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報徳記巻之八【1】眞岡県令の属吏となる

報徳記  巻之八 
【1】眞岡県令某の属吏となる

 野州(やしう)眞岡(まをか)は土地(とち)磽薄(かうはく)にして原野(げんや)多(おほ)く、百姓(しやう)農業(のうげふ)を怠(おこた)り天明(てんめい)卯辰(うたつ)の凶荒(きようくわう)後(ご)民戸(みんこ)大(おほ)いに減(げん)じ田圃(でんぼ)蕪莱(ぶらい)し、離散(りさん)の民(たみ)毎年(まいねん)に甚(はなはだ)しく、在民(ざいみん)赤貧(せきひん)を苦(くる)しみ出生(しゆつせい)の赤子(せきし)を夭殺(えうさつ)するを以(もつ)て常(つね)とするに至(いた)れり。寛政年間(くわんせいねんかん)幕府(ばくふ)大(おほ)いに之(これ)を憐(あわれ)み玉(たま)ひ、衆(しゆう)に選(えら)びて竹垣某(たけがきぼう)を以(もつ)て同所(どうしよ)の県令(けんれい)となし、荒蕪(くわうぶ)を開(ひら)き窮民(きゆうみん)を撫(ぶ)し、夭殺(えうさつ)の憂(うれ)ひを除(のぞ)かしめ頗(すこぶ)る恵政(けいせい)行(おこな)はる。県令(けんれい)来民(らいみん)を招(まね)き戸数(こすう)を増(ま)し恩沢(おんたく)を施(ほどこ)し、赤子(せきし)を育(いく)せしめ土地(とち)を開(ひら)き悪弊(あくへい)を除(のぞ)くといへども、旧来(きうらい)の衰廃(すゐはい)古(いにし)へに復(ふく)することあたはず。後(のち)県令(けんれい)転勤(てんきん)に至(いた)りて遂(つひ)に其(そ)の成功(せいこう)を得(え)ず。
時(とき)に天保(てんぽう)十四癸(みづのと)卯年(うとし)官(くわん)議(ぎ)して再(ふたた)び往時(わうじ)の恵政(けいせい)を復(ふく)せんとし、新(あらた)に奥州(あうしう)小名浜(おなはま)・野州(やしう)東郷(ひがしがう)・真岡(まをか)三県令(けんれい)を命(めい)じ先生を属吏(ぞくり)となす。然(しか)れども良法(りやうほう)開業(かいげふ)の道(みち)を得(え)ずして歳月(さいげつ)を送(おく)れり。
弘化(くわうか)四丁(ひのと)未年(ひつじとし)東郷(ひがしがう)の令(れい)某(ぼう)建議(けんぎ)する所(ところ)あり。官(くわん)是(こ)の故(ゆゑ)を以(もつ)て小名浜(おなはま)東郷(ひがしがう)の両県令(りやうけんれい)を他(た)に転(てん)じ、真岡(まをか)東郷(ひがしがう)の地(ち)六万石(まんごく)を合(がつ)して東郷(ひがしがう)の令(れい)に命(めい)じ、先生をして又之(またこれ)に属吏(ぞくり)たらしむ。是(ここ)に於(おい)て県令(けんれい)民間(みんかん)撫育(ぶいく)村々(むらむら)再(さい)復(ふく)の事(こと)を挙(あ)げんとして先生に計(はか)る。外(ほか)属吏(ぞくり)古来(こらい)の成規(せいき)を取(と)りて之(これ)に同(どう)ぜず。然(しか)れども令(れい)先生をして荒地(くわうち)開墾(かいこん)の事(こと)を行(おこな)はしむ。東郷(ひがしがう)村の廃田(はいでん)若干(そこばく)、桑野川村(くはのかはむら)に於(おい)て新田(しんでん)五町歩(ちやうぶ)を開(ひら)き、邑民(いふみん)頗(すこぶ)る恩(おん)に感(かん)ず。而(しか)して此(こ)の用財(ようざい)官費(くわんぴ)の出(い)づる所(ところ)なし。皆(みな)先生自財(じざい)を投(とう)じ以(もつ)て此(こ)の事(こと)を成(な)せり。属吏(ぞくり)之(これ)を見(み)て私(ひそ)かに語(かた)りて曰(いは)く、今(いま)県令(けんれい)二宮をして蕪田(ぶでん)を開(ひら)き又(また)新田(しんでん)を開(ひら)かしめ、我(わ)が輩(はい)之(これ)を知(し)らず、是(こ)の如(ごと)くならば後難(こうなん)計(はか)り難(がた)し。身(み)を退(しりぞ)くに如(し)かざるなりと、皆(みな)共(とも)に奉仕(ほうし)を辞(じ)す。県令(けんれい)愕然(がくぜん)として曰(いは)く、開田(かいでん)の事(こと)我(わ)が意(い)にあらず。二宮一人(ひとり)の所為(しよい)なり。我(われ)大(おほ)いに之(これ)を戒(いまし)め、後(のち)此(こ)の事(こと)無(なか)らしめん。子(し)等(ら)心労(しんらう)すること勿(なか)れと。是(ここ)に於(おい)て先生を官廨(くわんかい)に招(まね)き、衆坐(しゆうざ)の中(なか)に於(おい)て声(こゑ)を励(はげま)して曰(いは)く、二宮開墾(かいこん)を成(な)すもの誰(たれ)の命(めい)を以(もつ)てするや。吾(われ)知(し)らざる所(ところ)なり。属吏(ぞくり)も皆(みな)与(あづ)からず。凡(すべ)て天下(てんか)の土地(とち)興廃(こうはい)共(とも)に規則(きそく)あり。豈(あに)官許(くわんきよ)を得(え)ずして開(ひら)くことを得(え)んや。今(いま)江都(かうと)に聞(ぶん)し咎(とが)めあらば、独(ひと)り子(こ)の罪(つみ)而已(のみ)にあらず。然(しか)るに一己(こ)の意(い)を以(もつ)て開墾(かいこん)するもの何(なに)の謂(いは)れかある。具(つぶ)さに之(これ)を告(つ)げよと。
