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富田高慶日記

「富田高慶日記」は、富田高慶の曾孫である佐藤高俊氏の労作である。佐藤高俊氏は江戸時代に書かれた古文書のくずし字もすらすら読まれたという。2004年3月31日に亡くなられたようである。

富田高慶日記 概要抜粋

第1冊目(弘化2年11月6日~26日)
表紙裏ならびに巻頭に種々の心覚えが記されている。
・相馬仕法の機は熟した。いよいよ発業である。天保10年以来二宮先生に随身修業していた富田高慶(久助)は7年ぶりで帰藩することになった。二宮先生の代理として指導するためである。11月6日には二宮先生に、7日には草野正辰に暇乞いをし、高野丹吾を伴って帰藩の途についた。家老の草野正辰(半右衛門)と池田胤直(八右衛門・図書)だった。草野は江戸家老、池田は国元家老だった。
途中、11月12日に桜町の先生の留守宅に立ち寄り、またその前後に衣笠兵太夫・菅谷八郎右衛門らとも会談した。22日中村に帰着し、翌日池田家老に先生からの伝言を伝え諸帳面を差し出し、委細御仕法筋を説明した。25日池田は藩主相馬充胤にこれを供覧した。充胤は満足し一部を留めて熟覧した。
なお帰藩早々会所へ出たり梅蘂様に仏参している。富田の母は天保14年12月24日に死去した。26日、富田の父斎藤三太夫に明27日久助同道登城せよとの藩命があった。富田が池田に内々御用筋を伺うと、君の思召しで勧農古復掛代官席二人扶持御切米下されのお達しだという。富田はまだ修行の身分、ことにこの度は二宮先生のお使いとして来たもので志願にも相違して当惑する。ご仕法成就までは「何とも定まらざる身分」に差し置いていただきたいという決心を披露し、ご辞退する手はずの指示を仰いだ。

第2冊目(弘化2年11月27日~12月29日)
2冊目は「手扣(ひかえ)」となっている。
富田は11月27日父に代った兄斎藤庄八郎とともに登城した。ご用向きは、前日池田家老に伺ったとおりだったが、役席・扶持も固く辞退した。
周到な準備もでき、12月1日いよいよ成田村の仕法発業である。高野丹吾宅に村方一同を集め、主だった関係役人列席の下に郡代野坂源太夫と代官志賀乾が御趣法筋を申し達し、富田は仕法発業の次第、仕法の大意等を説明した。次に善行者表彰の入札を行って村民の意気込みを高め、向後の心得方を諭した。12月4日には半杭又左衛門宅を役宅として坪田村に発業した。列席者の筆頭村田半左衛門は後の家老熊川兵庫であり、草野・池田亡き後、御仕法にも深いかかわりを持つようになる。
廻村の結果は村民一段の出精が認められたし、褒美の屋根替等も順調に進んでいる。
相馬仕法の発祥はこの成田・坪田の2村であって、ここは中村城の南方4キロ内外の郊外、現在の相馬市成田・相馬市坪田の地に当る。城下肥沃の地から先ず手をつけるというのが、二宮先生の指示だったという。

第3冊目(弘化3年1月1日~7月4日)
3冊目は弘化3年1月1日から7月4日までの日記である。
成田・坪田両村の仕法は順調に発足した。満足した藩主の充胤は、お手元金百両を仕法土台金として直々下げ渡して督励した。
山上(やまかみ)の堰普請も2月24日には竣功して用水の心配もなくなった。これは中村城下を貫流する宇多川を上流の山上村地内でせきとめ、御仕法村に引き水をするものだった。
2月15日から17日にかけては、両村の再入札を行って精農を褒賞した。村民は意外の恩恵に益々奮起した。
しかし富田の帰藩は、二宮先生「大用」中特に暇を貰ったものだった。両村仕法の目処がつけば一日も早く先生のもとに戻らなければならない。せめて4,5月ころまで滞在してくれないかと懇願する掛り役人たちに今後を頼んで3月7日に出発した。途中桜町に立ちより18日には江戸に着いて委細を二宮先生に報告した。池田図書も21日には上着し、これから草野、池田両家老が交々二宮先生を訪ねては仕法の教示を受ける。
4月12日、富田は野州へ出立し13日から24日までの日記は「外に有り」としてこの日記には欠けている。用向きは宇津家知行所の取扱いだったことは27日の記事でわかる。25日には帰府するが、出立前から健康をそこねていたらしく、帰着してもしばらく病気がつづく。
先生の「大用」、御調帳が漸く完成し、6月29日、二宮先生自ら下谷に渡辺氏を訪ねて差し出すことができた。この御調帳とは3年の間先生畢世の力を尽したという日光再興御仕法雛形60巻のことであろう。渡辺氏は勘定所の渡辺棠之助である。

弘化2年11月、相馬仕法を始めるにあたって、おそらくは師二宮尊徳に厳命されたことが書かれているのであろうか、その表紙の裏に書かれた覚書は尊徳先生の肉声を聞く思いがする。読みやすくするためカタカナをひらかなにするなどする。

