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イザヤ書52章を読んで思うこと。それは、「シオンに帰って来られる主」について。
ここに、エルサレムの終末的な黙示が語られます。主がまことの王となって、シオンに帰って来られます。この主を見て、人々は良きおとずれ(福音)を伝えずには、おれないのです。 この章は、ローマ書10:15〜16につながります。使徒パウロは、このイザヤ書52章と、イザヤ書53章を引用しました。さあ、以下を読み比べてみましょう。 よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。(イザヤ書52:7〜8) つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。(ローマ書10:15〜16) 第四のしもべの歌は、イザヤ書52:13から登場します。そしてこの歌の中で、受難のしもべ(メシア)が、イザヤ書53章に至って、啓示されるのです。 この第四のしもべの歌は、「シオンの慰め」の中に挿入され、啓示の光となります。 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。多くの人が彼に驚いたように — 彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていたからである — 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。(イザヤ書52:13〜53:1) しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。(ローマ書10:16) 使徒パウロは、上記のローマ書10:16にて、このイザヤ書53:1を用いています。 何度も何度も、語っても忍耐しても、待てど暮らせど変わらない人々。そこにイザヤ書53章、第四のしもべの歌(受難のしもべ)が登場します。メシア預言の最高峰、聖書的エベレストが、ここに登場します。 「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。」(イザヤ書53:1〜2) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024/04/22 12:47:08 AM
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