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報徳全書寄贈 鈴木藤一郎という人1

「黎明日本の一開拓者 父鈴木藤一郎の一生」(鈴木五郎著)抜粋

  序
 明治大正にかけて発明会の巨人であり大実業家であった鈴木藤三郎翁の伝記が、我が一燈園の旧参同人鈴木五郎子の丹精により執筆され、翁の創業にかかる台湾製糖の武智社長の厚意その他の尽力によりいよいよいやいや上梓され、有縁者及び全国図書館に分与されるようなったことを聞いて非常に喜ばしく思うことである。
 翁の活躍期は、自分はまだ前の生涯で主に北海道にいた頃であり、ただ有名であったことだけを知るほかこの書にあるような偉大な内容を知らなんだが、このたび原稿を五郎子に見せてもらい、実に驚き入った次第である。
 翁と自分とのつながりは、愛息2人が入園されたことから始まる。もちろん初めはこの筆者の五郎子であり、次が次郎子であった。19年前に五郎子の入園された動機、それが兄の次郎子に燃え移った模様などは求道途上の好資料であったが、それもここには省くとして、自分が台湾に行脚した時の事より書いてみる。
 もう16年の前の初めての台湾巡講の時、阿里山脈より流れてくる大きな河のほとりにある大日本製糖会社五間昔(ごかんせき)工場に招かれていった。時の重役も同じ静岡県出身の鈴木重直というた方だと記憶するが、風通しのよい客間に招かれて会社の縁起沿革などの説明を受けた。その時出たのが藤三郎氏の功績話で、
『あれが日置黙仙老師の書かれた七言絶句であります』と指さされた。
 大正4年1月、禅門の名匠日置黙仙老師が、この工場に順錫されて同じく一泊、自分が聞いたと同じ縁起を聞かれて奇縁を喜び書き残されたものである。
 五間昔畔指工場 日本製糖次第昌 来問歴史入懐旧 宿縁招我藤三郎
とあり、添書に「大正4年1月阿里山帰途訪五間昔製糖会社有感 可睡黙仙」とあった。聞けば黙仙老師は、これも近代の巨匠西有穆山老師に師事されたとすれば相弟子の関係である。阿里山を下って製糖会社にくつろいだら、それがかって相弟子であった藤三郎翁の創立した会社の一工場であったとあれば「入懐旧」である。しかし自分は、これにも劣らぬ感慨がこの一瞬間に自分の胸にひびいたのであった。
 それは、当時の鈴木家はその友人とともに、まだ遺子の2人が一燈園生活になっていることについて無了解であった。時は資本主義全盛期であり、一燈園生活に対し余程同情ある見方をしても消極的のように思われている時、そこを敢然身を挺して飛び込んで来た藤三郎翁の遺子2人と運命をともにしているのは自分である。その自分が、今この会社の招聘に応じて来講し、ことにこの会社の鈴木重役は自分の話を深い興味をもって紹介され、1席4時間の長講となった程の油の乗りかたであった。営業部長の小倉和市氏も熱心であられたが、ともに工場の経営上にも精神的なものが必要であると感じられたからである。
 それなら翁の創立された事業には一燈園生活の精神も必要だということになり、2人の遺子が父の遺した事業の完成に役立っているということになるのである。現鈴木重役は翁の事業の継承者の一人であり、翁の精神の感化もあったればこそ黙仙老師を招き、また自分等の生活にも特別の感慨をされるのであろう。すれば翁の精神的方面が、我が子の精神を招いた形でもある。自分は、たとえ地上の鈴木家とその周囲がいかに2人の入園を非難しても、翁の精神は了解している。「現に今自分を招いてくれるでないか」というような感じがして、重荷をおろしたような気持であった。
「宿縁招我藤三郎」の結局は、また自分の結思であったから奇縁である。
 当時その思いをこの筆者である五郎子に絵はがきに書いて、黙仙老師の一軸の写真とともに送ったものである。
「一燈園への入園は親不孝である」とずいぶん世間からいわれてきたが、今シナ事変になって、国民精神総動員となると、皆一燈園生活と同じ方角に来なければならぬ。当時の親不孝者といわれし2人の遺子は、実は真の親孝行者であったのである。これを知っていたのは当人2人と自分と、今一人白雲裡の翁とであったことにもなる。次郎子は数年前に おひかり へ帰られ、残った五郎子が不思議な因縁で父の伝記を編することになり、捨て身の生活であったが故にまた一層段取りがよく少しの無理もなく、法悦と感激に満たされまがらそれを完了されることになったのである。
 翁の観音信仰や、年を期して道心専門になられる予定のあったことを知って、翁はやはり菩薩行を目ざして実業界に活躍されたのであって、ただの資本主義に陶酔して金をほしがり栄華を望んだ徒輩と選を異にしていた人であったことがよく解る。一事業の頓挫などは失敗でも問題でもない。今や時は来たのである。翁の遺子やその親近者が、翁の蔵した観音信仰と、更にそれを生活に実現する大事業をする時が来たのである。東亜の新秩序というのも、これを基礎とせずしてできるものでない。聞けば清浦老伯も発明協会の旧縁を偲び、喜んで序文を書かれたとの事である。事業と精神と両面の随喜礼賛をうけて、翁も定めて満足されていることだろう。願うはその白雲裡より一段の祈りを添えて、東亜の建直しの大聖業のために更に力を尽くしてもらいたい事である。