富田高慶日記(カタカナはひらがなに直した)

(表紙の裏)    
一 金百七拾五両為替金手形。
 右は先生より受取阿部氏方に預け帰国の上会所へ差出受取可申事。


(G訳)金175両為替金手形。右は先生から受け取って阿部氏に預けた。帰国の上役所へ差し出し仕法の資金として受け取ること。

(「相馬発業についての覚」かと佐藤高慶氏の注がある。内容から見て、尊徳先生からの指示や聞書きが含まれているように思われる。後の相馬仕法の成果とつきあわせると、始めに終りをよくする報徳仕法がうかがわれ、とても意義深い覚である)

一 一村中百姓給人入交り居り候へば定て世法可有之、区別故障も有之哉。御仕法の義は廃を挙開闢の古を思ひ一円に起すの法なれば、一村中如何様の面々入交りありとも、皆平等に仕法取扱べし。若村中平等にては迷惑の筋聊にても有之は此村は先差置べし。上の威厳を以令を下さば随ふべけれども其令其好む所に反するなれば必ず手を引見合すべし。青田を威を以赤くせんとする是不成事なり。

(訳)一村のうち百姓や給金の人が入り交っていればきっと世法があろう、区別や故障も有るであろう。御仕法の意義は廃を挙げて開闢の古えを思って一円に起す法であるから、一村のうちどのような面々が入り交っていても、皆平等に仕法を取り扱わなければならない。もし村中が平等に取り扱っては迷惑であるというのが少しでもあるようならば、この村はまず差し置くべきである。上の威厳で命令を下すならば随うようだけれども、その命令はその好む所に反するから必ず手を引いて見合すことになるであろう。青田を威令で赤くしようとしてもこれは成らない事である。

一 翌年より御領中一体の平均外出候はゞ、其内両村土台外計は年々当方趣法金同様取扱、一体の土台外は当方の引受に無之候間、若二ヶ村立直候趣聞及相進候村方も有之べく、其時は諸郷代官銘々村方入札の上一村へ趣法施候とも、又平均外多分に無之諸郷へ及不申候はゝ、諸郷くじ取にて平均外米金引受取扱一村興し候とも、時宜に従ひ可然哉。左候へば諸郷よりの趣法にて夫々村方立直り可申、両村立直り候上は是よりも他村へ推及し、詰り御領中に及び可申候事。

(現代語訳)翌年から領中一体の平均外が出るならば、その内両村土台外ばかりは年々当方(仕法役所)の仕法金と同様に取り扱って、一体の土台外の収入については当方の引き受けていないところであるから、もし成田村・坪田村の2村が立ち直ったと聞き及んで、ぜひ自分たちの村にも仕法を実施してほしいという村もあるだろうから、その時には諸郷の代官がそれぞれに村で入札した上で一村へ仕法を施そうとも、又平均外が多くは無く諸郷へ及ぼすことができなければ、諸郷のなかでくじを行って平均外の米金の引受を取扱う一村を興そうとも、その時・場所に従って実施すればよい。そうであれば諸郷からの仕法でそれぞれの村が立ち直るであろうし、両村が立直った上はこれから他村へ推し及ぼし、つまり領中に及ぶべきである。

一 翌年より御領中一体の平均外出候はば、其の内両村土台外計は年々当方趣法金同様取扱、一体の土台外は当方の引受に之無き諸郷代官銘々村方入札の上一村へ趣法施し候とも、又平均外多分に無之諸郷へ及び申さず候はば、諸郷くじ取にて平均外米金引受取扱一村興し候とも、時宜に従ひ然るべきか。左候へば諸郷よりの趣法にて夫々村方立直り申すべく、両村立直り候上は是よりも他村へ推し及ぼし、詰り御領中に及び申すべき候事。

一 百姓年来の困窮に陥り、只々不足の事のみ相計り人情卑しく相成り居り候義に付き、井水を汲むが如く無尽の米金年々差出取扱申さざるには、何共世話致し候ても人情一変致さず候に付、当方より年々繰入候義は一同の惰心相除申すべき要用の事。

(現代語訳)百姓が年来の困窮に陥って、ただただ不足の事ばかり計り人情が卑しくなっている。だから、井戸の水を汲むように無尽の米金を年々差し出し取り扱わなければ、どれほど世話しても人情が一変しない。このため当方から年々繰入れる場合は、一同の怠惰の心を除くべきことが肝要である。

一 



これが「仕法第一日目、村を訪れた高慶らは次のようなことを行いました。一戸一人ずつ全員を集めて仕法の大略を説明してから、村で一番働く感心な者を投票させました。記名投票によって高点者から順に賞を与える方法で、最初の日は当選者12人に、それぞれ1両から3両ずつ、それに鍬1丁、鎌2丁が与えられました。それ以後も各種の投票を次々に行い勤労意欲をかきたてました。」にあたるのであろうか。

