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ドラマシナリオ 発明王鈴木藤三郎の報徳

発明王鈴木藤三郎の報徳   作 桜田 勤  提供 森報徳報本社

「報徳」58(5) 1959年5月号p22-25、「報徳」58(6) 1959年6月号p17-21

TM    森報徳報本社提供 鈴木藤三郎の報徳
SE     神楽CI-UP-BG
N     明治28年日本精製糖株式会社を起し更に台湾製糖株式会社を創立して、その社長になり、実業界に製糖王・発明王と称せられるに到った。鈴木藤三郎は、安政2年11月18日遠州森町に生れた。森町に菓子商を営む鈴木伊三郎の養子となり、家業にいそしむ藤三郎(幼名才助)はふとした機会から、二宮尊徳の教えに接し当時遠州報徳の先覚者として、直接二宮尊徳の教えを受けた、新村豊作(旧名山中理助)が社長とする、森町報徳社に入り、更に岡田佐平治、岡田良一郎、松島授三郎、平岩佐兵衛、等遠州報徳の先輩の指導によって、報徳道をもって身を立てるべく決意した。かくて家業を立て、更に氷砂糖の精製を志して、粒々辛苦、あるいは研究室にこもり、あるいは外国を回って事業を視察する等、研鑽努力すること20年。遂に明治33年46歳にして、台湾製糖を創立してその社長となり、ここに森町の菓子屋鈴木藤三郎は一躍して日本の精糖事業を完成して、砂糖王と称されるに到ったのである。
      明治38年11月栃木県今市の報徳二宮神社では、二宮尊徳五十回忌の祭典が行われ、この日二宮翁の遺徳を偲び、その業績をたたえ、国家永安の道を祈願するもの、朝野の名士、更に商、工、農に従事するもの、老いも若きも全国からつどう、来拝者3万といわれ、その祭典は盛大を極め、祭事もとどこおりなく終った。
SE    神楽UPしてBG
藤三郎   いやー盛大なお祭りで何よりですな
関根宮司  天気も上々ですし
藤三郎   二宮先生もおよろこびでしょう。神社も立派に出来たし、この上は報徳の道を広めるだけです。ねえ関根さん
宮司    神社の鎮座式のときは、先生は見えられましたかな
藤三郎   来ましたよ、ちょうど私が外国を回って帰ったその秋でした
宮司    そうでしたな、あの時は品川子爵や松方さん方に大変御力に大変御力にあずかりましたが、今日は又先生のお力で大鳥居やら神餞所まで出来まして有難うございました
藤三郎   いやいや、とんでもない、二宮先生への万分の一の御恩返しも出来ませんよ。それよりね、関根さん、これから二宮先生の教えをひろめることですよ。それにあのー二宮先生の書きのこされたもの、手紙とか、日記とか、大分遺書があるという話しをきいていましたが
宮司   ございますよ。一万巻の遺著がのこされております。色々貴重な教えがのこされておるようですがー
藤三郎  でそれは、今どこにー
宮司   相馬にあります。
     そのことは、こちらの大槻さんがよくご存じでー ねえ大槻さん
大槻   あ、先生の遺著のことですか、ただいま相馬家の倉庫にございます。
     しかし整理もされずにそのままのようです
藤三郎  ほー、相馬にあるのですか
大槻   何でも、二宮先生がなくなられた当時は、この今市の文庫にあったそうですが、明治のご一新のとき、ここが戦場になったでしょう
藤三郎  そー
大槻   それで、相馬家では尊行さんを相馬にまねかれましてね、そのとき遺著を相馬に運ばれた様です。何しろ戦争のさ中を運ぶので、ここから相馬まで80里でしょう、一度には運べないので、馬につんで数回に分けて運ばれたそうで、大変なご苦労だったそうですよ。
宮司   そのうち相馬も奥羽同盟に入って、官軍と戦うようになって、相馬家も危くなったもんで、何でもそのときは人家の土蔵を5,6年借りてそれに分散しておいたとかねえ、大槻さん
大槻   そうです。その後尊親さんが北海道に行かれるとき、相馬家に預けたものですよ
