々、恐怖に縛られても「神の獅子が現れる礼拝」を失っても、彼らと同じように痛みがありません。人々は神を求めません。そこに、神の嘆きの言葉「ああ」があります。 そこには、不信仰な形式的な礼拝があります。主イエスも、この神の嘆きの言葉「ああ」をもって、私たちに語られます。 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。」(イザヤ書29:13) 「偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる。』」(マタイ15:7〜9) しかし主は私たちに対して、ヤコブの家の祝福をもって、千年王国の成就を約束してくださいます。以下の言葉は、第一義的には「イスラエルの回復」を意味していますが、普遍的には「契約の成就、千年王国の実現」を意味しています。 それゆえ、昔アブラハムをあがなわれた主は、ヤコブの家についてこう言われる、「ヤコブは、もはやはずかしめを受けず、その顔は、もはや色を失うことはない。彼の子孫が、その中にわが手のわざを見るとき、彼らはわが名を聖とし、ヤコブの聖者を聖として、イスラエルの神を恐れる。心のあやまれる者も、悟りを得、つぶやく者も教をうける。」(イザヤ書29:22〜24)
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Last updated
2015/03/20 06:01:27 AM
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