一 翌年より御領中一躰の平均外出候はば、其の内両村土台外計は年々当方趣法金同様取扱、一躰の土台外は当方の引受にこれ無き候間、若二ヶ村立直候趣聞及相進候村方もこれ有るべき、其の時は諸郷代官銘々村方入札の上一村へ趣法施候とも、又平均外多分にこれ無く諸郷へ及申さず候はば、諸郷くじ取にて平均外米金引受取扱一村興し候とも、時宜に従ひ然るべき哉。左候へば諸郷よりの趣法にて夫々村方立直り申すべく、両村立直り候上は是よりも他村へ推及し、詰り御領中に及び申すべく候事。

尊徳先生は水が上から下へ流れるように、もし窪みがあればそれを満たして後に下に流れるように自然の順序を経て仕法を広められるよう諭されたのであった。

一 百姓年来の困窮に陥り、只々不足の事而已相計り人情卑敷相成居候義に付、井水を汲が如く無尽の米金年々差出取扱申さざるには、何共世話致し候ても人情一変致さず候に付、当方より年々繰入候義は一同の惰心相除き申すべき要用の事。

尊徳先生が桜町で仕法を始めた当初もただただ不足を申し立て、人情が卑しく補助や援助ばかり求める人々の扱いに苦慮された。人々が井戸の水をくむように尽きる事が無く分度外を推譲するようになって永安の仕法が完成するのである。一同の怠惰な心を除くことが肝要である。

一 村方一同の目鑑を以入札致し、高札の者より三番迄五両四両三両も下され切に取計い候て村方人気の為に相成候はば被下切も然るべく、さりながら恩義になれ後々の為に如何に候はば金高を増し五年賦十年賦にも貸付候方然るべき哉。且壱人弐人の落札人には鍬壱枚宛か鎌壱枚宛か下され候方然るべきの事。

尊徳先生は人間心理を見る達人でもあった。投票によって始めて褒美をもらうときには感激するのであるが、人は恩義になれて次第に感激しなくなるのである。したがって金額を増すとか年賦の期間を長くするとかする工夫がいる。このやりかたは富国捷径にも詳しい。そしてまたたとえ」投票が一人二人という者にも鍬1枚とか鎌2枚とか僅かでも褒美を渡すべきだとする。いかに人間の心が恩義になれ、なかなか継続できない人間心理を見抜いていた。それだからこそ晩年は心田の開発、一人一人が自発性をもって取り組むことの大切さを説かれたのである。

一 入札両三度も取計候へば村方人気大抵人気の模様相分勧善の道自然説かずして相顕れ申すべく候事。

一 村方極難の者雨露の凌も出来ざる者は、わらにても宜敷候間当座凌に屋根葺替遣し置、其の後大丈ふに屋根替又は家普請等一同の入札を以取計申すべき事。

一 極難の働を以事多端に取扱候ては大望の義に宜しからず。唯々善人を賞し候位の事にて人々も案外の思ひをなし、あれ式の義は誰にても出来候事と申合候位にても、後々は多端にて致方之無程に相成るべく候間、別段働之無き方宜候事。

一 扶持給の義は何程にても下され候はば残らず村趣法金に差出申すべし。御領中に余り候物は唯此扶持のみにて、是の如く余る物を取計候へば村方立直り申すべし。余計程村方早く立直べく候間持するに及間敷事。

一 大丈夫に出来候趣法に付、不出来物と相心得見切候て後手を下すなり。趣法を行者違なしといへば人其手違を唱ふ。我より手違ものといつて初むれば人嘲らず。人の嘲る者を我唱る是手違之無き証拠なり。恩義を受れば人気不穏のみならず、内外の嘲あり。夫れのみならず事のもつれに至る。手を引離し一金も受ざれば悉く安し。事六ヶ敷事あらば直に手を引誰も可不可を論ずる事なし。

一 両村積立米代金御勝手より差出籾御囲置れるべき旨、此れは何れにても然るべき哉。

一 諸郷村々へ御払米御拝借米の義は、先々の通り御取行之有る方当然の義、仕法金に御繰入等にては混雑致すべし。殊に成就不成就の程相分内ならず、一廉計似寄候事之有り候ても詮無き事に付き、先諸郷の義は御仕来通にて然べき事。両村拝借米等の義も、是又先々の通りにて宜、却て可不可も相知申べ哉の事。

