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T版 木谷ポルソッタ倶楽部

  
3 G線上のアリア by 木谷文弘

東京で働いている時のことだ。季節は、秋から冬へと差しかかろうとしていた。
都内のあちこちの道路に、イチョウの枯葉が落ちていた。
ある休日、渋谷駅で、私は東横線から山手線へ乗り換えようとした。
階段を早足で登っていた。相変わらずの人混みだ。これが都会というものだろう。
階段を登り詰めた。音楽が聞える。構内放送ではないようだ。
私は周囲を眺めた。構内の隅で、ひとりの老人がCDを売っていた。
「一枚千円」とマジックで書かれた段ボール紙が箱に架けられていた。
「う~ん」
私はひとつうなってしまった。何がそうさせたかって・・・・・・流れている曲のせいだ。
なんとバッハの『G 線上のアリア 』が大ボリュームで流されていたのだ。
構内だから、それが荘厳に響くのだ。
人混みの雑音を無視して、瞳をとじれば、そこはフィレンチェの教会だ。
老人は何を考えるともなく遠くを見ていた。
そう、売ろうとの意志がないかのように、私には見えた。
音楽は静かにゆっくりと流れている。
「もっとゆっくり歩きなさいよ。人生は長いのだから・・・・・・」
構内を足早に歩いている人たちへ老人がそう囁いている。私にはそう思えた。
私は売り場へ近づいた。
流れているCDの空ケースが、売り物のCDの上に無造作に置かれていた。
「これは何という曲ですか?」
老人に、私はちょっと意地悪をしてみた。
「今かかっている曲かね、バッハの曲だよ。管弦楽組曲第三番のアリアだよ」
遠くを見たまま、老人はポツリとつぶやいた。
私は驚いた。管弦楽組曲ときた。第三番ときた。アリアときた。
こんなご老人がおられる。おっと、私は敬語を使うようになっている。
これだから、東京は面白い。
「この曲に、なにか思い出でもあるのかね」
今度は、老人が私を詰問することになった。
「いえ、別に、ただ懐かしい気持ちになったものですから・・・・・・」
私はしどろもどろに答えた。
「そうだよな。いい音楽は、誰の気持ちをもやさしくするからな・・・・・・」
老人から私はいたわりの言葉を戴いた。

そう、これもやはり秋の終わりの季節だ。
私はヨーロッパをひとりで旅をしていた。それは、私にとって初めての海外の旅だった。
一ヶ月の旅も半ばを過ぎていた。郷愁をそろそろ感じる頃だった。
アムステルダム市内での仕事を終えて、私は宿舎へ向かっていた。
灯りは点されていなかった。暗かった。風はなかった。
私の足音だけがやけにかん高く響いた。
<異国を旅しているんだよな>
私の胸はせつなくなった。
その時、突然、音楽が流れてきた。
大音響というよりも、石の城門内でやけに響いていたのだ。私は驚いて音の方を見た。
ひとりの男がなにやらの楽器の前に佇んでいた。
ドラム缶を半分に割ったところへ何本かの弦を張っていた。
その弦を、男が指で弾いていた。やわらかいハープのようである。
城門に反響して、実にいい音を出していた。
その曲が、『G線上のアリア』だったのだ。
旅に出ているということと、ちょっと寒かったということで、私はよりせつなくなっていた。
私はコインを置こうと考えた。男に近寄った。男はサングラスをしていた。
コインを入れる缶や箱がなかった。私は戸惑った。
その時、男がなにかを喋った。オランダ語だろう。私には何もわからなかった。
男は、手を小さく横に振った。金はいらないということだろう。
男は目が悪いようだ。
「俺の音楽だけを楽しんでくれよ。お代はいらないよ」
そんなところかもしれない。二曲のバロックを、男は弾いてくれた。
冬を迎えるヨーロッパの町に、アダージョの旋律が響いていく。
二曲目が終わった。男は手に息を吹きかけ温めていた。私は手を打った。
「サンキュー、ヴェリービューティフル、サンキュー、グッバイ」
私は拙い英語でお礼をいった。私の英語に、男は驚いたようだ。
それでもニコリと微笑むと、私へ手を振ってくれた。
その方向がちょっと違っていたのが哀しかった。
<ここにも、生きている人がいるのだよな>
初めての海外の旅をして、世界中どこにでも人は生きていることを、私は痛感していた。
<どんなことがあっても生きていかなくては・・・・・・>
そんなことも、私は感じていた。そう、旅が、私を哲学者にしていた。