先生早(はや)く其(そ)の意(い)を察(さつ)し心(こころ)に思(おも)へらく、此(こ)の開田(かいでん)は県令(けんれい)我(われ)に命(めい)じて開(ひら)かしむる也(なり)。然(しか)して今(いま)此(こ)の事(こと)を知(し)らずとは何(なん)ぞやといはゞ、令(れい)何(なに)を以(もつ)て暫時(ざんじ)も此(こ)の職(しよく)にあることを得(え)ん。我(われ)多年(たねん)心(こころ)を尽(つく)すものは諸人(しよにん)の憂(うれ)ひを除(のぞ)き永安(えいあん)の道(みち)を興(おこ)さんとする而已(のみ)。何(なん)ぞ令(れい)の罪(つみ)を顕(あら)はさん。自(みづ)から其(そ)の罪(つみ)を引(ひ)き彼(かれ)をして無事(ぶじ)ならしめんと。是(ここ)に於(おい)て従容(しようよう)として答(こた)へて曰(いは)く、是(これ)れ他事(たじ)あるに非(あら)ず。某(それがし)官(くわん)の事(こと)に至(いた)りては法則(はふそく)規矩(きく)共(とも)に未(いま)だ之(これ)を熟知(じゆくち)することを得(え)ず。私(ひそ)かに意(おも)へらく、吏籍(りせき)に入(はい)りてより以来(いらい)、不才(ふさい)にして衆臣(しゆうしん)の勤(つと)むる所(ところ)を勉励(べんれい)することあたはず。空(むな)しく歳月(さいげつ)を送(おく)り素餐(そさん)の罪(つみ)を恐(おそ)るゝこと深(ふか)し。積年(せきねん)廃田(はいでん)を挙(あ)げ下民(かみん)を撫(ぶ)し、之(これ)を安(やす)んずることを業(げふ)とせり。今(いま)目前(もくぜん)廃田(はいでん)あり貧民(ひんみん)あり。自財(じざい)を抛(なげう)ちて之(これ)を拓(ひら)き之(これ)を恵(めぐ)まば勤務(きんむ)の一端(いつたん)に当(あた)り、聊(いささ)か素餐(そさん)の罪(つみ)を償(つぐな)ふに至(いた)らんかと、下民(かみん)の願(ねが)ひに応(おう)ぜしなり。前(まへ)に此(こ)の事(こと)を聞(ぶん)し可否(かひ)の令(れい)を待(ま)たざるは某(それがし)の罪(つみ)なり。今(いま)如何(いかに)せん譴責(けんせき)あらば某(それがし)一人(り)之(これ)を受(う)けん而已(のみ)。素(もと)より願(ねが)ふ所(ところ)なり。又(また)開田(かいでん)を廃(はい)して可(か)ならば速(すみか)かに之(これ)を荒蕪(くわうぶ)に帰(き)し、溝恤(こうきよく)を穿(うが)ちたるも之(これ)を埋(う)めん而已(のみ)。開田(かいでん)の力(ちから)は千万(まん)の労(らう)ありといへども之(これ)を廃(はい)するに至(いた)りては甚(はなは)だ易(やす)くして一日(にち)の労(らう)をも費(つひや)すべからず。願(ねが)くは令(れい)の意(い)に随(したが)はん而已(のみ)と。県令(けんれい)益々(ますます)怒(いか)つて曰(いは)く、開田(かいでん)直(ただ)ちに廃(はい)することを得(う)べからず。江都(かうと)に達(たつ)して其(そ)の指揮(しき)を待(ま)たん。以後(いご)我(わ)が命(めい)ぜざることは決(けつ)して手(て)を下(くだ)すことなかれと云(い)ふ。先生退(しりぞ)き歎(たん)じて曰(いは)く、事(こと)斯(ここ)に至(いた)るもの何(なん)ぞ可否(かひ)を論(ろん)ぜんや。道(みち)も亦(また)斯(ここ)に止(とま)れり。令(れい)初(はじ)め我(われ)に命(めい)ずるに開田(かいでん)新田(しんでん)の事(こと)を以(もつ)てす。我(われ)答(こた)へて曰(いは)く、土地(とち)の事(こと)官(くわん)古来(こらい)の定則(ていそく)ありと聞(き)けり。猥(みだ)りに手(て)を下(くだ)さば後日(ごじつ)の憂(うれ)ひあらんか。夫(そ)れ之(これ)を慮(おもんばか)れ。令(れい)曰(いは)く、我(われ)江都(かうと)に於(おい)て既(すで)に此(こ)の事(こと)を聞(ぶん)し、委任(いにん)の命(めい)あり、子(し)の事(こと)を挙(あ)ぐるもの則(すなは)ち予(よ)がせしむる所(ところ)なり。若(も)し異論(いろん)あらば我(わ)が一身(しん)に任(にん)ぜん。憂(うれ)ふることあるべからず。子(し)唯(ただ)力(ちから)を尽(つく)し事(こと)を成就(じやうじゆ)せよ我(われ)之(これ)を頼(たの)むなりと。是(これ)の故(ゆゑ)に已(や)むことを得(え)ずして数月(すうげつ)の間(あひだ)辛苦(しんく)を尽(つく)し自財(じざい)を散(さん)じ、衆役夫(しゆうえきふ)の力(ちから)を労(らう)し許多(きよた)の開田(かいでん)を為(な)せり。是(これ)上下(じやうげ)の為(ため)にあらずや。然(しか)るに下吏(かり)の言(げん)に驚(おどろ)き之(これ)を諭(さと)すことあたはず、又(また)自(みずか)ら任(にん)ずることあたはず、忽然(こつぜん)として昔日(せきじつ)の誓言(せいげん)を変(へん)じ自(みづか)ら此(こ)の事(こと)を知(し)らずとし、我(われ)一己(こ)の意(い)を以(もつ)て開田(かいでん)せしと列坐(れつざ)の中(なか)に於(おい)て叱(しつ)す。自(みづか)ら其(そ)の心(こころ)を欺(あざむ)き、漠然(ばくぜん)として耻(は)づる色(いろ)なし。豈(あに)是(こ)れ人情(にんじやう)の為(な)し得(う)べき所(ところ)ならんや。我(わ)れ元(もと)より善(ぜん)は人(ひと)に推(お)し、他(た)の過失(くわしつ)は我(われ)に帰(き)するを以(もつ)て本意(ほんい)とせり。