一 人富む時は内優なる故に善心ありて恥をしる。


弘化2年11月26日天気
一 今昼過八つ時(午後2時)より会所へ罷り出候所、御家老郡代勘定奉行列席にて、朝より御仕法書熟覧致し一同甚だ感心の趣き申し聞かされ、就て縄索(なわない)帳跋文中其の外の道歌等話舌致すべき旨に付き、夫々申し述べ色々相談し暮れ頃引き取り申し候事。
一 夕刻御父様へ草野次右ヱ門殿より御用書到来、明27日五つ半時(午前9時)二男久助同道にて登城致すべき旨申し来候に付き、暮れ過ぎより池田様へ罷り出種々御咄申し上げ、其の後明日御呼び出しの御用筋心得る為内々相伺いたく、畢竟私進退の義は、先生御仕法の興廃に相拘り候事故、何れにも相伺い置きたき由述べ候所、其の義は過日より御打ち合わせ致したく存じ含みおり候得共、寸暇を得ず全く此の度の義は御発業の御境に候へば、一廉君の思し召しもこれ有り、勧農古復掛代官席仰せ付けられ、弐人扶持切米下され候御達しの由申し聞かされ候に付き、未だ修行の身分、殊に此の度先生御使い同様罷り出、右の御取扱これ有り候ては志願に相違仕り当惑致し候間、早速御辞退申し上ぐべく、小子一分の所は、御成就迄は何とも不定身分に差し置かれ候ては、御仕法に相叶ざる旨申し述べ候処、一辺御請け申し上げ、御近習の者相頼み、御用人中へ御別席にて御辞退申し上げたき由申し述べ、志願の趣き一々申し上げ候はば御聞き済み相成るべき旨御咄に付き、右様取り計らい申すべき由申し置き四つ半(午後11時)過ぎ帰宅致し候事。


富田高慶日記
第2冊目(弘化2年11月27日~12月29日)
2冊目は「手扣(ひかえ)」となっている。
富田は11月27日父に代った兄斎藤庄八郎とともに登城した。ご用向きは、前日池田家老に伺ったとおりだったが、役席・扶持も固く辞退した。
周到な準備もでき、12月1日いよいよ成田村の仕法発業である。高野丹吾宅に村方一同を集め、主だった関係役人列席の下に郡代野坂源太夫と代官志賀乾が御趣法筋を申し達し、富田は仕法発業の次第、仕法の大意等を説明した。次に善行者表彰の入札を行って村民の意気込みを高め、向後の心得方を諭した。12月4日には半杭又左衛門宅を役宅として坪田村に発業した。列席者の筆頭村田半左衛門は後の家老熊川兵庫であり、草野・池田亡き後、御仕法にも深いかかわりを持つようになる。
廻村の結果は村民一段の出精が認められたし、褒美の屋根替等も順調に進んでいる。
相馬仕法の発祥はこの成田・坪田の2村であって、ここは中村城の南方4キロ内外の郊外、現在の相馬市成田・相馬市坪田の地に当る。城下肥沃の地から先ず手をつけるというのが、二宮先生の指示だったという。

(カタカナをひらがなに直し、ふりがなをふるなど読みやすくした)

弘化2年11月27日天気風
一 今朝五つ半時(午前9時)、御父様少々御不快に付き、兄様御同道下され登城。御用人衆へ申し上げ候処、暫く差し扣(ひか)え罷り在るべき旨にて四つ半(午前11時)過ぎ迄扣(ひか)え居り候所、御用人御詰所へ罷り出候様御達しに付き罷り出、富田五右ヱ門殿より別紙の通り申し渡さる、猶村田半左ヱ門殿より別紙申し渡さる、其の通り相心得忠勤相励むべき旨に付き、有難き旨御請け致し退き、御祐筆玉木源蔵殿相頼み御用人衆へ御別席にて御辞退の筋志願申し上げたき旨申し述べ候所、早速別席にて村田氏面会に付き、今日格別の思し召しを以て御召出し御扶持頂戴給わり有難し、去りながら先生仕法の大意、御国元御再復を相願い候者、従来頂戴来り候官禄をも差し上げ、御趣意成就迄は専一に相励み候趣意に付き、先年頂戴の御扶持も其の砌(みぎり)御辞退申し上げ、尤もの筋に御聞届け御預置きに相成り、今般御発業に付き、村方御仕法金へ御下げに相成り候。今度の義は相替らざる御発業の節に候へば猶更の義に付き、御仕法御成就迄は御辞退申し上げたく、尤も只今迄頂戴来候格禄を差上げ発業致すべき処、今迄頂戴も仕らざる御扶持給を新たに頂戴仕り候て御発業相成るべき筋これ無く、殊に今度の義は先生御使い同様の身分、役席仰せ付けられ候義にこれ有るまじく、是又役席相定まり候ては進退相極り、御仕法筋此の後御行れの筋押立て唯々御安堵の道相開きたき心願のみに御座候間、何分御扶持の義は御辞退仕り、御役席の義は御年限中御免に預かり、只今迄の身分に差し置かれ候様相願い奉り候旨申し述べ候所、至極御尤もの義感心致し一々申し様もこれ無き次第、早速君へ申し上げ差しひかえ候様申し開き、程無く御次へ罷り出で候様御沙汰に付き罷り出で候処、御逢い遊ばされ候旨にて御前に罷り出で候処、久々にて対面、数年の艱難修行相貫き、今般仕法発業に相成り大慶致す。先生にも御障りもこれ無き哉、此の後何分御仕法筋厚く相励み成就致し候様、猶申し聞きたき義は何時にても直に承り申すべしとの御意。夫れより引き取り候処御用人座敷へ罷り出で候申し達しに付き罷り出で候処、志願の筋申し上げ候処至極尤もの義に付き其の通り御預り置かれ御仕法の方へ御廻しに相成り、役席の義も願いの通り押立候迄御取り上げ相成り候間右様相心得べき申し達しに付き直に引き取る。

