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大久保侯、尊徳先生に領民の飢饉救済を命ず

報徳記  巻之五

【四】小田原侯先生を召して領中の飢民撫育を命ず

天保7(1836)年の大凶荒にあたり、駿河・伊豆・相模の小田原領もまた大変な飢饉となった。
領民は飢渇を免れることが困難となり、山野に出て草根を堀ったり木の実を拾った。
大久保忠真侯は大いにこれを心配されて、救助の方法を求めたが数万人の飢渇を救うことはできなかった。
そこで家臣を野州に使いにだして先生を召された。
先生は言われた。
私はこの地に参ってから万苦を尽くして再復し、民を安んずるよう勤めている。
なぜなら、君の委任を辞することが難しかったからです。
今、凶作で飢饉となっており、この民を救おうとして僅かの暇も得ることができません、
そうであるのに私を召そうとされるのはいったいどういうことでしょうか。
初めこの地の復興を委任された時にあたり、成功したことを報告できないうちは、召すこともなく、往く事もないという約束をいたしました、
そうであるのに今飢民を棄てて江戸に来るよう命じられるのは、殿様が過っているというべきです。
私は命に応じません。
もしお尋ねになりたい事があれば、殿自らがいらっしゃるべきです。
どうして私を呼ぶ事がありましょうか。
あなたは江戸へ帰ってこの旨言上しなさい。


使者はふんぜんとして怒って言った。
「臣として君命に従わないのは不敬である。
それがしは君命を受けて使いに来ている。
このような無礼の言葉をどうして殿に復命できよう。
すぐに命に従って江戸に参るべきである。」

先生は憤然として言った。
私は進退周旋一つとして君命を重じないことはありません。
今、命を奉じないのは、その初めに約束した所の君命を廃しないようにしようとするだけです。
どうして使者がそれ以上のことを知るところがありましょうか。
およそ主君の使者というものは、君命を伝えてその答えたところをもって復命するだけです。他に何がありましょう。
ただ私の言葉を主君に告げるだけでしょう。
何をはばかって滞留することがありましょう。
もし罪があるなら私にありましょう。
あなたが関わる所ではありません。
すぐに復命しなさい。
 」

使者は大変怒って江戸に帰り、君にこの言葉を告げた。
そして先生が無道であると訴えた。
大久保忠真侯は憮然としてこう言われた。
事の子細を告げないで、いたずらに二宮を呼んだためにこの言葉をもって答えたのだ。
従わないのも、もっともである。
ああわが国民(小田原領民)の飢渇を憂えることが切実であってその言葉を尽くさなかった。余の過ちというべきである。
二宮の言は直であって当然の道理である。
汝は再び野州に行って加賀守(かがのかみ)が大いに過っていたと二宮につたえよ。
かつ小田原領民はすでに飢渇に瀕している。
願わくばかの地に至って、飢民を救い、我が心労を安んじて国家の大患を除いてくれよと頼んでいたと伝えてくれ 
」とのたまわった。
使者は大いに驚いて前言を悔いて再び桜町に至って君命を述べた。
先生はこたえて言われた。
そのとおりです。
君意がこのようであれば臣がどうして命を奉じないことがありましょう。
しかしながら今この地の民を撫育するにいとまがありません。
この地の民は十年前に命を受けた所です。
今の命令を先んじて小田原の領民を撫育することをこの地の民に先って行うことはできません。
この地の救済が終ったならば、命にしたがってかの地におもむきましょう。
あなたはこの旨を殿に言上しなさい。
 」と言った。
使者はまた江戸に帰って復命した。 
大久保忠真侯はこれを聞いて悦ばれた。