若(も)し此(こ)の如(ごと)き(き)言(げん)を以(もつ)て外人(ぐわいじん)に当(あた)る時(とき)は、立処(たちどころ)に其(そ)の身(み)の進退(しんたい)を失(うしな)はん。此(こ)の人(ひと)と共(とも)に大道(だいだう)を行(おこな)ふことのあたはざるは此(こ)の一事(じ)を以(もつ)て知(し)るべし。然(しか)れども今(いま)我(われ)一身(しん)を退(しりぞ)く時(とき)は、従来(じゆうらい)諸方(しよほう)の人民(じんみん)衰弊(すゐへい)再復(さいふく)の道(みち)を求(もと)め、其(そ)の事(こと)未(いま)だ半(なかば)ならず。安危(あんき)の帰(き)する所(ところ)只(ただ)我(われ)一人(り)を望(のぞ)めり。故(ゆゑ)に我(われ)退(しりぞ)かば道(みち)も亦(また)廃(はい)せん。道(みち)廃(はい)する時(とき)は幾万(いくまん)の人民(じんみん)途(みち)を失(うしな)ひ安堵(あんど)の期(き)あるべからず。我(われ)何(なん)ぞ之(これ)を棄(す)つるに忍(しのび)んや。是(これ)我(わ)が道(みち)の行(おこな)はれざることを以(もつ)て此(こ)の輩(はい)と共(とも)に愚(ぐ)を守(まも)り、歳月(さいげつ)を送(おく)る所以(ゆゑん)なりと慨然(がいぜん)として痛歎(つうたん)の色(いろ)あり。従者(じゆうしや)皆(みな)悵然(ちやうぜん)として愁悶(しうもん)に堪(た)へず。先生の度量(どりやう)蒼海(さうかい)の量(はか)る可(べか)からざるが如(ごと)きを感歎(かんたん)せり。
 時(とき)に先生の官舎(かんしや)あらず。令(れい)之(これ)を設(まう)けず。官廨(くわんかい)の傍(かたはら)に破寺(はじ)あり神宮寺(じんぐうじ)といふ。数年(すうねん)無住(むじゆう)の故(ゆゑ)を以(もつ)て、大破(たいは)に及(およ)び風雨(ふうう)を障(ささ)うべからず。時(とき)既(すで)に厳冬(げんとう)寒夜(かんや)肌膚(きふ)之(これ)が為(ため)に凛然(りんぜん)たり。人(ひと)をして桜町(さくらまち)に走(はし)らしめ、釜鍋(かまなべ)を持(も)ち来(きた)り僅(わづか)に飯(めし)を炊(た)き味噌(みそ)を甞(なめ)て食(しよく)する而已(のみ)。従者(じゆうしや)皆(みな)頗(すこぶ)る困苦(こんく)の色(いろ)あり。先生泰然(たいぜん)として安居(あんきよ)し、治国安民(ちこくあんみん)の道(みち)を説(と)き、門人(もんじん)を教諭(けうゆ)し、些(すこし)も艱難(かんなん)を憂(うれ)ふるの念(ねん)なし。唯(ただ)三十年来(ねんらい)千辛万苦(しんばんく)を尽(つく)し、四方(はう)の民(たみ)を救助(きうじよ)するの道(みち)を発(はつ)し、半途(はんと)に至(いた)らずして進退(しんたい)既(すで)に窮(きはま)り、庶民(しよみん)再(ふたた)び極難困苦(ごくなんこんく)に陥(おちい)らんことを日夜(にちや)悲歎(ひたん)せり。下館藩(しもだてはん)衣笠某(きぬがさそれ)先生に至(いた)りて国事(こくじ)を問(と)ふ。此(こ)の破寺(はじ)を見(み)て大息(たいそく)し、官廨(くわんかい)に至(いた)り県令(けんれい)に謂(い)ひて曰(いは)く、二宮元来(がんらい)艱難(かんなん)を常(つね)とし一身(しん)を苦(くる)しめ、諸人(しよにん)の憂(うれ)ひを除(のぞ)き之(これ)を安撫(あんぶ)するを以(もつ)て心(こころ)とせり。何(なん)ぞ今(いま)に至(いた)りて一身(しん)の困苦(こんく)を憂(うれ)へんや。然(しか)れども彼(かれ)は賢者(けんしや)なり。県令(けんれい)何(なん)ぞ之(これ)を遇(ぐう)することの薄(うす)きや。今(いま)其(そ)の住居(ぢゆうきよ)を見(み)るに空寺(くうじ)破壊(はくわい)風雨(ふうう)霜雪(さうせつ)を防(ふせ)ぐに足(た)らず。寒風(かんふう)坐(ざ)を払(はら)い雪霜(せつさう)人頭(じんとう)に下(くだ)る。二宮此(こ)の一寺(じ)を修復(しうふく)せんこと難(かた)きにあらず。然(しか)れども幼(えう)より老(らう)に至(いた)るまで衆民(しゆうみん)の艱難(かんなん)を憂(うれ)ひて一家(か)を経営(けいえい)せず、君(きみ)の命(めい)に由(よ)りて廃寺(はいじ)に居(を)り、困苦(こんく)すといへども之(これ)を補(おぎな)はざるものは、令(れい)の命(めい)を重(おも)んずるが故(ゆえ)なり。二宮老(お)いたりといへども性質(せいしつ)強壮(きやうさう)曽(かつ)て病(やまひ)あらず、此(こ)の寒気(かんき)に触(ふ)るゝといふとも一身(しん)無事(ぶじ)なるべきが、門下(もんか)に至(いた)りては遂(つひ)に之(これ)が為(ため)に疾病(しつぺい)の憂(うれ)ひあらん。県令(けんれい)の心慮(しんりよ)他(た)の知(し)るべきにあらず。然(しか)れども恐(おそ)らくは賢者(けんしや)を遇(ぐう)し玉(たま)ふの道(みち)に於(おい)て全(まつた)からざるに似(に)たり。某(それがし)恩命(おんめい)を受(う)くること年(とし)有(あ)り。是(これ)を以(もつ)て愚意(ぐい)を述(の)ぶるのみ。君(きみ)夫(そ)れ之(これ)を慮(おもんばか)れ。