藤三郎  そうですか、大切なものだ。しかしね、その二宮先生の原本一部だけではもし万一のことがあれば、それっきりになってしまうし、それに今のままでは誰でも見るというわけにもいかないしねー
大槻   そうですよ、それを私どもも心配しているのですが、何ともなりませんのでー
藤三郎  そうですか、うーむ、何とかしなきゃあいかんな。
     よろしい、一つ今日の50回忌の祭典を記念して、その遺著を一まず複写しましょう。原本のほかにもう一部つくろうじゃあありませんか。
大槻   複写をですか
藤三郎  どうです
宮司   それは、もうそれに越したことはありませんが、大変な仕事ですな
藤三郎  大変でしょうが、出来ないことじゃない。
ねえ、大槻さん、あなたは幸いに相馬の方だ、一つお骨折り願えませんかな、あなたがお世話をしていただければ、そのための必要な費用は、私が一人で負担しましょう。ここで引受けますよ。
大槻   え、先生お一人で
藤三郎  失礼のようだが、こんなことは相談していたらいつまとまるかわかりゃしませんよー早速やろうじゃありませんか。
     ねえ関根さん、そして出来あがったら土蔵を建ててそれに、納めて、二宮神社に奉納します。そして二宮先生の研究のために、公開してだれでも見られるようにしようじゃあありませんか。ねえ、大槻さん。
大槻   いや全く願ってもないことです。ねえ、関根さん。鈴木先生がこう言って下さる、お願いしようじゃありませんか
宮司   本当にかたじけないことです。早速皆さんにもお話ししてお願いしたいと思いますが、ぜひ一つお願いします。
藤三郎  早速一つかかって下さい。二宮さんの方へは関根さんあなたからお話ししておいて下さいよ。いや何しろ、二宮先生の教えというのは解りやすいようで、中々むずかしいものだ。勉強すればするほど味が出てくる。そりゃあ、富田さんの報徳記、福住さんの夜話なぞ、立派な書物があるが、どうしても、二宮先生ご自身の書かれたものを、世に出さなくちゃあいけない。
大槻   そうです
藤三郎  私が一番最初に読みましたのが、まあ、私なぞまともな学問をしたことはないのですが-
宮司   いやいやとんでもない
藤三郎  一番最初に見ましたのが、あの天命十箇条でした。
大槻   ほー、いつ頃のことでございますか
藤三郎  さあね、何でも21、2の頃でしたかな。私の実家に正月に年始にゆきましたらね、ちょうど、座敷に二宮先生何とかという本があった。
私あ、そのときまで二宮尊徳を知らなかったですよ。で、兄にね、この「にぐう先生」というのは何だときいたんですよ
大槻  「にぐう」といいますと
藤三郎  あっはっはっ・・・・・私しは二宮というのを知らんでしょう。二宮を「にぐう」と読んだのですよ。あっはっはっはっは・・・・・・・・・
大槻   あはは―そうですか 
藤三郎  そうしたら兄がね、これは「にぐう」じゃあない、二宮とよむんだ。
二宮尊徳という人はこう言う人だと話をしてくれましてね。
いや全くその時、はじめて兄から報徳の話しをきいたわけですよ―
宮司   なるほどね、まだ遠州におられたころですな
藤三郎  そ―、これが私の人生の開けた日かも知れませんね、報徳の道に入った第一日です。そこで兄から借りて来たのが例の天命十箇条でした
大槻   いい本から読まれましたね。
あれは特に分の考えをはっきり出しておりますね
藤三郎  そうです、ですから私は今でも報徳の教えの中で、この自分のおかれた今日ただいまの分、現在の自分の職分に生きるという、考えを重んじているのですが――がしかし、さっきの話しの様に二宮先生の教えは中々深い。
ちょっとくらい読んでもそのほんとうの意味がわからない――この天命十箇条についても、例の菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草の葉の虫は煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己れの分度とす