そこで大久保忠真侯は、家老以下に命じていわれた。
二宮はすでに野州の廃亡を興して比類ない丹誠をつくし三村の民を安んじている。
その事業は衆人の知るところである。
今また小田原の数万の飢えた民を救助する事を任じようとする。
彼は元より一家を廃して一身をなげうち、我が出財を止め、独立一身の丹誠によりこのことを実践している。
初めより国土のために力をつくし、主恩であってもこれを受けない。
非常な英傑でなければどうしてこのような功業を遂けられよう。
たとえ恩賞を与えたとしてもまた従うことはあるまい。
しかし二宮は二宮の道があり、予には予の道がある。
どうして功績の有る臣を賞しないでいられよう。
もし彼の意がそうであったとしても、
賞の道を欠く時はどうして人君の職にあるといえよう。
汝等これを賞する道を論議すべし。
予もまた思慮しよう
」と のたまわった。
群臣はこれを論議したが決着しなかった。
大久保忠真候はそこで禄を若干と用人格でこれを賞すべきであると命じられた。

先生は十分に野州三村の民の飢渇を免れさせることができた。
その恵みたるや、老若男女とも、米や稗5俵を食にあてさせたのであった。
平年の豊作の時よりも豊かであった。
そこでその年の12月に野州を出発して江戸に到着した。
その時に大久保忠真候は病を発し、上下とも大変心配した。
大久保侯は先生が来たのを聞いて大変悦ばれ、
まず速やかにこれを賞せよ」と命じられた。
恩禄を下される前日にあたって、まず使者を差し向けて麻の上下(かみしも)を賜わった。
使者は君命としてこれを渡そうとした。
先生は憤然として言われた。
臣にこの礼服を賜わるという。
これは臣の不用とするものである。
どうしてこれを受け取れよう。
あなたはこれをすぐに返上しなさい。
 」
使者は怒って言った。
「何ということを言うのか、
君が自ら着服されたところの物を賜わる、
しかるに臣としてこれを受けないで、私に返上せよという。
臣下の道がどこにあろうか。」
先生は大きな声をだされて言われた。
臣が臣の道を知らないのではない。
君が君の道をお知りにならないのである。
今、数万の国民が罪無くして飢えて死のうとしている。
君自らこれを救う事ができない。
はるかに臣を呼んでこれを救おうとされる。
私はこのように思っていた。
君は臣の来るのを待って民を救う道を質問し、米粟(べいぞく)を下されるに違いないと。
あに、はからんや、この物を賜わるとは。
臣がこれを受けて寸断し、飢えた民に与えよというのか。
飢えた民がどうしてこの物を食らって生命を全くすることができよう。
あるいは臣にこれを着服せよといわれるのか。
飢亡に瀕している民を救うのに昼夜をわかたず奔走し、一刻も救助の道が後れる事を恐れている。
どうしてこのものを着服して飢渇の民を救う事ができよう。
このゆえに不用のものであるというのである。
無益のたまものを受けることなど思いも寄らない、すぐに返しなさい。

使者はますます怒って、この言葉を君に述べ伝えた。

君侯は感歎して言われた。
ああ、賢なるかな、二宮。
その言葉は古今の金言である。

私ははなはだ過っていた。
その物を与えてはならない。
 」

そこで先生を役所に呼び出した。
先生は出頭しないで言われた。
私に何の用があるというのか。
ただ速やかに小田原へ往こうとするだけである。
そうであるのに今、私を役所に招くというのは、私を禄位をもって賞しようというのではあるまいか。
私は今、数万の飢民を救済しようとして、民が飢渇しているのを憂えるだけである。
そうであるのに飢渇死亡が旦夕に迫っている民をさしおいて、禄位の賞を受けることをどうして忍ぶことができよう。
たとえ命令であっても私は往かない。
もし禄を与えようするのであれば、むしろ私に千石を与えるべきである。
しかしながらどうしてまた千石を与える事ができようか、せんない事である。
」と言われた。
ある人がその言葉に驚いて先生に次のように問うた。
「あなたは位禄に望みはない、また受けるのに忍びないと言われた。
それなのに千石を与えよと言われる。
千石の禄を受けてどうしようというのか。」
先生は言われた。
位禄は私がもとより受けないところである。
もし千石を与えるというなら、すぐにこれを飢えた民に与えてその生命を救おうとするだけである。
他に何があろう。
 」