 昭和14年7月22日
             光泉林 愛善無怨堂において
                  西 田 天 香

  はしがき
 京都市山科にある光泉林(財団法人)は、西田天香さんを中心に一燈園同人約2百人が大家族制度のもとに、印刷、建築、工芸、農園、その他いろいろの事業を経営している所である。小生も10年前の創設当時から。そこに置いていただいているのである。
 昨昭和13年春のある夕暮に作家の山本有三氏が、この光泉林を訪ねてくださった。その時、天香さんは御旅行中であったので、当時当番をしていた小生がお目にかかって、林内をご案内した後で、一刻千金と称される京の春の宵を、更けるまで四方山の話を承るの幸いを恵まれたのであった。そのお話の末に、問われるままに小生の入園の動機や。それに関連して亡き父の思い出話を申し上げたところ山本氏はこれに非常な興味を持ってくださったので、そのうちこれらのことを記録して、何かのご参考までにお手もと元へ差し上げましょうと御約束したのであった。
 秋になって、光泉林の当番を他の方に引き受けて頂いていささか筆を執る余暇が恵まれたので、山本氏への先約を果たしたいものと亡父についての記録の収集にかかってみたが、遺族の手もとに保存されていたものは、大正6年に深川で大洪水に、同じく12年に神田で大震災にあったために全部流失焼亡して一物も残っていない上に、何しろ没後30年に近い以前のことなので、京都、大坂の図書館にも何ら資料とするほどのものは見当たらない。そこで、やむなく上京して調査したところ、幸いにも上野の帝国図書館に「実業之日本」や「実業之世界」等が明治30年代の創刊号から全部保存されていて、それに亡父の談話筆記や事業関係の記事が相当豊富に記載されていることを発見して雀躍したのであった。
 この記録は、これらの資料をもとにして、昨秋から今春まで約半年の間、義弟丹羽孝三宅に寄寓して原稿紙約700枚にまとめあげたものである。始めは、せいぜい1ヶ月くらいで書き上げるつもりであったが、書き出してみると、この機会を逸しては再び着手することはとうてい不可能であることが解ったので、ついもう少しもう少しと欲が出て、分量でも時日でも予定の数倍を要する結果になってしまった。これも、遠慮のない丹羽氏宅へおいてもらったからできたことであった。
 今春、この原稿の清書を終って山本有三氏のお手もとへお届けしたところ、
「7百枚もの長い伝記をあなたがお書きになるようなすぐれた御親父をお持ちになっていた事は、あなたの大いなる喜びであり、誇りです。ある意味からいって、うらやましい限りです」
という親切なお手紙を頂いたのであった。
 これで小生としての先約は果したので、後は山本氏が何かのお役に立ててくださったら有難いと思っていた。ところが、その後、2,3の方々から『そうした記録ができたなら、それをそのまま刊行してはどうか』という熱心なお勧めを受けた。山本氏にご相談したところ、『その方法さえつけば、それが一番よろしかろう』と賛成してくださった。小生の心もややそれに傾いた。
 (略)(以下、発明関係の記事省略)
 今年は、父の27回忌である。この際に、思いもかけず本書を刊行することができたことは、本来無一物無所有の立場にある小生としては、ただただ不思議というよりほかに表現の言葉を知らないのである。それは神仏の恵みであり、一切有縁お方々の慈愛の賜物である。また、亡き父の余徳でもあろう。今小生は、天地万物の前にひざまずいて合掌礼拝したい気持に満たされて、この「はしがき」を書かせて頂いているのである。
  昭和14年7月24日
                京都市東山区山科四ノ宮
                   光泉林にて
                            著者

1 生いたち
 新航路の発見に優秀な技能を持った水先案内人(パイロット)がった。彼は勇敢に前人未踏の海洋を探って、つぎつぎと幾つかの新航路を発見して開拓した。人々はその功績を称えた。しかし、彼は最後の冒険で、最も勝れた新航路を発見はしたが、その帰途、台風にあい暗礁に衝突して、船とともに海底のモクズとなってしまった。そうすると人々は、彼の新航路発見に対する勇気はむしろ無謀であった。そのため船まで失ってしまったと非難した。その非難を、彼は無言のうちに永遠に甘受しなければならなかった。そうした一パイロットの運命、それが父の運命でもあった。資本主義発展時代の日本丸の産業的一パイロットとしての、父の運命でもあった。
 父の名は鈴木藤三郎といって、安政2年11月18日に今の静岡県周智郡森町に生まれた。父の父は太田文四郎通称平助で、父の母はちえといった。子供は二男二女あった末っ子として生まれて、幼名を才助とよばれた。父の生家は古着商であった。