大槻   ありますね、面白いところですね 
藤三郎  これがその当時意味が解らない。先輩の説明をきくがどうしても腑(ふ)におちない。私はこの問題を三年位あっちこち、かつぎあるいたもんでした
宮司   あなたという人は何でも徹底的にやらないと気がすまない――
藤三郎  そうかも知れんが、とにかくあの当時は夢中でしたね。
     誰でもつかまえて議論をふっかける、一度なんか水谷東運さんという坊さんに、檀家の人達の前で議論をふっかけてね、ずい分いやがられたこともありますよ。何しろ20代の頃でなま生き盛りだったからなあ
大槻   あなたの気性じゃあ、そうだったでしょうね
藤三郎  それでこの菜の葉の虫の問題で面白いことがありましたよ。
ちょうどね、あの三遠農学社の松島さん御存知でしょう。遠州伊平の松島授三郎さん、あそこで遠譲社の大会がありましてね。
新村豊作さんが、一緒にゆこうといわれたのでお供していったわけですが
大槻   あ―当時遠州の報徳社は盛んでしたね。岡田先生お二人ともご健在だし福山さん、新村さん、松島さん、立派な方がそろっておられた
藤三郎  とにかくあんた、報徳の羅漢(らかん)さん達が一堂に集って、4日も5日も続けて報徳の講義をやり、議論をたたかわすのですからね。しょっちゅう夜明けまでやったもんですよ。その松島さんところの大会の席でした。
     そうだ、あのときは例の平岩佐兵衛さんが座長をされたっけなあ・・・・・・
SE   座の人達の声
    「森の才助どんが、意見があるそうだ」 「何だ遠慮なく言えよ」
    「才助どん、いわっしゃい」 「誰だ誰だ」
    「森の才助だ」 「言え言え」 「言わっしゃい言わっしゃい」の声
藤三郎  実は例の二宮先生のおっしゃった、菜の葉の虫は菜の葉を己れの分度とし、煙草の虫は煙草の葉を己れの分度とする。このところの分度といわれますのが、どうも納得がまいりませんのでご説明を願いたいと思いまして
A    うーむ、分度の問題か?
B    藤曲村のご仕法張でも言っておられる、あそこだ。
まず菜の葉に生れた菜虫は、菜の葉に生れたのが、すなわち天命、山に生れた さる、くま、しし、しか は、山に生れたが天命、そこに分度があるという問題だな
藤三郎  私は3年も考えておりますが、いまだにがってんがいきませんので
A     わしゃあね、二宮先生が分度といわはれるのはのう、人の職業、その人の身代の分度、いわば、百姓には百姓の道、十石とるものは十石の身代この身代をさしたもんだと思ってるがのう
B     まあ、そうだろう、それを勤め人で言えば、50円の給料取りは50円の身代、それに相応する生活を守れと言う意味だろうな
A     自分の分度を考え、それを守ることが大切、他人はどうだ、こうだ、と他人をうらやんだり、心をまよわせてはいけない。
己れの身代をしっかり守ることが大切だと言うのだろう
C     先ず、そう言うことだな
藤三郎  いや実はどなたにうかがっても、そのようなお話しなのですが―そうしますと、どうも人間というものはまことにつまらぬものだということで、いつでも人間というものは、その人の置かれた身分というものから脱け出ることが出来ない
C    才さんは若えからのう
A    なあ才さん、それが迷いというものじゃあねえのか、他人を羨んじゃあいけねえ、先ず自分の身代を考えろってことじゃあねえかい
藤三郎  そうでしょうかねえ
平岩   ううむ、才助さんの考えは、中々いいことを言ってると思うが、わしゃあのう、この分度ってものは人の身代とか、その人の身持ちとか、他人のことを羨むなとか、そういう生活上のことばかしを言っているものじゃないと思うよ。二宮先生の言う分度ってものはその形で考えるもんじゃあねえと思う
B    じゃあ、平岩さんのお考えは