ある人は先生の言葉を家老以下に告げた。
家老以下は驚嘆して大久保忠真侯に申し上げた。
「二宮の言はこのようです。
かねて評議した禄位を命ぜられても、彼は必ずや受けないでしょう。
受けないどころか、またどのような言葉を発するかわかりません。
これは止めたほうがよろしいかと存じます。」
大久保忠真侯は言われた。
宮の言葉は至言である。
まづ位禄の命は下してはならない。
予が後日、大いに賞する道もあろう。
今、予が手元の用意金から千両を二宮に与えて救済の事を任じよう。
領民を救助する米粟は小田原で米蔵を開こう。
外にも必要な資材を与えよう。
 」
家臣のなにがしという者が、この命を先生に伝えて千両を賜まった。
君自ら命じられた事だったが、大久保候の病悩ははなはだく重くなっていた。
そこで使者を先生のもとに寄こしてこのことを伝達させた。
先生は謹んで命を拝し
臣は、命をこうむり、一度小田原に至るならば、民の命を無事に救助いたしましょう。
君は決して憂い労せられることのなきように。
 」
といってすぐに江戸を出発して昼夜兼行して相模(さがみ)の国(神奈川県)小田原に至った。
人々はその至誠を感歎した。

【5】小田原侯逝去遺言

先生は小田原侯から飢民救助の命をこうむって小田原に赴いた。
用人なにがしが小田原候の病床に至ってこの旨を言上した。
小田原侯はこれを聞かれて、
金次郎は予が頼みを承知したと言ってくれたか。
病中の安心これにまさるものはない。
 」とおおせになった。
これから後、多くの医者が良い薬を選んで療養の医術をつくしたが、一向にその効験もなく日々に病悩が重くなった。
上下ともに薄氷を踏むような思いであった。
後数日たって、大久保忠真侯はいよいよ快癒することが難しいことを察せられ、家老の辻七郎右衛門、吉野図書、年寄三幣(みぬさ)又左衛門、勘定奉行鵜澤作右衛門などを枕元に召され、病床に起直って、こう遺言された。
予は今は快復はおぼつかない。
およそ生あるものは必ず死がある、定まった命をどうして憂えることがあろうか。
ただ、歎くべきは天下の執権(老中職)を命ぜられてから、悪しき風習を正し、上下の退廃を除いて、万民を安んじようとして心を尽くしたが、ついにその志願を達しなかった。
これが予の大いに歎く所である。