『G線上のアリア』は終わり、次の曲が流れていた。
「このCDを下さい」
私は老人へCDと千円札を差し出した。
老人がにこっと微笑んだ。CDを袋へ入れてくれた。
「懐かしい想い出を楽しむんだよ」そんな笑顔だった。

最近、世の中、先の見えない出来事ばかりが起きている。
今夜、あのCDを聴いてみよう。
<どんなことがあっても生きていかなくては・・・・・・>
ひとりしみじみと感じてみようと思う。季節は秋。
(01/10/22)


91 北の田舎から来たおともだち

325 お姉さんの割烹着

 三十数年前、学生時代を、私は愛媛の松山で過ごした。
緑ゆたかな城山の近くにこぎれいな小料理屋があった。
一階に七席程度の白木のカウンター、二階に六畳ほどの小部屋があった。
そこが、私たち仲間のたまり場だった。

おばあさんがひとりで切り盛りしていた。違う。
七時を過ぎた頃になるとおばあさんの孫である娘さんが来た。
娘はデパートに勤めていて、夜の忙しい時だけおばあさんの手伝いに来ていた。

彼女は、二十五、六歳といったところだ。
私たちにとってはお姉さんだった。
それは、私たちが接するはじめての社会人の女性、まぶしい大人の女性だった。
お姉さんは化粧をしていなかった。
でも、瞳はいつも輝いては肌は白く髪は長く、私たちにとっては憧れの人だった。

お姉さんは店へ来ると、紺絣の着物に着替えた。
そして、白い割烹着をつけた。
「私はあわてん坊だからと、おばあちゃんが割烹着をつくってくれたの」
お姉さんが微笑みながら答えた。

そう、お姉さんはあわてん坊だった。
割烹着に酒や醤油をよくこぼしていた。
そしてね、急な階段をけたたましい悲鳴とともに滑り落ちることも珍しくなかった。
私たちは我がちにと階段の上から助けに行く。
お姉さんはお尻をさすりながら私たちを仰ぎ見る。
着物の裾から見える白い足に、私たちは興奮しまた感動した。
お姉さんは慌てて裾を直す。
その仕草がとても愛くるしく、私たちはまた感動したものだ。

仲間たちの来るのが遅くて、私ひとりがお姉さんと向かい合うこともあった。
そうだよな。お姉さんを独り占めして語り合える。
それは、私にとって至福のひとときだった。
「木谷くんは、どんな社会人になるのかな。私、楽しみだな」
お姉さんがお酌をしてくれながらささやいた。
うん、私は何も言えなかった。

ある夜のことだった。料理がいつもと違ってやけに豪華だった。
「今夜は、私のおごりよ。みんな、どんどん呑んでよね」
お姉さんが私たちに叫ぶように明るく言った。

そして、お姉さんは割烹着をはずした。

私たち、ひとりひとりにお酌をしてくれた。
普段は化粧をしていないお姉さんが薄化粧をしていた。
それはとてもきれいなお姉さんだった。
私たちは酔っぱら払った。
私たちは唄った。
フォークソング、ロシア民謡、叙情歌などを、次から次へと唄った。
そして、一段落した時、お姉さんがぽつりと言った。
「みんなで城山へ登ろうか」

みんなで城山に登った。松山の夜景がとてもきれいだった。
風が頬に吹いてきた。
「これが私の故郷なのよね。
そして、みんなと楽しく過ごしたところなのよね」
お姉さんが涙声でつぶやいた。
それは、私にだけしか聞えなかった。
私はいお姉さんを見た。白い顔が少し紅潮していた。
長い髪が風にゆらりゆらりと揺れていた。
いつも輝いている瞳がどこともなく細くなっていた。

翌日からお姉さんは来なくなった。
おばあさんが一通の手紙を私たちに差し出した。
「みなさんにさよならを言うのが辛かったから黙っていました。
私は結婚します。大阪にいる彼のところへ行きます。
みなさんは頑張って立派な社会人になって下さい」
おばあさんはカウンターの中の椅子に座っていた。
小さなからだがより小さく見えた。

やがて、大学紛争がより激しくなり、大学は荒れていった。
思想も哲学もなかった私は「山登り」に夢中になっていった。

そして三十数年が過ぎた。
割烹着をつけた女性を見ると、私はお姉さんを思い出す。
そう、お姉さんは今でもあの頃の若いままなのだ。
そのお姉さんに、私は語りかけてしまう。
「あわてん坊のお姉さん、今でも白い割烹着をつけて頑張っているのですか?」
(03/12/26)


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