  11月28日天気
一 今夕増尾氏木崎氏へ昨日の御沙汰風聴為され罷り越し暮頃引取る。

  同29日天気
一 今夕七つ (午後4時) 過一条氏より会所にて相談致したき旨これ有り申し来し候に付き、即刻罷り越し候処、成田坪田両村御発業の御達し書出来候に付き一見の上心付きの処加筆致すべき旨に付き、御当所御振合にて然るべく、さりながら拝見仕るべき旨申し述べ、持参の上引取申し候事。

  同晦日天気夕曇
一 今四つ時(午前10時)会所へ罷り出るべき旨に付き罷り出候所、いよいよ明日成田村より御手初め御取付きこれ有るべき旨にて夫々御順取に相成り、明朝正五つ時(午前8時)村寄りにて郡代より御趣意の筋御書取り申し達し、夫より入札一段理解の上申し付け候運びに相談致し、八つ時(午後2時)引取り申し候事。
一 暮頃高野氏罷り越し、屋根葺き茅鍬鎌出来候由申し聞く。夫より同道川原にて別れ池田公へ罷り出。年来の御志願御発業いよいよ明日に至り恐悦の旨申し述ぶ。夫々御仕法向き種々申し並べ四つ半過ぎ(午後11時)過ぎ引取り候事。


第2冊目(弘化2年12月1日~12月10日)

弘化2年12月1日この日に相馬仕法は始まった。成田村の高野丹吾の家に村方一同を呼び集めて、主だった役人列席のもと代官志賀乾が御趣意書を読み上げた。富田高慶は二宮尊徳先生の御仕法が成田・坪田の両村から発業する次第と仕法の大意を説明した。それから善行者の表彰の入札を行って褒美の金を渡して、今後の心得を諭した。相馬仕法において記念すべき日である。
12月2日には、午前8時から村役人の案内で、富田・高野が村中を一軒づつ回って、村内の様子を把握した。この日、褒美を頂戴した面々がお礼に参上したので、今後の心得について説明した。
12月3日にはまた一同を呼び出して仕法の趣意を詳しく説明し、縄ない帳を読み聞かせた。それから屋根替えの入札を行い、3番札までご褒美とした。
12月4日からいよいよ坪田村で仕法を開始する。坪田村は広いので北組と南組に分けてこの日は北組である。役人列席のもと、北組全員呼び出して、富田高慶が一つ一つ仕法について説明し、入札を行い、6番札まで一々申渡書と御褒美金や農具を渡した。
それから南組を夕方呼び出して同じように入札により表彰を行った。
12月5日には南組を呼び出して、仕法について説明し屋根替えの入札も実施した。
12月6日には、富田は二宮先生に詳しく成田・坪田の開業の次第を手紙に書いて出した。
12月7日午前8時に、南組の表彰の面々を呼び出して間に合わなかった農具のなど渡した。
「この鍬で耕作に励んで、天地の積み置いた財宝・米穀を掘り出して、一村を立て直すようしなさい。」と諭したのであった。
午前9時には北組の者も呼び出して、縄ない帳の趣意についても詳しく説明して、屋根替えの入札を行い、3番札まで御褒美として屋根を葺き替えることとした。
八幡寺の住職が仕法について伺いたいと来たので、富田は説明した。夕方池田家老の家に寄って12月1日からの仕法開業の次第を話したところ、大変に喜ばれた。
12月8日坪田村へ出かけ、村役人の案内で南組を回村した。
12月9日には早朝から北組を家ごとに回村した。
12月10日八幡寺へ行って仕法について説明し、夕方には馬場・愛沢両人が屋根替え用の茅が準備できましたと報告に来たので、仕法について話をした。


弘化2年12月朔日(ついたち)天気夕小雪
一 今朝六つ時(午前10時)支度にて諸帳面持参。高野氏宅へ罷り越し処、程無く一条七郎右ェ門殿、野坂源太夫殿、草野里右ェ門殿、川村勇助、志賀治右衛門殿、代官志賀乾殿出張にて村方一同着当。野坂氏より御趣意筋書面を以て申し達し、代官志賀氏より猶又申し述べ、夫(それ)より小子先生趣法相下り候次第、並びに仕法の大意申し述べ、夫より入札帳の主意委(くわ)しく申し達し、一枚宛札相渡し入札致させ、即刻開札ニテ番枚取調べ、金子配当一通り銘々書付を以て申し達し、御褒美金一々相渡し、猶向後の心得方迄申し達し、八つ過ぎ相済み申し候事。
一 暮過給人鈴木、大和田其の外両人差扣(ひか)へ候に付き理解申し聞かせ候事。

  同2日天気
一 今朝五つ時(午前8時)より村役人案内、高野氏同道にて村中一軒毎に相廻り、村柄の模様見聞致し候事。
一 夕刻より入札帳其の外取調べ向き致し、半杭又左衛門罷り出で候。夜中引取り申し候事。
一 今朝当村御褒美頂戴の面々御礼として罷り出で候に付き、一通り向後の心得方申し含み置き候事。