県令(けんれい)意中(いちゆう)甚(はなは)だ怒(いか)ると雖(いへ)ども、理(り)の当然(たうぜん)なるを以(もつ)て憤怒(ふんど)を忍(しの)び答(こた)へて曰(いは)く、子(し)今(いま)是(こ)の事(こと)を告(つ)げずといへども、我(われ)能(よ)く之(これ)を知れり。陣屋(ぢんや)の内(うち)別(べつ)に居家(きよか)あらず。新(あらた)に作(つく)らんか二宮を空寺(くうじ)に居(を)らしむるもの暫時(ざんじ)而已(のみ)。我(わ)が意(い)を計(はか)りて二宮此(こ)の寺(じ)を補(おぎな)はざるものは過(あやま)ちなり。我(われ)何(なん)ぞ彼(かれ)自(みづか)ら此(これ)を補(おぎな)ふことを禁(きん)ぜんやと云(い)ふ。衣笠(きぬがさ)退(しりぞ)き先生に告(つ)ぐるに空寺(くうじ)補理(ほり)の事(こと)を以(もつ)てす。先生許(ゆる)さず。然(しか)るに県令(けんれい)俄然(がぜん)先生を呼(よ)ぶ。先生至(いた)る。令(れい)大(おほ)いに怒(いか)りて曰(いは)く、過刻(くわこく)衣笠(きぬがさ)来(きた)り子(し)を破壊(はくわい)の寺(てら)に居(を)らしむること、我(わ)が処置(しよち)を失(うしな)ひたりと云(い)ふ。彼(かれ)は元(もと)より陪臣(ばいしん)なり何(なん)ぞ天下(てんか)の事(こと)に与(あづか)るを得(え)んや。今(いま)此(こ)の如(ごと)き言(げん)を我(われ)に述(の)ぶる者(もの)は身分(みぶん)を知(し)らざるに非(あら)ずや。我(わ)が処置(しよち)は我(わ)が思(おも)ふ所(ところ)あり。何(なん)ぞ陪臣(ばいしん)の指揮(しき)を待(ま)たん。以後(いご)此(こ)の如(ごと)き失言(しつげん)を発(はつ)すること勿(なか)れと子(し)より之(これ)を諭(さと)し置(お)くべし。我(われ)直(ただち)に此(こ)の言(げん)を以(もつ)て衣笠(きぬがさ)を誡(いまし)しむる時(とき)は、彼(かれ)一身(しん)の立(た)つべからざるを憐(あはれ)み、子(し)をして言(い)はしむるなりと。其(そ)の意(い)先生衣笠(きぬがさ)をして艱苦(かんく)を言(い)はしめたりと疑(うたが)ひ、怒言(どげん)を以(もつ)て先生に加(くわ)ふ。先生従容(しようよう)として答(こた)へて曰(いは)く、某(それがし)空寺(くうじ)に居(を)る何(なん)ぞ艱難(かんなん)の事(こと)あらん。夫(そ)れ貧民(ひんみん)の世(よ)に処(を)るや居(きよ)雨露(うろ)を障(ささ)ふることあたはず。糟粕(さうはく)口(くち)に飽(あ)くことあたはず。衣(い)身(み)を蔽(おほ)ふことあたはず。飢寒(きかん)に困(くるし)み生(せい)を聊(やす)んぜざるもの其(そ)の数(かず)を知(し)るべからず。之(これ)を救助(きうじよ)せんとし其(そ)の道(みち)を尽(つく)すことあたはざるを以(もつ)て憂(うれ)ひとせり。然(しか)るに某(それがし)は扶助(ふじよ)の米粟(べいぞく)を賜(たまは)り、飽食(はうしよく)暖衣(だんい)せり。破寺(はじ)といへども大破(たいは)といふにあらず、何(なん)ぞ雨露(うろ)の凌(しの)ぎなからんや。若(も)し風雨(ふうう)を障(ささ)ふることあたはずんば、何(なん)ぞ県令(けんれい)を労(らう)せん。自(みづか)ら之(これ)を補(おぎな)ふに於(お)て何(なん)の難(かた)きことかあらん。衣笠(きぬがさ)なるもの性(せい)善柔(ぜんじう)にして思慮(しりよ)浅(あさ)し。偶然(ぐうぜん)破寺(はじ)を見(み)て子細(しさい)を問(と)はず。使君(しくん)に告(つ)ぐるに失言(しつげん)を以(もつ)てするか、退(しりぞ)きて再(ふたた)び失言(しつげん)なからしめん。使君(しくん)労(らう)し玉(たま)ふことなかれと。県令(けんれい)曰(いは)く、我(われ)上下(じやうげ)の為(ため)に子(し)の方法(はうはふ)を開(ひら)き、此(こ)の国(くに)の荒地(くわうち)を開墾(かいこん)し困民(こんみん)を撫育(ぶいく)せんと欲(ほつ)すること年(とし)あり。然(しか)るに私領(しりやう)と異(こと)にして公料(こうれう)の制度(せいど)法則(ほうそく)微細(びさい)に備(そな)はる。其(そ)の規矩(きく)にあらずして新法(しんはふ)なるが故(ゆゑ)に行(おこな)ふことあたはず。強(しひ)て之(これ)を行(おこな)はんとすれば属吏(ぞくり)皆(みな)従(したが)はず。江都(かうと)に達(たつ)して其(そ)の指揮(しき)を請(こ)ふと雖(いへど)も復(また)何(なん)の沙汰(さた)もあらず。子(し)此(こ)の間(かん)に立(た)つて手(て)を空(むな)しくせんよりは、寧(むし)ろ退(しりぞ)いて以前(いぜん)の如(ごと)く私領(しりやう)の民(たみ)を安(やすん)ずるに如(しか)ず。我(われ)官府(くわんふ)に言上(ごんじやう)せんとす。二宮の道(みち)良法(りょやほう)なりといへども私領(しりやう)に行(おこな)はるべくして公料(こうれう)に行(おこな)ふべからず。小田原故主(おだはらこしゆ)に戻(もど)し玉(たま)はゞ私領(しりやう)の幸(さいはひ)にして、幕府(ばくふ)無用(むよう)の人(ひと)を扶持(ふち)し玉(たま)ふことなく、両全(りやうぜん)ならんと、是(これ)より他(た)の策(さく)あるべからず。子(し)の意(い)如何(いかん)。先生曰(いは)く、一身(しん)の進退(しんたい)微臣(びしん)に於(おい)て更(さら)に意(い)なし。唯(ただ)県令(けんれい)の指揮(しき)に従(したが)はんと云(い)ひ退(しりぞ)いて詳(つまびらか)に衣笠(きぬがさ)に告ぐ。