次には領分の民が贅沢に流れて困窮に及び、わずかに一年の飢饉でさえ飢渇に迫られている。
このようとなったのは、民の罪ではなく、領主の過ちである。
数年でこれを一変し、領民の憂いを除いて、永安の道を開こうとしたが、不肖にしてその道を行うことができなかった。
しかるに幸なるかな。
領中に二宮という者が出てきて才徳が抜群であり、このものを挙用して国の永安を任ずれば、彼は必ず予が志を達する事は疑いない。
それゆえに先年まさに挙用しようとしたが、群臣が承知しない。
やむ事を得ない、その時を待とうとして分家の領地の復興の事を任じた。
予が見る所にたがわないで、かの地の廃亡を挙げて、その百姓を安んじた。
その実績は古人といえどもできがたい所である。
隣国の諸侯もこれを慕って国政を任じた。
その功はこのように顕然として民はこれに帰し、人々はこれを信じた。
しかし、群臣は二宮を小田原に挙用して国事を任じようという事を思わなかった。
いたずらに他藩の重宝として悪い風習に安んじている。
これがどうして国家を憂える忠心といえようか。
予はもとより二宮を挙用し任じようと欲すること久しいものがあった。
しかし群臣の不服をいかんともすることができない。
二宮は予の命を受けて野州三村を興し、その民を安撫し、余力は他藩に及んでその力を尽くした。
どうしてその心が他藩にあろうか。
ただ小田原の民を安んじ、予の心労を休しようとすることにあるが、挙用の道を得ないのをいかにしよう。
せめて他の諸侯の懇切の求めに応じて数か国を復興すれば遂に予の志も開け、汝等並びに諸臣のねむりも覚めて、小田原の上下が安堵の道を得ることの一助にもなろうと、その誠心は生国(小田原)の安堵にあって力を彼に尽くしたのではないか。
予は二宮の深意を察している。
このゆえに他家領有の再復に力を尽くさせたのだ。
汝等はその予が心を知るやいなや。
予が時を待って大いに彼を挙用し、予が志を遂げる事を欲して、今日に至ったのだ。
しかしその事を果さないで予の命も既につきようとしている。
末期の恨みはただここに在る。
予は汝らの忠心を疑ってはいない。
汝等は心を合せて予が多年の志を継いで、孫の仙丸を補佐し、二宮を挙用し、小田原領中を復興し、上下永安の道を委任し、いよいよ国家(小田原藩)を安泰ならしめよ。
誓って予の遺言を忘れてはならない
」 と命じられた。
4名は君の深慮に大変感動し、落涙は袖を絞るほどで、謹んで言上して言った。
「君の天下国家を憂慮されていることのこのように深遠であることを知りませんでした。
不肖の罪は甚だ重いものがあります。
しかしながら今この命令を下された事は誠に身にあまることです。
何としても身命に換えましても、君の深慮を達成し、君意を安んじます。
心配なさいますな。」
大久保忠真侯は、始て安心されて、ついに逝去された。
ああ、惜しいかな、哀しいかな。
賢明の君があって賢臣があるといいながら、群臣のために先生の挙用を果たすことができなかった。
時を待ってついにその志を遂げることができなかった。
どうして一国の憂いにとどまろうか。

【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ

小田原領は駿河(するが)伊豆(いづ)相模(さがみ)の三ヶ国にまたがり、西南は高山がそびえ、北にはまた曽我山がある。
東は大海に面し山海の利便は自在を得ている。
近い昔は関八州の太守であった北条氏がここに居城を構へた事もまたもっともなことである。
土地は豊かで国の風俗は贅沢に流れ、その結果人々は大変困窮に迫られていた。
これはその利便に恵まれているがために節倹を行う道を失っているためではなかろうか。
時に天保七年の夏、冷気で冷たい雨が降り続き、暴風も起こって、五穀は実らず、すでに大飢饉のありさまになっていた。
民は百計を尽くして飢え死にを免れんとしたけれども、活計は既に尽きて、露命は今夜にも迫るものが幾万人にも及んだ。
小田原藩の家老以下は心を苦しめて思慮を尽くしたが、空論虚談を行うだけで日が過ぎて、未だに救済の道のしっかりしたものを得るものがなかった。
藩士も手に汗を握って空しく大息するばかりであった。
ところが江戸において大久保忠真候が病に臥して日々に重態になっていると数度の連絡があった。
一藩の悲歎は手足をおく所がないようであった。

その歳の12月先生はすぐに小田原に赴いて
「君命を受けて飢えた民を救済するために来た」と言われた。
命令の趣旨を伝達して、こう言われた。
今年は大飢饉の年にあたっている。
殿は病床におわして、領民が飢えて罪も無く死亡に至っていることを歎かれ、私に救済を十分に行うよう命じられた。
私は野州三村の民を救済し、かの地の用財を持ち来ってはいるが、どうして小田原領救済の一端を補うに足ろう。
殿は江戸において手元金千両を私に賜わり、米粟(べいぞく)は小田原において蔵を開いて、救済の用にあてるよう命じられた。
速かに米倉を開いて飢えた民にこれ貸して、その飢渇を救おう