  同3日天気
一 今六つ半時(午前11時)一同呼出し、猶御仕法の主意委細申し聞かせ、縄索(なわない)帳読み聞かせ、夫より屋根替え入札之を取り即刻開札。壱番札より三番迄御褒美と為し下され候旨申し渡し候事。

  同4日天気
一 今朝五つ時(午前8時)前、高野同道坪田村半杭又左ェ門方へ罷り越し候処、程無く左の面出張。村田半左衛門、野坂源太夫、一条七郎右ェ門、坂地徳右衛門、代官志賀乾、同治右衛門
 右出張同村北組残らず呼び出し、成田村同様御趣意筋夫々申し渡し相済み、夫より下拙より一々申し渡し理解申し聞かせ入札これを取る。直に開札。壱番札より六番札迄一々申渡書を以て御褒美金並びに農具相渡し、夫より南組夕刻呼出し、右同様申し渡し相済み入札之を取り候処、日暮に及び候間一同引取られ、並びに出張の面々引取り申し候事。
一 今夜中南組落札人銘々申渡書相認(したた)め置き申し候事。
 
  同5日天気
一 今五つ時(午前8時)、揃にて南組呼出し、御仕法筋一々申し聞かせ、壱番札より六番札御褒美金並びに農具下され申し渡し、猶理解申し渡し、夫より屋根替入札之を取る。開札の義は追ての旨申し諭し引取り候事。
一 今夕私宅へ御仕法帳持参の為途中迄罷り出で候処、一条氏より手面の使い行き合い、立帰り披見致し候処、明後七日志賀治右ェ門出立に付き、先生方へ成田村入札取調帳差し出したく、明昼迄に野坂氏迄持参致すべき旨、図書殿御申聞の由申聞候に付き、取り掛り夜分迄相認出来申候事。
一 横山格治方へ茅手当相頼置、残らず両村へ運び候趣に相成り居り候事。

  同6日天気
一 今朝五つ過、高野氏成田村入札帳持参にて野坂氏へ罷越し候処、留守に付き、池田様へ罷り出帳面差出し、夕刻引取り申し候事。
一 終日先生への書状相認、暮過使を以て志賀方へ相達し候事。

  同7日天気
一 今朝五つ時、南組御褒美頂戴の面々呼び出し、間に合いかね居り候農具相渡し、右農具を以て以来耕作出精致し、天地の積雪財宝米穀掘り出し、一村立直し候様致すべき旨申し諭し候事。
一 五つ半頃、北組の者共呼出し理解申し聞かせ、縄索(ない)帳の主意くわしく申し諭し、屋根替入札之を取る。壱番札より三番札迄御褒美屋根替下され候段申し渡し、九つ過ぎ一同引取り申し候事。
一 八幡寺住僧御趣意筋承りたき旨にて出席、申し渡し相済み帰寺致し候事。
一 今八つ時頃より、高野同道成田村へ罷り越し、夫より一寸帰宅、暮頃より池田様へ罷り出、朔日よりの次第有増相咄候処、殊の外大慶致され候事。
一 御同宅夜五つ過引取り、私宅へ一宿致し候事。

  同8日天気
一 今早朝出宅、坪田村半杭方へ罷越。高野氏同道。村役人案内にて南組廻村、軒別相廻り夕八つ過引取、夫より夜中迄同村入札帳取調べ申し候事。

  同9日天気
一 今早朝より、肝入鈴木藤兵衛案内にて、北組の分夫々家毎に廻村致し、夕刻引取。取調向き致し候事。
一紺野織衛殿より来状、先生方無異の向き申し来候事。

  同10日天気夕雪時雨
一夕刻八幡寺へ罷り越し御趣法筋相咄置候事。
一暮頃、馬場四郎兵衛愛沢源右衛門両人、屋根替茅受取届として罷り出候に付き、御仕法筋相咄申し候事。


第2冊目(弘化2年12月11日~12月20日)

相馬仕法の成田村・坪田村での実施も11日目に入る。
屋根替えの表彰等の実施が着実に行われ、目に見える形で現れるため、村民も仕法に深く信頼を置くようになる。しかもそれは自分たち自身の投票によって決定したことである。
まさにリンカーンの言う「人民による(投票)人民のための(表彰)」の施策が実現されつつあったのである。

