安居院(あぐい)庄七、柴田順作、福山滝助秦野農業協同組合で「安居院庄七」の特集号を発行されたという記事に出合った。早速、連絡して資料を送っていただいた。 感謝します。 安居院(あぐい)庄七は尊徳先生の直接の弟子ではなかった。 天保13年に面会を求めたが、忙しいと断られ、風呂焚きとか下男の仕事をしなから、先生の話に聞き耳をたて、悟るところがあって、後年静岡方面に報徳の教えを広めた。 先生晩年に報徳衆と再度面会を求め、よくやったと先生からねぎらわれた人物である。 なんでも安居院庄七は秦野出身であることから、農協創立40周年記念に顕彰したのだという。 少し引用してみよう。 「1 1789年(寛政元年1月)秦野の蓑毛に生まれる。 大山の修験蜜正院が蓑毛に移り住み、その6代目の藤原秀峰法印の次男として生まれた。 庄七は成長し、安居院(あぐい)家に婿入りした。同家は穀物商を営んでいた。 ところが庄七は、米相場に手をだして失敗し、財産を使い果たしてしまった。 2 1842年(天保13年7月)二宮尊徳を訪ねる(庄七54歳) 二宮先生が低利で金を困った人に貸してくれると聞き、野州桜町陣屋に尊徳先生を訪ねる。 しかし多忙を理由に面会は拒絶された。 風呂番や雑用をして陣屋に厄介になった。 庄七は面会こそできなかったものの、先生の来訪者との対談や門人達への説話を立ち聞きしているうちに、最初金を借りにきたのに、天理・人道から説き、治乱盛衰の根源に及び、難村の復興や困窮した民の救済のため、身を忘れて精力的に実践されている尊徳先生の姿に感動した。 ああ、それに比べわが身はどうか。 私欲に走り、米相場で失敗し、人の金をあてにして、また一山あてようなどと考える、浅ましいことよと深く心に恥じた。そしてこのとき人のため世のため生きようと一大転換を起した。 3 庄七、家に帰り元値商を始める。 それから仕法の組み立ても真剣に勉強し、ついに借金も言い出さず、先生に面会もせず、20日余りで郷里に帰った。 商売は売って喜び買って喜ぶ双方喜ぶのが極意であると尊徳先生の教えを聞いて、 よしと米を元値で売るという元値商を始めた。 それでも空き俵、締め縄、米ぬか、こぼれ米を売って多少の利益があったという。 これが後に「報徳につき諸品安売り、現金掛け値なし」という報徳店が広がる始めである。 しかし元値商は家人になかなか理解されるはずもなく、 「一家を廃して万家を興さん」と決心し、弟の勇次郎とともに郷里を去った。 4 万人講へ入る 2人は実家が修験者の家であったため、大阪の河内の杉沢作兵衛を訪ねた。 杉沢は自分が苦難した体験から他人の難儀に共感し同情する慈悲心にあつかった。 この杉沢氏が「万人講」を組織しており、庄七兄弟は後に継承者となった。 万人講は伊勢・春日・八幡の3社に大灯篭を献じたり、大神楽を奉納し、道路や橋を補修したり、社会奉仕的な内容を持っていた。 2人はそうした全国的な結社活動の中で正条植えなど近代的な農法なども吸収していった。 5 1847年(弘化4年)遠州下石田に報徳社創立(庄七59歳) 三河国藤川宿の主人が、神谷與平次を紹介し下石田村に行った。 同地方は、水害や凶作が重なり、疲弊していた。 庄七は、数日とどまり、救貧の道、復興の法を説き、また農事の近代的手法を紹介した。 村人は感激し、下石田報徳社を創立した。 6 1848年(嘉永元年)牛岡報徳社設立(庄七60歳) 報徳社運動はたちまち周辺に広がっていった。 掛川の庄屋の岡田佐平次も報徳の教えを聞いて、自分の村でもやってもらおうと、庄七を宿舎に訪ねた。 佐平次が手土産に菓子折りを差し出したところ、庄七は言下に叱責して退けさせたと言われている。 佐平次は、庄七の説くところに感動し、兄弟を自宅に招待し、3日間にわたり夜を徹して論議した。 そして身を修め、家を修め、国を富ますこと、この道に超えるものなしと確信し、その年12月牛岡報徳社が結成された。 7 1853年、庄七尊徳先生に面会し、弟子たることを許される 1853年には報徳7人衆とともに日光を訪れ、二宮先生に面会できたのであった。 三戸岡道夫氏は、この折の対面を次のように活写している。 「嘉永六年(一八五三)になった。その頃になると、遠江国には報徳運動が普及し、報徳社の数も増え、岡田佐平治の報徳への信念が益々強まるにつれ、 (一度、二宮先生に会って、直接その教えを受けてみたい) という思いが、やみがたいものになった。