家老以下は一度は喜んだが、その処置をどうすべきかに疑い惑い、お互いに議論しあって言った。
「今領中の飢えた民は幾万あるかわからない。
蔵の米でどうしてあまねく貸し与えるに足りよう。
それに殿がこの事を二宮に命じられたといっても、未だそれがしらに米倉を開いて飢えた民を救済せよとの命令はない。
君命がないうちに米倉を私(わたくし)には開きがたい。
後になって命令を待たないで、二宮の一言で主君の蔵を開いたという咎めがあれば、どうしてその罪を免れることができようか、この旨を江戸に伺って、命令があってから開いたほうがよい。
どうして二宮の一言で開いてよかろうか 」
と衆議は一向に決しなかった。
先生は顔色を正して声を張り上げて言われた。
今幾万もの飢えた民の露命が今夕にも迫っている。
その困苦や悲歎は、いかばかりであろう。
殿自ら病苦を忘れ、日夜飢えた民の痛苦をのみ憂え、臣に命ずるの間も救助が遅れる
事を歎かれていた。
しかるに各位の職は領民を安んずることが任務ではないか。
上は殿の心を安んじ、下は万民の苦しみを除き、国家をして永く憂いなからしめる職ではないか。
今、殿は大いに憂労したまうのもかえりみないで、いたずらに常論を口に出すばかり、日を費し、民が飢え死にするのをを待つならば、どうして国家のために心力)を尽くす忠義があるとなしえようか。
私は君命を受けてこの地に至らなくても、各々速かに救済の道を行い、一民も飢渇の憂いなからしめ、その後に殿に言上し、危急といいながら主命を待たなかった咎めがあるならば、その罪に服しましょうとこのようにすることが、君に代って国を守り、まつりごとをとるものの任務ではないのか。
ましてや私が君命を伝達して米倉を開くことを要求しているにもかかわらず、なおこれを疑って江戸に伺おうとする。
往復に数日でなければ再度の君命は当地には達しない。
民の死亡に及ぶのを、朝や夕なに待つことはできない。
おのおの、君命を得て蔵を開く時になれば、飢民の過半が既に死亡に至ることは必然である。
救済の道がこのようであって、はたしてそれが至当であるとするのか。
ああ、惑っているというべきである。
しかしながら各々の心はここにはない。
論議しても何の役にもたたない。
明日から各々食を断って役所に来て、この評議が決するまでは決して食事をしてはならない。
飽食し安居して飢えて苦しんでいる民を救ふことを坐って論ずるならば、その民の困苦を知ることはできない。
いつになっても評決することができようか。
今飢えた民の事を論議するに、自ら食を絶ってこれを論議すればその可否を論じないで自らわかるであろう。
私もまた断食してこの席に臨もう。
各々必ずこのようにせよ
」 
とその声は雷のように、一坐の者は大いに驚いて、また当然の道理を感
じて、即刻米蔵を開こうと言った。

先生は直ちに米蔵に走っていって、すぐに蔵を開けるように番人に伝達した。
番人は言った。
「君命がなければ、どうして開ける事ができよう。
あなたの言葉だけでこれを開くならば後でどんな罰をこうむるかわからない。」
先生は言った。
私は江戸で君命を受けて来た。
また、この地でも蔵を開くことで衆議一決した。
事は急を要し、まだ役所から文書で伝達するいとまがない。
汝がもし開くことができないというなら、私と一緒に飲食を絶ってその命令を待つがよい。
領民は飢饉の歳のために露命は明日の朝にも迫っている。
どうして平常の事でこれを論ずることができようか。
 」
と大きな声でこれを戒められた。
番人は先生の一言に服して米蔵を開いた。
先生はその俵数を点検して領村へ運送の手配りを定めた。
これから領中を一人歩き廻り、あるいは高い山を超え、深い谷をわたり、終日終夜少しも休まれなかった。
この時になって勘定奉行の鵜澤作右衛門が君命を受けて、江戸から来たって先生と一緒に廻村した。

尊徳先生は大久保忠真侯の逝去されたことを聞いて、慟哭悲歎し涙を流して言われた。

ああ、私の道はついにここに窮してしまった。
賢君が上にあってこそ私は安民の道を行うことができた。
私は始めて命を受けてから10数年間、千辛万苦をつくしてきたのは何のためか。
上には明君の仁を広め、下には万民にそ恩沢をこうむらしめようとするだけだ、ほかに何があろう。
ついにその事業はなかばに至ることなく、殿は忽然として逝去されてしまった。
今後、誰と共にこの民を安んずればよかろうか。