平岩    こりゃあな、つまり人は銘々個人個人、その人、その人の才智というものがある。その人だけの特徴、特異というものがある。その人の持って生れた性分と言うか、持ち前というもの、これを生かしこれに生きること、その人の天分の理というものが大切だ、これが第一だ。こう言う意味合いのものだと思うのだが―
B     というと銘々が一人一人の持ち味がちがうってことを言ってるわけですかい
平岩   まあ、いわば、そういう意味じゃあねえかのう、ねえ、松島さん
松島   うむ―
藤三郎  平岩さん、ただいまのお説は私も初耳で大へん味のあるお考えだと思いますが―ただね、それだけでは人一人一人が違うものだという御説明だけで
平岩   人は一人一人が違う、人は同じじゃない、違うのが原則だ、この考えが大元になるんじゃあないか
藤三郎   それは解るんですが
平岩    それでも納得いかなえというのかい
藤三郎   どうも
A      才さん、お前さん三年も考えてるんだからお前さんの考えもあんべえ、お前さんの考えを言ってみちゃあ、ねー
藤三郎   私もね、ただ自分の考えてることもあるんですが、ただ皆さんのお考えと合わなえと、わしみえな若僧の勝手な考えになっちまうと思いましてね
平岩    才さん、かまわねえ、お前さんの考えを言ってみなせよ、みんな報徳の衆ばけえだー
藤三郎   私しゃあね、菜の葉の虫もはじめは菜の葉にいるが、その菜の葉を食い尽しちまえば、自然と煙草の葉に行かれる。そして煙草の虫になる。しかし自分のただいま置かれた境涯、その身分をやりつくさないで、そのつとめを尽さないうちに新しい境涯を求めてもいけない。いや求められるものではない。
二宮先生は決して、虫が新しい葉に移ることを禁じたのではなくただ小さい菜の葉の虫でありながら、身分を忘れて一足とびに大きな葉の虫になろう。大きな煙草や、芭蕉の葉を求めてはならぬ。こういましめられているのではないか、しかし小さい虫も、その分度を守ることによって願わずして大きい葉に移れるものだということーまあこんな風に考えちゃあいけないもんでしょうかねえー
平岩    なるほど!
A      うーむ
B      なるほど
松島    平岩さん、こりゃあどうも、負うた子に浅瀬を教えられたようなことになった。才助さん、平岩さんの言うことが大本だがお前さんの言うとおりそれでいいだ
平岩   才さん、それでいいだよ
SE    拍手―CI-FO
母    才助、才助起きろよ起きろよ
藤三郎  うーむ、うー
母    才助、おとっあんおこってんぞ、早く起きろよ
藤三郎  うーむ
母    報徳もいいが夜遅えじゃあ、こまんのうー
おとっあん、ごはん食べねえで待ってんだ、おこってんから早く起きてこいよ
藤三郎  はいよ、又寝坊しちゃったか
SE    鶏の声、川のせせらぎ
父     なあ才助、ゆうべも又遅かったが、報徳も結構だがナ、お前みてえに朝寝坊じゃあしょうがねえ。朝寝の報徳なんてあんめえ
藤三郎   どうもすみません。ただね、お父あん寝勘弁てことをいいますね、
私しゃあこのごろ少し考えてんですが、物事には順序がある。
今年あ一つ、じっくり考えて、来年から計画を立てべえ、理屈いうようですまねえですが、これが私の朝寝の報徳ってやつで
父     馬鹿言うでねえ、報徳に朝寝の報徳なんてありっこねえ二宮さんをみろ
藤三郎   まあ、そうおこらねえで下せえ、今年のうちに来年の計画を立て、まず私しあ、菜の葉の虫になり切る
母     何だその菜の葉の虫ってなあ!
藤三郎   明治9年、ことしまでのことは、まず先の世のことだとスッパリ切りすて、来年の一月元旦から、私の紀元一年としますよ
父     何も来年なんて言わねえで、今日からやったらよかんべえ!
藤三郎   まあ、いそがねえで下さい。計画と段取りが出来なきゃあ、しょうがねえ。私しあお父さん、お茶は止めますよ。製茶はやめてこの菓子屋一本で、うちの家業を立ててきます。この一本やりで進む決心をしました。菜の葉の虫は菜の葉が分度!
父     そりあいいが!