そこで遠州報徳衆四百十九名を代表して、 倉真村 岡田佐平治 下石田村 神谷与平治 森町 中村常蔵 森町 山中里助 気賀町 武田平左衛門 気賀町 松井藤太夫 影森村 内田啓助 以上の七名、いわゆる遠州報徳七人衆が、安居院庄七と一緒に、日光の旅館桜秀坊に金次郎を訪れたのである。 一行が遠州を出発したのは嘉永六年八月十日であったが、日光に着いたのは九月四日だった。 しかし、金次郎は多忙の上に、病状がはかばかしくなくて、すぐ会うわけにはいかなかった。岡田佐平治たちは仕方なく、九月十二日までの九日間、仕法書の筆写などをしながら、金次郎との面会をひたすら待った。 ところが、困ったことが起きた。一行が遠州を出たのは八月十日だったので、夏支度だった。それが一ヶ月が過ぎ、秋の早い日光では寒さが押し寄せ、夏支度では過ごせなかった。そこで、 「先生との面会がかなわなければ、また改めて出直してまいります」 と申し出ると、金次郎は、 「遠州報徳衆との面会は、去年わたしが約束したものだから、これ以上お待たせするわけにはいかない」 と言って、翌九月十三日に、病をおして、面会となった。 一行は金次郎に、遠州の報徳社が続々と増え、今では三十余社に及んでいるなど、遠州の報徳運動の活動状況をつぶさに説明すると、金次郎はそれを熱心に聴いていたが、 「よくやってくれた」 と、自分が許可して設立したものではなかったが、遠州の報徳社を、すべて金次郎直系のものとして許可した。 それが終わると金次郎は、 「一つ参考に、茄子を作る話をしよう。茄子を作って、実が五つになれば、食べるのは三つにして、二つは保存しておくとよい。そういうやり方で茄子を育てていけば、霜の降る頃まで茄子はなるから、茄子の保存量も増えていく、世の中のことは、すべてこのようにすれば、間違いない。穫れたものを、全て食べてしまっては駄目だ。ほどほどのところで食べて、あとは残しておく。その残したものを、世の中のために蓄積していくことが大切である」 と教えた。『ほどほどのところで食べる』は、金次郎の教えの『分度』であり、『世の中のために蓄積』は『推譲』であるが、金次郎は、はじめて会う人には、むずかしい言葉を使わずに、具体的な事例を挙げて、やさしく訓戒した。 安居院庄七と遠州七人衆は、金次郎からいろいろ教えを受けて、大いに得るところがあり、感激した。とくに、岡田佐平治は自分の家の家訓を作るモデルを教えてもらったりした。 さらに金次郎は『報徳安楽談』と『三新田仕法書』を一行に与えて激励し、佐平治たち一行はその翌日、すなわち九月十四日に日光を後にして、遠州へ帰った。」 「乱杭の長し短し人こころ 七に三たし五に五たすの十」 「これは安居院庄七が、世の中を指導するについて、一番基本的な考え方である。 乱杭とは、川辺に杭をたてて、その杭には長いのやら短いのと、いろいろたてておいて、引っかかるゴミを調整し、水の力を防ぐものである。 その杭は長いのや短いのがあって、川の水の流れをうまく止めるというが、水勢をやわらげるというはたらきをする。 人間の心も同じように十全が一番いいわけだが、7つの心の人もあるだろうし、3つの心の人もある。 双方が話し合って、助け合って、十のものにしなければならないのだという考え方である。」 ☆安居院庄七は尊徳先生の正式な弟子ではなく、先生のもとで風呂焚きとして(尊徳先生は忙しくて面会する暇がなかったが、はるばる郷里のほうから来たということで、「まあ当分風呂焚きでもさせておけ」と言われ、雑用をやるなかで、尊徳先生の話に自得し、わずか20日ほどで辞去し、郷里に帰った。 そして、米を元値で売るという究極の商いを行ったのである。 利益となるのは、空き俵、しめ縄、米ぬか、こぼれ米を売った利益であった。 安居院庄七はその実践の中で「商売は売って喜び買って喜ぶ」という極意を自分のものとする。 しかし、そうした商法が養子先の家人に理解されるはずがなく、郷里を出て静岡方面に尊徳先生の教えを広めるのである。 「自他の振り替え」これこそが金次郎が酒匂川の河原で大久保忠真候から表彰されたときに気づいたことで、それは「一家を廃して万家を興さん」という決意へとなり、我が家を処分し、一家で桜町へ赴任していった経緯と重なるものがある。 