12月11日 富田高慶は高野丹吾と一緒に成田村の岩松の屋根替えの現場へ出向いた。夕方4時頃には完成した。小助の屋根替えも明朝には取り掛かる。
12月12日 午前8時岩松の屋根替えの出来栄えを見分してから、三太、下高松利助の屋根替えに取り掛かった。明日から権右衛門の屋根替えに取り掛かる。
12月13日 午前6時成田村を回村し、8時には引取った。それから小助の屋根替えの現場に行き、更に坪田村の三郎左衛門、権右衛門、池上与祖右衛門の屋根替えの現場を見分した。
「別して一同勢いよろしく」とあるように自分たち自身が選んで決めた屋根替えだから勢が出るのである。
12月14日 午前7時から回村した。それから坪田村の屋根替えの現場を見て回った。
12月15日 午前6時前から成田村を回村した。どの家も起きている様子である。回村はただ回るだけで早起きせよとか、働けとかいうことはない。たまたま早起きの者がいれば褒めたりはする。しかし、タライの水を箸で回していると最初は箸が回るだけで水はまわらないが、箸を回し続けると次第に水も回るようになり、しまいには水の流れに箸が従うようになる。それと同様で朝早く回村を続けるだけで次第に村全体が早起きしはじめるようになり、しまいには朝早くから働くようになるのである。
12月16日 午前7時から坪田村を回村する。昨日の夕方までに遠藤三郎衛門、与祖右衛門の屋根替えが終了した。この日の朝から高松源助の屋根替えに取り掛かる。
12月17日 午前4時過ぎから成田村を回村する。早起きして縄ないを始めている感心な者もあった。それから坪田村の屋根替えに取り掛った現場に行く。10日、12日、13日と雪が降ったりした。高野丹吾は風邪をひいていたので屋根替えの現場に詰めていた。
12月18日 家老の池田図書と村田半左衛門、野坂源太夫が昼に見物にこられた。夕方高野氏の家に立ち寄られた。池田公は漢詩を詠まれた。
 善種生じて大波濤に繁る 徳行秀で富山高きがごとし
 干茅屋に乗せる誰か相厭わん 夜々索綯(なわない)せざる家無し
12月19日 坪田村の屋根替えした面々がお礼に来たので、富田は一々仕法について説明した。
夕方、坪田村の世話役たち都合10人が来たので、「この上は極難の者や困窮している人たちで生活できかねている者たちの屋根をわらで補修してやるので、調査して申し出るように」と伝えたところ、一同「有難いことです」と答えた。それから仕法についてあらまし説明した。
12月20日 午前4時から回村して、10時頃には引取った。
世話方が回村し、極難の者6人分別に屋根替えすることとした。
夜に入って、屋根替えした面々がお礼に来たので、貧富自然の道理、雨露を凌ぐため来年の耕作に出精するようになど様々に教諭した。


同11日天気
一今朝高野氏同道にて半杭方出宅、成田村へ罷り越し、岩松屋根替の場へ罷り越し、度々世話致し見聞仕り候処、一同相進、夕七つ頃には屋根替出来上がり引取申し候事。
一夕刻小助宅へ罷り越し見候処、是又屋根破出来、明朝より取掛り候旨、村役人申し聞候事。
一夜中西久保の書状銘々相認申し候事。

同12日昼前より雪夕晴
一今朝五つ頃より岩松屋根替出来見聞。夫より三太普請の様子相尋ね、岡本小助宅へ罷り越し候処、屋根替取掛り居り候に付き能々申し付け、夫より権右ェ門屋根替明日取掛り候由に付き、罷り越し差図いたし、半杭方へ立ち寄り、八過引取る。尤半杭又左衛門並びに肝入初太郎案内の事

同13日天気昼俄かに雪夕晴
一今六つ時成田村廻村。五つ頃引取る。夫より又々同村屋根替の場へ罷り越し候処、小助宅今日中出来候旨申し聞く。夫より坪田村三郎左ェ門池上与祖右衛門屋根替の場両度見聞、下高松利助宅出来。夕八つ過引取り申し候事。
一南組三軒土地の屋根葺引受け、北組三軒会津屋根葺引受けの事。
一村世話方其の外給人肝入、夫々分配自身屋根手伝い相励み、別して一同同勢分宜候事。
一夕刻、茅世話方横山格治罷り出候に付き、茅弐万弐千抱余、代金拾両壱分弐朱余、同人へ相渡申し候事。

同14日天気
一今六半時より村方相廻り候処、三太屋根昼後迄に出来上申すべき旨申し聞く。夫より坪田村へ罷り越し候処、半杭同道にて遠藤三郎左ェ門宅へ罷り越す、夫より権右衛門屋根今朝より取掛り、明日は出来申すべき由、夫より与祖右衛門方へ罷り越す。同人屋根のき附け置く、是又明日出来上り候由、申し聞き候事。半杭方にて昼弁当、夫より源助宅へ罷り越し、屋根こわし置き候様申し付け、夫より下高松利助方へ罷り越し、屋根仕上げ見聞致し、夕七つ頃引取る。
一村長五兵衛肝入初之助小助三太屋根替出来の由届申し出候に付き、葺代相渡し申し候事。

同15日曇
一今六つ前より成田村廻村。何れ起居候様子、五つ前引取、直に仕度致し坪田村屋根替三軒の場所見廻り、夫々差図致し、夫より台町市蔵屋根明早朝より取掛り候由に付き手当致し置き申し付け、夫より源助宅へ罷り越し右同断、同所島九右ェ門愛沢両人罷り在り候に付き、種々理解相咄し、八つ半頃引取る。
一今朝村長五兵衛同道にて三太岩松小助罷り出で、頂戴の屋根御礼申し述べ候に付け、向後の心得方理解に及び申し候事。