藤三郎   しばらく見ていて下さいよ、その代り来年からお父つあんあんまり働きすぎるなんて、心配しねえ様にね
母     そんだけどナ、朝寝坊じゃあしようがねえのう
藤三郎   お母さん、このごろね浜松に「眼覚し時計」ちうのが出たそうだ。浜松の宮代屋って店にあるちうで新村さんと一緒に見にゆくことにしてんだよ
母     何だ、その眼覚し時計ちうなー
藤三郎   朝の5時に起きるならよ、その5時になんとの、時計がひとりでに、何もしねえでも、ヂリヂリヂリって鳴り出しての、その音で眠りをさますように仕掛けてあんそうだ
父     そんなものが出来たのか
母     ほんとかのー
SE   眼覚し時計の音、CIからBGへ
N    一年間の菓子屋の売上金をしらべると、1,350円、一方家の経費は、260円、まず、この家の経費の切つめは出来ないかと、家計整理からはじめた、そこで50円の節約が出来ることになった、この50円に自分の努力を加えて、第一年は100円をのこそうと計画がたった。その結果、その年は1,900円売上げて予定通り100円のこした。
     第二年度はこの100円に、更に150円を増して250円の利益を得ようと計画を立てた。そのためには、2,000円の売上げをすれば、七分の利益を見込めばよいことになる。これを一割の利益として計算すると、品物はうんと安くしても、合う勘定になる。こうして第二年度は、品物を安くしたので、売上げはふえて、2,000円の予定が3,500円を売上げた。
かくして五年目には鈴木菓子屋の売上げは、第一年度の2,000円の五倍の一万円にのし上った。
こうなると僅かに五分の利益を見込むだけで充分ということになったのである。菜の葉の虫は菜の葉を喰いつくしたのである。
菜の葉の分度は、しかと守られて狂いはなかった。森町の菓子屋は、次に煙草の葉にうつる時が来たのである。
鈴木藤三郎が氷砂糖の製造を志し、その精製に日夜研究を重ねるに至ったのは、明治15年、彼が28歳のときのことである
SE   読経の声、UP-BG
     二宮神社の建立される以前、明治15年10月栃木県今市の如来寺では二宮尊徳の二十七回忌の法要を終えて、その帰り途、宇都宮の宿屋稲屋に一泊した。その夜中のことである
SE   夜の風の音、BG-OFFにて神楽の音に交って(フイルター)
A   砂糖はいくら固めようと思っても外からの力で固まるもんじあないよ
B   どうすりあ固まるんだ
A   結晶体の自然の法則というものがあるのだい
B   その結晶ってのは何だ
A   砂糖は純粋になればそのとき自然に結晶する自然の法則で純粋な砂糖は自分で固まるのだ
B   それではまじりものをとることに苦労すればいいのか
A   そうだ不純なものを取り去れば、砂糖は自然に固まるのだ
B   不純物をとり去るー
A   そうだ砂糖が純粋になったときパッと美しい光を出す。その光ったときから砂糖は結晶しはじめるのだ
              (以上フィルター)
藤三郎  誰の声だろう、この夜中に
SE    風の音、神楽の音ややUP-BG
藤三郎  砂糖が純粋になれば自然に結晶する美しい光を出して結晶をはじめる。不純物をとれというのだ
SE    風の音止んで神楽の音のみOFFで
藤三郎  そうか、俺は今までこの法則を逆にやっていたか、今までは自然の結晶を妨げていたのだ。ようし解った、いけるぞ
N    森町の鈴木菓子屋の味噌部屋はにわかに実験室に変った。
鈴木藤三郎のはげしい、文字通り血みどろの苦闘がはじまったのである。しかし、菜の葉から煙草に移ったこの煙草の葉虫はこの煙草の葉を喰いつくした、氷砂糖は遂に結晶したのである。
鈴木藤三郎はやがて東京に鈴木製糖をつくり、この精糖所は更に日本精製糖株式会社に発展し、ついには台湾製糖株式会社を生み出すに至った。
煙草の虫は芭蕉の葉に移ったのである。
我々は再び二宮尊徳の教えを思い出そう。
「菜の葉の虫は菜の葉を己の分度とし、煙草の葉を己の分度とし、芭蕉の虫は芭蕉の葉を己の分度とす」

二宮尊徳顕彰運動のためのドラマ「鈴木藤三郎の報徳」を終わります。
このドラマは日本産業の開拓者、鈴木藤三郎を生みこの人を育てた森町報徳報本社の提供でお送りしました。(完)


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