静岡方面に報徳思想が浸透し、報徳運動の一大拠点となっていくのは、実に安居院庄七という人のこの自覚と実践にあったのである。 そしてこの歌にあるのは「凡夫の自覚」であり、共生き・共生かされの思想である。 尊徳先生は天地の道理に気づかれ、生涯天地の理に学ばれた。 観音経の人を助け世を救うことが大いなる善と14歳の折に思ったことは「今でも一日のごとし」 (昨日のようだということではないのだよ、一日一生、今日ただいまのことのように思われる)とおっしゃっている。この気づき、自覚、自誓は並みの人間には到底できるものではない。 安居院庄七は、そうした凡夫の自覚のもとに 「人間の心も同じように十全が一番いいわけだが、7つの心の人もあるだろうし、3つの心の人もある。双方が話し合って、助け合って、十のものにしなければならないのだ。」というのである。 それが「芋コジ」である。 タライの中に芋をいれてかき回す。 すると芋同士がたがいに切磋琢磨しあって外皮をはがすように、 互いに知識や経験を吐露し、相互に教えあい、指導しあい、助け合う報徳生活の実践である。 ○柴田順作(二宮翁逸話 80 二宮翁と柴田順作) 柴田順作氏は静岡県庵原(えはら)郡の人で報徳を信奉して庵原村付近に報徳の種子(たね)を蒔き、こんにち庵原村のごとき良村を作りたてる下ごしらえをなせし事については非常の功績のある人で、柴田氏は二宮翁より教えを聴いて庵原郡に帰りて報徳の道を説き、ついに庵原村字杉山の徳望片平信明氏に報徳の趣旨を伝え、しかして片平信明氏はただにその付近に報徳の種子(たね)を播いたのみならず稲取の前村長田村又吉氏にもこれを伝えた。 しかして稲取村は報徳の主義を根拠として村政の改革を行い、今では良村の一として数えられるようになった。 また庵原村にある東報徳社長西ヶ谷可吉氏もやはり柴田順作、片平信明の両氏から報徳の道を聴いて、後世にまで感化をのこす人となったのである。 なお順作氏の報徳に入った道行がよほど教訓的である。 この人はかの辺りの高持(たかもち)であって約800石を有しており、また有金も少なくないので、一時は5万両も持っておったということである。 一体駿州は製紙業が盛んで、柴田家の先祖もこの製紙の事業に勤勉努力して身代を造ったので、順作氏はちょうど3代目に当たる。 かように父祖の勤勉でせっかく造り上げられたこの身代がどうしてつぶれるようになったか、順作氏が破産をした行経を尋ねると今で言う米相場に手を出した結果である。 そこで親類が打ち寄っていかにしてこれを仕法すべきかと協議をした。 ところが前にも言うがごとき大家であるから、証文を取って貸した金ばかりでも約800両ばかりあったが、ナカナカ取れない。 で「御鉢判」今の(命令書のごときもの)をもって取りに行けば必ず取れるに相違ないという、 親類一同もこれに同意してこの方法で旧貸金を取り立てようとしたのである。 ところがかって静岡の江川町の旧家に黒金屋という家があり、この家が身代限りをしようといた時、「御鉢判」をもって昔の貸し金を取り立てた。 しかるに負債者の一人に子どもをもっている老人の家があって、「御鉢判」をもって厳談に及ばれたので一日延期してくれと願っておいてついにその老人が井戸に投身して死んだという話がある。 そこで今、自分が失敗して旧貸金を「御鉢判」で取り立てることになると、その人数が180人ばかりあるので、このうちには2人3人は自殺するのがあるであろう。 自分は仏教信者であるから、そういう無慈悲の事をするに忍びないというので、この事を実行するのに躊躇をしたが、自分がせっかく親類のきめてくれたことを水泡に帰せしむるので済まないからというので、 親類へはしばらくその実行を延期してもらって、伊豆に入湯に行くという名義で竈新田の小林平兵衛を訪れた。 ところが平兵衛は熱心なる二宮翁崇拝家であって心学道話の先生であったから、 「お前がそれほど失敗したのなら俺が二宮翁の所へ連れて行って、仕法の道を聴かせてやろう、それには明日行こう」と言うたところが、順作が、 「それは困る。明日というても野州表までは日数もかかることであるからそう速急のことにはいかない」 と言ったら、平兵衛が言うには、 「お前は仕法をするのに親族の説に従うのか、俺の説に従うのか、今日の場合一大決心を要さなくてはならない。 お前は庵原(えはら)で死んで俺の家で生きよ」 と言いつつ、徹宵じゅんじゅんと説諭された。 