と大きくため息をつかれて、その悲痛のありさまは前後を忘れるほどであった。
暫くしてその容貌を改めて毅然としてこう言われた。

ああ、憂心歎息が度を過ぎるときは、飢えた民の救助の道を怠ることになる。
一人の民でさえ失う時は、殿の尊霊はどんなにか歎かれることであろう。
一刻も早く殿の仁沢をあまねく施してこの民を救わなければならない。

と、涙をぬぐって、村々をまわり、一村ごとに無難(ぶなん)・中難(ちゆうなん)・極難(ごくなん)と三段に分けて、穀物を貸与する人数を定めた。
そしてその償還期限を5年とした。
極難のものが償還できない時は一村の力でこれを償還するべき約束を定めた。
蔵の米が到着する間も死亡を免れないような飢えた民があった。
先生は数百両を懐にして、このような飢えた民一人ひとりに尋ねて、自ら金を与えてこう言われた。
近いうちに殿の恵みがあって汝等一人も死亡に至らないように救助がある。
暫くの飢渇はこれをもってしのぐがよい。


飢えた民や病気の者は数日、絶食してその容貌は疲れやせて立ってこれを受けとることもできなかった。
ただ、先生に合掌して拝み、涙を流してその救助のかたじけないことを感謝した。
これを見る人、皆落涙しないものはなかった。
駿河・伊豆・相模(さがみ)の領中の村々をこのように回り歩くこと数日で救済のの道はことごとく備わった。
救済したものは、合計で飢民40,390余人である。
天保9正月から5月の麦作の実りまでの食糧をゆたかに貸与したため、領中から一人の民も離散や死亡に至る者もなく、無事に大飢饉の憂いを免れたのであった。
実に先生の非常な丹誠によるもので、一世の心力をつくした。
古今比類のない救済の良法を行ったのであった。
領民は必ず死に至る大患を免れて再生の思いをした。
その大恩を感動し、感謝することは深く、数万の貸与の穀物は一人として不納はなく、約束を守り、五年で皆納するに及んだ。
これを以て民心の感動の深さを知るべきである。
これにより小田原領は先生の良法を慕って、旧弊を改めて大いに風化する発端となった。
救済の正業は外に全備の帳簿がある。
だから今はその概略を記すところである。

【7】先生小田原の家老なにがしに飢饉の年に当然為すべき道を論ずる

尊徳先生は天保8年の大飢饉にあたって、救済を命ぜられて小田原に至った。
時に小田原藩家老が先生に問うた。
「飢饉の年となり民を救うことができない。
この時にあたってどのような方法で飢えている民を救って、こえを安んずることがで
きようか。」
先生はこう言われた。
「礼経にこう書いてあります。
『国9年の貯えがないのを不足といい、6年の貯えが無いのを急といい、3年の貯え
が無いのを国その国に非ず』と申します。
それ歳入の4分の一をあまらせこれを貯え、水害やヒデリや、飢饉、盗賊など衰乱の
非常に充てるというのが、聖人のさ定められたことではありませんか。
事あらかじめする時は救済の道をどうして憂える事がありましょうか。
そうであるにわずか一年の飢饉がきて救済の道がないとはどうしたことでしょうか。
このようにして国の君主の任務はどこにありましょう。
家老の執政の任務は何をもってその任務としましょうか。」

家老は言った。
「事前に備えることがあれば、元より飢饉の憂いはない。
今、どのようにすればよいのか。
その備えもなく、またその方法も得ることができない。
この難場に臨んでこれを解決するの道はあるのか。
救済の米や財がなくて、民を救うことは英傑明知であってもできないところではない
のか、それとも別に道はあるのか。」

先生は答えて言われた。
「どのような困窮の時であっても自然と処すべき道がないなどということはできませ
ん。
ただ行う事ができないことを憂いとするだけです。」


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