同16日天気
一今朝六つ半時より坪田廻村。昨夕迄に遠藤三郎左ェ門与祖右ェ門両宅屋根替出来、今朝より台町市蔵高松源助宅へ取掛り、夕刻市蔵宅出来、源助宅は明日中に皆出来の旨申し聞き候事。

同17日天気
一今朝七つ過より成田村廻村。奇特人共早起にて縄索等致し居り候者もこれ有り、六つ過引取る。夫より又々坪田村源助宅へ罷り越し候所、早朝より屋根取り掛り居り。夫より台町市蔵屋根見分、野方田方の模様等夫々見聞致し、昼前引取り候処、高野氏風邪快候由にて、普請場へ相詰め候由の事。
一今昼時、森武兵衛殿より高野氏方へ手紙到来。今夕又は明日の中、都合次第両村屋根替下されの者共御見聞成されたき由に付き、明昼時より御出の方然るべき旨申し述べ置き候事。
一今夕又々源助方へ罷り越し、弥(いよいよ)明早朝迄に出来上り候の様申し諭し引取る。

同18日天気
一今朝高野氏両人にて源助方へ罷り越し、屋根替早々出来候様差図致し、四つ頃引取り候処、程無く左の御面々高野氏宅迄御出張の事。
 池田図書殿 村田半左衛門殿 野坂源太夫殿
 昼時より両人其の外肝入等案内、両村見聞、夕刻相済引取、又々高野氏宅へ立寄、池田公即吟、  
   善種生繁大海濤 徳行秀若富山高
   干茅乗屋誰相厭 夜々無家不索綯
一坪田村世話人一同罷り出、廻村致し、夕刻一同引取る。
一今昼頃迄に九軒の屋根替皆出来申出候事。

同19日曇夕雪
一今朝浜名宇之助鈴木卯太郎両人罷り越す。坪田村屋根替下されの面々御礼罷り越す。坪田村屋根替下されの面々御礼罷り出。一々理解申聞候事。
一今夕八つ時より坪田村半杭又左衛門方へ引き移し候事。
一今夜六つ過より、坪田村世話方の面々都合拾人罷り出候に付き、此の上極難困窮人当難凌ぎかね候者共、わらにて屋根補遣し申すべきに付き、六軒見聞の上申出べき旨申し聞候処、一同有難き段相答。夫より御仕法筋申し諭し、九つ頃一同引取る。

同20日雨
一今早朝六つ時より廻村致し四つ時引取る。
一世話方一同廻村致し、能々見分の上、極難百姓六人を申し出候に付き、則屋根葺き積り差出すべき旨申し渡し候事。
一夜に入り、屋根手入れ下されの面々御礼罷り出で候に付き、貧富自然の道理、雨露を凌がせ為し候間来年耕作出精致し申すべき旨、種々相諭し遣わし候事。


第2冊目(弘化2年12月21日~12月29日)

12月21日昼に足軽頭佐藤市郎左衛門の配下の喜左衛門が、屋根を手入れくださったお礼に来たので、仕法について説明した。昼から磯次の屋根へ取り掛かった。
成田村の屋根の手入れをした者たちがお礼にやってきた。
12月22日に「昨夜より風気」とあり23日~25日の日記が空白である。富田高慶はおそらくは風邪で寝込んでいたのであろうか。
12月27日に昨夜阿部俊助、杉浦菊右衛門両人が江戸から到着して、二宮先生には別条もなく、また相馬で仕法に着手した村の取扱いがとてもよいと大変喜ばれていると聞いて高慶自身の喜びが聞こえてきそうである。
12月29日に阿部俊助が再び来て二宮先生からの伝言を伝えた。
「ことごとく両村の取扱い都合よく、大慶いたし候」旨を話して帰っていった。

同21日天気
一昼時足軽頭佐藤市郎左ェ門配下喜左衛門、屋根手入下されの御礼罷り出で候に付き、理解申し聞かせ候事。
一今昼より礒次屋根へ取掛り夕刻出来の事。
一成田村屋根手入下されの者共、夜中御礼罷り出候事。

同22日天気
一昨夜より風気に付き、今昼神路町半杭方引取掛、下高松屋根手入場へ立寄り、礒次次郎右ェ門両人屋根出来見分、夫より高野方へ立寄り引取り帰宅。直に池田公へ罷り出。夫より野坂氏一条氏へ罷り越し、両村取扱いの次第逐一申し述べ、暮頃申し候事。

同23日天気

同24日天気

同25日天気

同27日天気
一昨夜阿部俊助殿杉浦菊右衛門殿両人下着の由にて杉浦罷り越す。江戸表先生方別条無く、且つ当方両村取扱向き能き旨、大慶致し候旨、申し聞られ候事。
一高野丹吾殿罷り越候事。

同29日天気
一夕刻阿部俊助殿罷り越し、先生よりの伝言、且つ悉く当両村取扱い能く、大慶致され候由申し聞かせられ、引取り申し候事。


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