衣笠(きぬがさ)大(おほ)いに怒(いか)りて曰(いは)く、令(れい)は書(しよ)を読(よ)みて少(すこ)しく道(みち)を知(し)るものと思(おも)へり。我(わ)が先(さき)に言(い)ふ所(ところ)は我(わ)が為(ため)を言(い)ふにあらず。実(じつ)に令(れい)の為(ため)を一言(げん)せり。然(しか)るに陪臣(ばいしん)の失言(しつげん)なりとして之(これ)を怒(いか)り、先生を呼(よ)びて此(こ)の妄言(まうげん)を発(はつ)す。我(われ)再(ふたた)び此(こ)の如(ごと)き者(もの)を見(み)ずと直(ただち)に下館(しもだて)に帰(かへ)れり。先生歎(たん)じて曰(いは)く、県令(けんれい)過(あやまち)て此(こ)の道(みち)を以(もつ)て行(おこな)ふ可(べか)らざるの道(みち)と訴(うつた)ふる時(とき)は斯(ここ)に止(や)まん。又(また)何(なに)をか論(ろん)じ何(なに)をか憂(うれ)へんや。豈(あに)命(めい)にあらずや。
従者(じゆうしや)某(それ)なるもの之(これ)を聞(き)き切歯(せつし)して直(ただち)に県令(けんれい)に至(いた)つて面謁(めんえつ)を請(こ)ふ。令(れい)出(い)でゝ之(これ)に逢(あ)ふ。或(あるひと)言(い)ひて曰(いは)く、幕府(ばくふ)二宮を以(もつ)て君(きみ)の属吏(ぞくり)たらしむること豈(あに)唯(ただ)ならんや。此(こ)の道(みち)を以(もつ)て此(こ)の民(たみ)を救(すく)はんが為(ため)なるべし。然(しか)して数年(すうねん)を経(へ)たり。未(いま)だ行(おこな)ふべからざる歟(か)。令(れい)曰(いは)く、我(われ)素(もと)より二宮の道(みち)を信(しん)ぜり。此(こ)の道(みち)を以(もつ)て民間(みんかん)に施(ほどこ)す時(とき)は、上下(じやうげ)の有益(いうえき)少(すく)なからずとせり。此(こ)の地(ち)に臨(のぞ)み之(これ)を施(ほどこ)さんとするに至(いた)つて、古来(こらい)の法則(はふそく)確定(かくてい)せり。聊(いささか)規則(きそく)に差(たが)ふ時(とき)は法(はふ)を犯(おか)すの罪(つみ)あり。故(ゆゑ)に良法(りやうはふ)なりと雖(いへど)も新法(しんはふ)なるを以(もつ)て行(おこな)ふこと能(あた)はざるなり。二宮小田原(おだはら)の臣(しん)たりし時(とき)、諸侯(しよこう)の邦内(ほうだい)大小(だいせう)数(すう)ヶ所(しよ)仕法(しはふ)を施(ほどこ)して頗(すこぶ)る有益(いうえき)をなせり。是(こ)れ私領(しりやう)に行(おこな)ふ可(べ)くして公料(こうれう)には行(おこなは)れ難(かた)き仕法(しはふ)なり。此(こ)の如(ごと)くして歳月(さいげつ)を送(おく)らば私領(しりやう)にも行(おこな)ふこと能(あた)はず、空(むな)しく廃(はい)せんか。某(それがし)今度(こんど)江都(かうと)に言上(ごんじやう)せんとす。其(そ)の意(い)は二宮の道(みち)私領(しりやう)に益(えき)ありと雖(いへど)も、公料(こうれう)に至(いた)つては規則(きそく)に触(ふ)れて行(おこな)ふべからず。然(しか)らば公料(こうれう)に益(えき)なくして私領(しりやう)の益(えき)も亦廃(またはい)せん。願(ねがは)くは小田原故主(おだはらこしゆ)に返(かへ)し私領(しりやう)の人民(じんみん)を撫育(ぶいく)せしめ玉(たま)はゞ、公(こう)に損(そん)なくして私領(しりやう)に益(えき)あり。速(すみや)かに戻(もど)し玉(たま)ふべしと言上(ごんじやう)せん。然(しか)らば二宮無益(むえき)の心労(しんらう)も始(はじ)めて安(やす)からん。是(これ)れ我(わ)が已(や)むを得(え)ずして慮(おもんぱか)る所(ところ)なりと。或(あるひと)曰(いは)く、此(こ)の言(げん)我輩(わがはい)の知(し)る所(ところ)に非(あら)ず、夫(そ)れ道(みち)は一のみ。公料(こうれう)に行(おこな)ふ可(べ)らざるの道(みち)ならば私領(しりやう)何(なん)ぞ行(おこな)ふを得(え)ん。私領(しりやう)に大益(たいえき)あるの道(みち)ならば何(なん)ぞ独(ひと)り公料(こうれう)而已(のみ)益(えき)なからんや。今(いま)君(きみ)公料(こうれう)に規則(きそく)あり。是(これ)を以(もつ)て新法(しんはふ)良(りやう)なりといへども行(おこな)はれずと。某(それがし)公料(こうれう)の規則(きそく)を知(し)らず。然(しか)して私領(しりやう)独(ひと)り規則(きそく)法度(はふど)なからんや。私領(しりやう)といへども天下(てんか)の土地(とち)なり。何(なん)ぞ一日(にち)も政令(せいれい)法度(はふど)規則(きそく)なくして其(そ)の国(くに)を治(をさ)めることを得(え)ん。公料(こうれう)私領(しりやう)の規則(きそく)同(おな)じからずと雖(いへど)も大同小異(だいどうせうい)、何(なん)ぞ雲泥(うんでい)の如(ごと)く其(そ)の趣(おもむき)を異(こと)にせん。夫(そ)れ国(くに)を治(をさ)め民(たみ)を安(やすん)ずるは政度(せいど)法令(はふれい)の本(もと)にあらずや。百千の私領(しりやう)皆(みな)以(もつ)て天下(てんか)の法度(はふど)制令(せいれい)を本(もと)として之(これ)に傚(なら)ひ其(そ)の国(くに)を治(をさ)む。二宮仕法(しはふ)の規則(きそく)に触(ふ)れて行(おこな)はれ難(がた)き時(とき)は、豈(あに)私領(しりやう)の規則(きそく)而已(のみ)触(ふ)れざるの道(みち)あらん。