しかしてその翌朝出発して急速に二宮翁のもとに行こうということになると、順作が 「どうか今一遍宅へ手紙が出したいから暫く待ってくれ」 と頼むと、平兵衛が言うよう 「俺の家で生き返った者が家へ手紙を出す必要はない。直ちに行こう」と言うので野州まで引っ張られた。 その途中で二人は相州伊勢原の加藤宗兵衛の家へ立ち寄った。 加藤宗兵衛はまた熱心なる報徳主義の人であって、何が原因かは知らないがこの人も身代を蕩尽して無一物となった時、二宮翁に説諭されて当時は牛飼いをしておったのである。 この男が牛をひいて野に行く途中、平兵衛順作の二人が伊勢原の入り口で出会ったのである。 そこでその夜はこの男の家に一泊して翌早朝出立して野州に行って、平兵衛が二宮翁に順作を紹介したところが、二宮翁が平兵衛に向かって、 「お前はなぜこういう迷い者を連れて来たか」 と言われ、平兵衛は非常に叱られた。そうして翁は 「かくのごとき迷い者に会うことはできない」と言うて面会を謝絶された。 それから順作は21日の間、翁に会うことができないので、隣の垣根から二宮翁がその辺の百姓に説得されるところを立ち聞きをしてその間に非常に感服したのである。 そうして21日目に初めて翁に面会することを許された。 その時、翁は順作に向かって 「お前それほど立派な家であったに、どうしてそういうふうに零落したのか、またこの場合どういうふうに、仕法をする積もりか」 と一応意見を聞かれたので、その次第をつまびらかに述べたところが、翁の言われるのに、 「それほどの大家であればお前の先祖がみごと家を繁栄ならしめた原因があるであろう、何かお前の家に宝物として秘蔵しておる物はないか」 と言われたので、順作が 「ハイございます、紙を買出しに行くために用いました背負い縄がございまして、これが家を栄えしめたものですからそれを桐の箱に納めて秘蔵してあります」 と答えると、二宮翁は 「そうならばお前は祖先の足跡を踏んでゆかなければなるまい。 そういう背負い縄を秘蔵しないでそれを取り出して毎日働くべきである。 使用すべきものを宝物としてしまっておくものだから今日のような大失敗を来たしたのである。早く帰ってどこまでも背負い縄をもって稼げ」 と言われて、『古道に積もる木の葉をかき分けて天照神のあしあとを見む』 という歌を詠んで聴かされ、かつ帰国するの旅費として2両2分の金を与え、なお言葉をついで 「直ちに帰国し先祖の足跡を踏んで働け」 とさとされた。 しかしてその時与えられた今一つの教訓は 「貸し金を取り立てようということはこの際もっての外のことである。 そういうやり方は春収穫すべきものを冬の間に取らんとするのと同じことである。 たとえば畑の中にある芋種を掘り出して食うようなもので、親芋を取ってしまえば子はできない。 そういうことは全く止して一途に先祖の足跡を踏んで稼げ」と言われた。 そこで順作はつらつら思うのにいったん国へ帰らば決心が崩れるに相違ないというので、 二宮翁の台所におる浦賀の宮原エイ州の助手になって、翁には内緒で3年の間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。 そうしてついには翁の黙許を得て時々その給仕に出たことがある。 である時、翁の言われるのに、 「お前はこういう人間だからいかない」 と言うて香の物の切れかかったのをハシではさんで 「この通り全く切れていない。 切るならばシッカリ切るがよし切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりしておるから失敗するおである」 と言われたことがある。 その後順作は当時のことを思い出しては 「あの時ぐらいつらかったことはなかった」と一つ話しにしたということである。 (「尊徳の森」佐々井典比古著248頁 西ヶ谷手記) そうか、貴様の家の衰頽は貴様の家にその原因があるのだ。わが国の起ったのはわが国の力であって決して外国の力ではない。故に衰えるのもまたわが国にその原因があるのである。家は大工が建てる。その破損は大工が修繕する。壁は左官が塗って左官が修繕する。いま、貴様の家の衰頽したのを再興するのは、どうしても貴様の祖先の足跡を踏むより外はあるまい。いったい、貴様の女房はどうだ。しっかりしておるか?