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1分de聖書、解説者

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2024/03/31
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ヘブル書9章より

まず、1分de聖書を読みましょう。(篠原利治)

おはようございます。今日はヘブル人への手紙9章「罪を取り除くために」です。

キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。:ヘブル人への手紙9章26節

◆要約

初めの契約にも地上の聖所があり、その奥に至聖所がありました。至聖所には、大祭司が年に一度だけ、血を携えて入ります。その血は、自分と民の犯した罪のためにささげるものですが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、ご自分の血によって、ただ一度、まことの至聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし動物の血が肉体をきよめるとすれば、まして、キリストが傷のないご自身をおささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。本物の模型に過ぎない地上の至聖所に年ごとに血を携えて入る大祭司とは違って、キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けるとが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。(岡崎道成)

◇解説

正体がここにある。出エジプト記の幕屋作りの正体が、ここにある。祝福の大祭司として、キリストが登場する。

「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」(ヘブル書9:11〜12)

キリストの血潮の効力。血潮による聖潔(きよめ)、神に仕える動力が、ここにある。

「もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。」(ヘブル書9:13〜14)

仲保者キリストは、シナイ契約(律法)で裁かれた私たちを生かし、新しい契約(福音)によって、約束の御国を与えてくださる。

「それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。」(ヘブル書9:15)

人間の終末と滅び。そこにキリストは、初臨の十字架の勝利と、再臨の完全な勝利をもって臨んでくださる。

「そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。」(ヘブル書9:27〜28)

(篠原利治)





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Last updated  2024/03/31 01:04:18 AM



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