従来(じゆうらい)私領(しりやう)に行(おこな)ふ所(ところ)数(かぞ)ふるに暇(いとま)あらず。未(いま)だ曽(かつ)て私領(しりやう)の規則(きそく)を変(へん)じ然(しか)る後(のち)此(こ)の道(みち)を施(ほどこ)すものあらず。旧来(きうらい)の法度(はふど)制令(せいれい)依然(いぜん)として悉(ことごと)く欠(か)く所(ところ)なく、方法(ほうはふ)其(そ)の間(かん)に流行(りうかう)し、荒地(くわうち)を開(ひら)き米財(べいざい)を生(しやう)じ善人(ぜんにん)を賞(しやう)し貧困(ひんこん)を救助(きうじよ)し、国家(こくか)をして自然(しぜん)に豊富(ほうふ)に帰(き)し、万民(ばんみん)を安(やす)んじ永安(えいあん)の道(みち)を立(た)て、是(これ)に於(おい)て始(はじ)めて古来(こらい)の法度(はふど)規則(きそく)の欠点(けつてん)をも補(おぎな)ひ、遂(つひ)に国政(こくせい)をして仁政(じんせい)に帰(き)せしむる者(もの)、是(こ)れ仕法(しはふ)の良法(りやうはふ)たる所以(ゆゑん)なり。其(そ)の国(くに)により万一法度(はふど)に聊(いささか)触(ふ)るゝ事(こと)あらば、法度(はふど)を動(うご)かさずして仕法(しはふ)を折衷(せつちゆう)し、其(そ)の時処位(じしよい)に依(よ)つて其(そ)の宜(よろ)しきを制(せい)せり。是(これ)れ仁術(じんじゆつ)にして其(そ)の術(じゆつ)尽(つく)る所(ところ)なく諸国(しよこく)に行(おこな)はれて成功(せいこう)ある所以(ゆゑん)なり。君(きみ)此(こ)の地(ち)に至(いた)る以来(いらい)二宮に委(ゐ)して道(みち)を行(おこな)はしめ、其(そ)の不可(ふか)なるを見(み)て然(しか)る後(のち)行(おこな)はれ難(がた)しとせば吾等(われら)何(なん)ぞ一言(ごん)を発(はつ)せん。未(いま)だ其(そ)の道(みち)を行(おこな)はずして何(なに)を以(もつ)てか果(はた)して行(おこな)はれざることを知(し)る乎(か)。令(れい)曰(いは)く、東郷(とうがう)の開田(かいでん)桑野川(くはのがわ)の新開(しんかい)之(これ)を試(こころ)みたり。是(これ)を以(もつ)て行(おこな)はれざるを知(し)れり。曰(いは)く、開墾(かいこん)の一事(じ)何(なん)ぞ仕法(しはふ)の仁術(じんじゆつ)とするに足(た)らん。夫(そ)れ仕法(しはふ)の道(みち)たるや恵(めぐ)むに恩沢(おんたく)を以(もつ)てし、凡(およ)そ廃(すた)れたるを挙(あ)げ絶(た)えたるを継(つ)ぎ、禍(わざはひ)を福(ふく)に転(てん)じ貧弱(ひんじやく)を振起(しんき)して富強(ふきやう)となし、民(たみ)の疾苦(しつく)する所(ところ)を除(のぞ)き其(そ)の安息(あんそく)する所(ところ)を与(あたえ)へ、惰風(だふう)を革(あらた)め汚風(をふう)を去(さ)り、教(をし)ふるに人道(じんだう)を以(もつ)てし導(みちび)くに勧農(くわんのう)を以(もつ)てし、奢侈(しやし)を戒(いまし)め節倹(せつけん)を示(しめ)し、五倫(りん)の道(みち)を正(ただ)しくして君恩(くんおん)の無量(むりやう)なることを知(し)らしめ、永(なが)く貧困(ひんこん)離散(りさん)の憂(うれひ)なからしむるを以(もつ)て要(えう)とせり。是等(これら)の道(みち)未(いま)だ二宮に於(おい)て施(ほどこ)す所(ところ)あらず。何(なん)ぞ一片(ぺん)の開田(かいでん)を以(もつ)て道(みち)の行(おこな)はるべからざるを知(し)れりとするや。且(かつ)君(きみ)先年(せんねん)未(いま)だ此(こ)の地(ち)の命(めい)を蒙(かうむ)らざる時(とき)に当(あた)りて草野某(くさのぼう)と約(やく)して曰(いは)く、我(われ)二宮の良法(りやうほう)を以(もつ)て国家(こくか)の有益(いうえき)を開(ひら)き下(しも)百姓(しやう)を安(やすん)ぜんとす。故(ゆゑ)に公料(こうれう)に此(こ)の道(みち)を開(ひら)き、二宮の力(ちから)を伸張(しんちやう)せしめんこと我(われ)必(かなら)ず之(これ)を尽力(じんりよく)せんと。草野(くさの)道(みち)の為(ため)に悦(よろこ)び、誠(まこと)に使君(しくん)の忠誠(ちゆうせい)を感歎(かんたん)し、大道(だいだう)公行(こうかう)を以(もつ)て君(きみ)を期(き)し、其(そ)の開業(かいげふ)を希望(きぼう)せり。是(こ)れ君(きみ)自(みづか)ら約(やく)するものにあらずや。今(いま)は草野(くさの)泉下(せんか)の客(きやく)となりしと雖(いへど)も、目前(もくぜん)今日(こんにち)の言(げん)を聞(き)かば如何(いかに)とかするや。君(きみ)を以(もつ)て故旧(こきう)を忘(わす)れざるの信(しん)とせんや否(いな)や。我等(われら)の得(え)て知(し)る所(ところ)にあらず。且(かつ)此(こ)の道(みち)の公料(こうれう)に行(おこな)ふべからざるを以(もつ)て幕府(ばくふ)に達(たつ)せば、君(きみ)の一言(げん)を以(もつ)て道(みち)の廃棄(はいき)斯(ここ)に決(けつ)せんこと疑(うたが)ひなし。何(なん)となれば先年(せんねん)君(きみ)二宮の道(みち)を試(こころ)みんと言上(ごんじやう)せり。是(これ)を以(もつ)て幕府(ばくふ)仕法(しはふ)の試業(しげふ)を命(めい)じ玉(たま)ふ。