貴様の女房だからやっぱり意気地なしだろう。ぜんたい、自家の再興を図るのに、人の力を借りるようでは到底駄目だ。それに古い貸し金などを当てにするようなことでは、とても再興はおぼつかない。この貸し金などはちょうど種芋のようなものであるから、これが種となって貴様の家運を起こす助けとなるかも知れないが、それを掘り取って食うようなことでは駄目だ。それに貴様の家宝の藤づるで編んだ背負縄(しょいなわ)は祖先の足跡を忘れないための験(しるし)ではないか。貴様には年賦金など貸してはやらないから、郷里へ帰って、この歌の意を日夜守って腕限り根限り働いて見るがよい。 故道に積る木の葉をかきわけて 天照神のあしあとを見ん 古の白きを思い洗濯の 返す返すも返す返すも ☆「尊徳の裾野」(佐々井典比古)に「福山滝助氏のこと」(P336~)という記述がある。 要約して一部紹介する。 福山滝助は文化14年(1817)4月、小田原の古新宿(浜町4丁目)に生まれた。 本名里見多喜蔵である。 家は4代続いた菓子屋だったが、彼が4歳、兄の久蔵が12歳の時に父が死に、母と共に苦労して育った。 長じて、製造した菓子を荷って近郷を売り歩くうち、ふと「報徳の仕法」ということを耳にして、関心を持った。 たまたま、隣家の旅宿浜田屋から出て、藩の重臣山本源太兵衛の用人になっている、高木治左衛門という人があり、時々実家に帰ってくる。 彼はある日、これを待ち受けて、「報徳の仕法」のことを尋ねた。 高木治左衛門は、尊徳の経歴や桜町・小田原の仕法について懇切に説明したのち そなたはまだ大変若いから、もしこの教えに従って勤めて怠らなければ、一代のうちには土蔵4棟ぐらいは建てられるだろう。 けれどもそれを全部土蔵にはしないでその半分で土蔵2棟を作り、あと半分は身代の外として推し譲るがよい。 これがいわゆる虚空蔵というもので、そなたの家の『越中控え』となるのだ。 この控えがあるかぎり、そなたの家は子々孫々、万代不朽に続くだろう。 と教えた。 福山滝助は、すっかり感心して、これでやろうと決心した。 天保14年(1843)5月、小田原宿の町人有志で報徳社が結成されるとき志願して末席に加えてもらった。 しかし、まだ部屋住みの身で、推譲すべき余財がない。 彼は兄に頼んで、夏冬の衣料代として2分もらい受け、煙草袋を600文で処分して、2分600文を加入金として差し出した。 その暮れには、普段着のほかの衣類一切を処分すると言い出して兄たちを驚かせたが、結局その賛同を得て24品を差し出し、7両2分を加えた。 社中でも感嘆される、篤志の推譲であった。 福山滝助は天保14年8月始めて尊徳に面謁した。 報徳社世話人の尾嶋屋忠次郎に伴われて、江戸の小田原藩邸に行った。 そこでは、門人およそ14~5人が机を並べて仕事をしており、主席は富田高慶、次席は波多(吉良)八郎で、福住正兄もその列の中にいたという。 尊徳はこのとき鏡に向かって自分で髪を調えており、それが済むと面会してくれた。 尊徳は滝助に目を向けるとまず聞いた。 「何商売か?」 「菓子屋です。」 「菓子の『菓』と因果の『果』と、違いがあるか?」 滝助が妙な質問に戸惑っていると、福住正兄が口を挟んだ。 「草冠があるのと、ないとの違いがあります。」 「しかし、音は同じだし、形も似ているではないか。」 「それはそうです。」 尊徳は福山滝助に向かって次のように説いた。 「何事でも、第一に肝要なのは形なのだ。 形が似なければ、精神も同じものを顕わすことができない。 だから、もし人がわが道を修めようと思うなら、まず形から入らなければならない。」 この教えは福山滝助の一生を貫く大きな心棒となった。 28歳で独立して一戸を構え、福山家を継ぎ、翌年結婚したが、兄から分与された20両の資本も、小田原報徳社から貸し付けられた10両の無利息金も、そのまま兄に預けて置いて、菓子の製造販売に専念した。 報徳の精神で、100文につき1文しか利益を考えなかったから、たちまち評判になって、店頭はいつも繁盛し、終日寸暇もないほどだった。 小田原報徳社は、尾嶋屋など創立当時の世話人が欠けると、たちまち衰微した。 後に嘉永元年(1848)福山滝助は、同志5人で再興する。 嘉永4年からは、家業の年間収入30両のうち、純益の2割にあたる6両を、毎年推譲して隠居するまでの11年間これを実行した。 |