其(そ)の実事(じつじ)未(いま)だ試業(しげふ)に至(いた)らずといへども、幕府(ばくふ)の試(こころ)み玉(たま)ふこと君(きみ)の一身上(しんじやう)にあり、年(とし)を経(ふ)ること数年(すうねん)にして行(おこな)ふ可(べ)らざるの道(みち)なりと言(い)はば、誰(たれ)か未(いま)だ試(こころ)みずして言上(ごんじやう)せりと為(な)さんや。然(しか)らば則(すなは)ち此(こ)の一言(げん)に依(よつ)て行(おこな)はれざるの確証(かくしよう)とならん。君(きみ)其(そ)の道(みち)を試(こころ)みずして行(おこな)はれざるの道(みち)なりと定(さだ)めんこと豈(あに)衆人(しゆうじん)の望(のぞ)む所(ところ)ならんや。若(も)し二宮其(そ)の初(はじ)めより県令(けんれい)の属吏(ぞくり)たらずして独立(どくりつ)せば、何(なん)ぞ畢世(ひつせい)艱難(かんなん)誠意(せいい)を尽(つく)せし仕法(しはふ)徒(いたづ)らに廃棄(はいき)するに至(いた)らん。初(はじ)めは君(きみ)の賢意(けんい)に依(よ)つて道(みち)の開(ひら)けんことを望(のぞ)み、今(いま)は君(きみ)の一言(げん)に由(よ)つて道(みち)の廃(はい)せんことを哀(かなし)めり。何(なん)ぞ始終(しじゆう)の均(ひと)しからざること此(こ)の如(ごと)きや。是(こ)れ吾等(われら)の大(おほ)いに君(きみ)に望(のぞ)みなきことを能(あた)はざる所以(ゆゑん)なり。君(きみ)少(すこ)しくこれを慮(おもんばか)れ。
 令(れい)色(いろ)を変(へん)じて曰(いは)く、我(わ)が言上(ごんじやう)せんとするものは二宮の道(みち)を廃(はい)せんとするにはあらず、公料(こうれう)に行(おこな)はれずして日(ひ)を送(おく)らば、従来(じゆうらい)丹誠(たんせい)施行(しこう)の私領(しりよう)までも共(とも)に廃(はい)せんことを憂(うれ)ひ、小田原(おだはら)に帰(かへ)りて十分(ぶん)行(おこな)ふことを得(え)ば、二宮心中(しんちゆう)安(やす)くして有益(いうえき)少(すく)なからず。是(これ)を以(もつ)て此(こ)の事(こと)を建言(けんげん)せんとする而已(のみ)。然(しか)るに子(し)仕法(しはふ)の道(みち)我(わ)が一言(げん)に依(よつ)て廃(はい)せんと云(い)ふは何(なん)ぞや。曰(いは)く、君(きみ)一度(たび)言上(ごんじやう)せば直(ただ)ちに道(みち)の廃(はい)せんこと疑(うたが)ひなし。如何(なん)となれば二宮幼年(ようねん)より万苦(ばんく)を尽(つく)し行(おこな)ふ所(ところ)の仕法(しはふ)良法(りやうほう)なるが故(ゆゑ)に、幕府(ばくふ)之(これ)を召(め)して臣下(しんか)となし玉(たま)ふにあらずや。生来(せいらい)万民(ばんみん)撫育(ぶいく)の道(みち)に力(ちから)を尽(つく)すのみ、他(た)の才芸(さいげい)あるにあらず。仕法(しはふ)を外(そと)にして召(め)し玉(たま)ふとならば何(なに)を以(もつ)て召(め)し玉(たま)ひしや。果(はた)して仕法(しはふ)の道(みち)良善(りやうぜん)なるが為(ため)なり。私領(しりやう)遠近(ゑんきん)皆(みな)以(もつ)て登用(とうよう)し玉(たま)ふを悦(よろこ)び、公料(こうれう)に広行(くわうぎやう)有(あ)らんを望(のぞ)むこと久(ひさ)し。是(こ)れ公料(こうれう)に行(おこな)はるゝの余光(よくわう)を仰(あほ)ぎ、再復(さいふく)の宿志(しゆくし)を達(たつ)せんが為(ため)なり。
然(しか)るに今(いま)公料(こうれう)に行(おこな)ふ可(べか)らざるの道(みち)也(なり)として旧主(きうしゆ)小田原(おだはら)へ戻(もど)し玉(たま)はゞ、天下(てんか)の諸侯(しよこう)誰(たれ)か公料(こうれう)に行(おこな)はれ難(がた)き仕法(しはふ)を行(おこな)はんや。仮令(たとひ)禁止(きんし)し玉(たま)ふにあらずといへども、公(こう)に倣(なら)ふものは私領(しりやう)の常(つね)なり。必(かなら)ず忌憚(きたん)する所(ところ)ありて行(おこな)ひ得(え)ざるも亦(また)人情(にんじやう)の常(つね)にあらずや。加之(しかのみならず)小田原(おだはら)に於(おい)ては既(すで)に仕法(しはふ)を廃(はい)し、二宮の往返(おうへん)をも絶(ぜつ)せり。是(こ)の如(ごと)き小田原(おだはら)に帰(かへ)り、何(いず)れの処(ところ)に仕法(しはふ)を施(ほどこ)すことを得(え)ん。是(こ)れ君(きみ)の明(あきらか)に知(し)る所(ところ)なり。仮令(たとひ)諸侯(しよこう)公料(こうれう)に行(おこな)はれざるを憂(うれ)へずして自国(じこく)を興復(こうふく)せんと欲(ほつ)すといへども、二宮何(なん)ぞ其(そ)の求(もとめ)に応(おう)じ以前(いぜん)の如(ごと)くに仕法(しはふ)を行(おこな)はんや。
一日(にち)も幕府(ばくふ)の禄(ろく)を食(は)み君臣(くんしん)の義(ぎ)を守(まも)るもの、其(そ)の道(みち)を以(もつ)て公料(こうれう)の民(たみ)を安(やす)んずることあたはず。身(み)退(しりぞ)きて私領(しりやう)に道(みち)を行(おこな)ひ、何(なに)れの君(きみ)に報(ほう)ぜんとするや。是(こ)れ常人(じやうじん)だも猶(なお)為(なさ)ざる所(ところ)なり、況(いは)んや二宮の誠心(せいしん)に於(おい)てをや。苟(いやしく)も小田原(おだはら)に帰(かへ)る可(べ)きの命(めい)を蒙(かうむ)らば、断然(だんぜん)仕法(しはふ)の道(みち)を廃(はい)し、深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)の客(きやく)となり、再(ふたた)び世(よ)の交(まじはり)を絶(ぜつ)せんこと疑(うたが)ふべからず。是(こ)れ君(きみ)の一言(ごん)に由(よ)つて、仕法(しはふ)の道(みち)永(なが)く廃棄(はいき)せんといふ所以(ゆゑん)なり。非邪(ひか)。君(きみ)何(なん)ぞ一度(ど)此(こ)の道(みち)を試(こころ)み、弥々(いよいよ)其(そ)の不可(ふか)なることを知(し)りて、然(しか)る後(のち)此(こ)の事(こと)に及(およ)ばざるや。今(いま)一言(ごん)に由(よ)つて、私領(しりやう)億万(おくまん)の人民(じんみん)安堵(あんど)の道(みち)を失(うしな)はんこと某等(それがしら)の見(み)るに忍(しの)びざる所(ところ)なり。君(きみ)夫(そ)れ之(これ)を慮(おもんばか)れ。令(れい)曰(いは)く、我(われ)之(これ)を思(おも)はざるに非(あら)ず。屡々(しばしば)仕法(しはふ)の事(こと)を以(もつ)て官府(くわんふ)に指揮(しき)を請(こ)ふといへども更(さら)に其(そ)の沙汰(さた)に至(いた)らず、是(これ)を以(もつ)て発(はつ)することを得(え)ざるなり。
或(あるひと)曰(いは)く、是(これ)も亦(また)我等(われら)の解(げ)せざる所(ところ)なり。幕府(ばくふ)元(もと)より二宮の良法(りやうはふ)果(はた)して可(か)なるや否(いな)やを了(れう)し玉(たま)はず。是(これ)を以(もつ)て君(きみ)に命(めい)じて其(そ)の事業(じげふ)を試(こころ)み玉(たま)ふに非(あら)ずや。然(しか)るに君(きみ)之(これ)を試(こころ)みずして其(そ)の指揮(しき)を官府(くわんふ)に請(こ)ふ。官府(くわんふ)何(なに)を以(もつ)て一々開業(かいげふ)の指揮(しき)あらんや。夫(そ)れ試(こころ)みなるものは何(なん)ぞや。先(さき)づ発(はつ)して試(こころ)みずんば何(なに)を以(もつ)て其(そ)の可不可(かふか)を知(し)らん。願(ねがは)くは君(きみ)の速(すみ)やかに独断(どくだん)発業(はつげふ)して之(これ)を試(こころ)みん事(こと)を何(なに)を憂(うれ)ひて未(いま)だ試(ためし)みざるや。令(れい)曰(いは)く、官(かん)の事(こと)独断(どくだん)すべからず。若(も)し事(こと)を断(だん)じて過(あやまち)あらば免(まぬが)るべからず。我(われ)身分(みぶん)をも恐(おそ)るゝなり。是(これ)を以(もつ)て独断(どくだん)に出(い)でざる也(なり)と。或(あるひと)一言(げん)を聞(き)き歎(たん)じて曰(いは)く、某(それがし)数刻(すうこく)の愚言(ぐげん)を呈(てい)するもの他(ほか)なし。使君(しくん)公(おほやけ)の為(ため)に身(み)を奉(ほう)ぜりとするが故(ゆゑ)なり。請(こ)ふ辞(じ)せんと云(い)ひ退(しりぞ)きたり。先生何事(なにごと)をか談(だん)ぜしやと問(と)ふ。或(あるひと)告(つ)ぐるに此(こ)の事(こと)を以(もつ)てす。先生大(おほ)いに怒(おこ)りて曰(いは)く、県令(けんれい)の人(ひと)となり我(われ)元(もと)より之(これ)を知(し)れり。然(しか)して敢(あ)へて争(あらそ)はず論(ろん)ぜず、従容(しようよう)として空(むな)しく日(ひ)を送(おく)るもの豈(あに)我(わ)が心(こころ)ならんや。已(や)むを得(え)ざるが故(ゆゑ)なり。道(みち)の興廃(こうはい)元(もと)より令(れい)にあるにあらず。是(これ)を以(もつ)て我(わ)が気(き)を下(おろ)して以(もつ)て其(そ)の時(とき)を待(ま)つ。然(しか)るに汝(なんぢ)一度(たび)令(れい)に至(いた)つて談論(だんろん)し、剰(あまつ)さへ身分(みぶん)を憂(うれ)ふるの一言(ごん)を発(はつ)するに至(いた)るまで詰問(きつもん)せるは何(なん)ぞや。我(わ)が心(こころ)を尽(つく)して困苦(こんく)するを知(し)らず、一面(めん)の間(あひだ)に是(こ)の如(ごとき)きの談論(だんろん)を為(な)す、何(なん)ぞ愚(ぐ)の甚(はなは)だしきや。是(こ)れ道(みち)を開(ひら)かんとして却(かへ)つて道(みち)を塞(ふさ)ぐ者(もの)に非(あら)ずや と大(おほ)いに之(これ)を誡(いま)しむ。門下(もんか)皆(みな)驚伏(きやうふく)して仰(あお)ぎ見(み)るものなし。此(こ)の時(とき)に当(あた)つては誠(まこと)に仕法(しはふ)の窮(きゆう)極(きは)まれりといふべし。先生の大量(たいりやう)にあらざれば何(なに)を以(もつ)て此(こ)の間(かん)に処(しよ)し再(ふたた)び道(みち)を開(ひら)くことを得(え)んや。人々(ひとびと)其(そ)の大量(たいりやう)深慮(しんりよ)を感歎(かんたん)せり。是(これ)より後(のち)、県令(けんれい)も亦(また)省(かへり)みる所(ところ)あるか。又(また)敢(あへ)て此(こ)の言(げん)を発(はつ)せずと云(い)ふ。


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