 父の生まれた2年前の嘉永6年6月には、アメリカ合衆国の東インド艦隊の提督ペリーが4隻の艦船を率いて相模の浦賀に来て国書を呈して開国を迫り、また父が生まれた1年後の安政3年には、同国の総領事ハリスが下田にきて世界の大勢を説いて熱心に通商を求めた。幕府当局はすでに開港のやむを得ないものであることを悟っていたが、朝議はまだ攘夷論に傾いていて、わが国内は開港・攘夷の両論でまるで鼎の沸くようなありさまであった。安政5年、井伊直弼が大老となると国外からの圧迫に抗しかねて、ついに6月勅許を待たないで開港の仮条約に調印した。ついで幕府は、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの4国ともほぼ同様の通商条約を結ぶに至った。日本の封建制度という大樹は、徳川幕府の鎖国政策という肥料によって久しい繁茂を続けていたが、樹齢すでに700年となってその根底が全く腐食してしまったところへ、このようにして開国と同時に発達しきった欧米の資本主義という大風が吹いて来たので、ひとたまりもなく地響きを立てて倒れてしまった。そして、その跡に日本資本主義の若芽が青々と萌え出して来たのであった。
 父はこのようにわが国の資本主義の発生と同時に誕生し、その発達とともに事業家として成長し、そしてその頂点において没したのである。父の一生は、身をもって描いたわが国資本主義発達史であるといえるであろうと思われる。明治維新以来のわが国の発達は、開港と同時に潮のように押寄せた高度に発達した欧米諸国の産業組織を急激に取り入れる必要から、専らこれが模倣に頼る外はなかった。ことにその吸収については主として政府の努力援助に依存したのであるから、わが国の産業発達の画期をなすものは欧米のように産業上の大発明ではなくて、主としてその政治的大事件であった。
 このことはまた、父の一生における年代的事件にもよく当てはまるのである。父が二宮尊徳翁の報徳の教えを知って、全く更生的意気をもって新たな出発を始めたのは明治10年1月1日からで、西南の役のあった年である。父の最初の事業である氷砂糖製造の発明成って工場を東京へ移転したのが明治22年で、憲法発布の年のことである。次いで精製糖製造が完成して個人経営であった鈴木製糖所を株式会社に改めて、わが国における精製糖事業の基礎を確立したのが明治28年12月19日で、日清戦役が日本の大勝のうちに終局した年である。この戦役の結果として台湾が新領土となったので、わが国の砂糖自給策をたて、大工業としての台湾糖業の始祖である台湾製糖株式会社を創設したのが明治33年、北清事変(義和団の乱)の年である。
明治36年秋、日露戦争の準備として陸軍糧秣廠から醤油エキス製法の発明を依頼され、この発明をしたのが機縁となって、続いてその原料である醤油の促成醸成法の発明と実験を完了して当時工業会社としては最大といわれた資本金1千億円の日本醤油醸造株式会社を創立したのが、日露戦争直後の明治40年6月のことである。この事業は不幸にして失敗に終わり、その整理に全財産を提供するに至ったのだが、これに屈せず再び熱風乾燥装置を発明して北海道釧路港に鈴木水産工場を設立したのが、明治44年で日韓併合の翌年である。帰幽したのは大正2年9月4日で明治天皇崩御の翌年、第1次世界大戦の前年であった。
 またわが国の産業は、日露戦役を契機として欧米模倣時代から自主的創造時代に入ったといわれるが、父は明治36年から没年までの約10年間に、製糖、製塩、醤油醸造、汽罐、燃焼器、煮炊器、乾燥機等、まさに159件の発明をして特許をとっている。そのうちの主なものは日本ばかりではなく欧米約15カ国の特許を得て、欧米の専門業者からその特許権譲渡の交渉さえ受けている。これが当時の日本の産業が模倣時代を脱して創造時代に入ったことを、最も端的に示していることを最も端的に示しているのは面白いことといわなければならない。
(略)
 父はこのように開国の気運が大波のようにわが国に襲いかかっている安政2年に静岡県周智郡森町に呱呱の声をあげたのであったけれども、当時は、もとよりこの国内の大動揺が波及するにはあまりにも草深い遠州秋葉街道の一宿場、森の小商人の小せがれにすぎなかったのであるから、夏は前の太田川で水を浴びたり、秋は後ろの森山へ栗拾いに行ったりして事もなく幼い日を過ごしたのであった。
 安政6年、父が5歳の3月5日に同じ森町中町の鈴木伊三郎(文政4年4月27日生、養母やす天保元年8月15日生)の養子として貰われた。養家も生家と同じように貧しい菓子商であった。
 その頃のことである。ある時、父は向かいの小父さんから土産に一つの土鈴をもらった。貧しい家に生まれ、貧しい家に貰われてロクな玩具一つ持っていなかった幼い父には、それが飛び上がるほどに嬉しかった。ソッと耳のはたで振ってみると、コロコロというよい音がする。それは、春さきに田んぼでなくカエルの声よりももっと好い。まるで魂の上を柔らかい羽箒でなぜられてもしたようにウットリとせずにはいられないような音だった。幼い父は、幾度かその土鈴を振って、夢心地の快感にひたっていた。
 しかし、やがて父の心の上に、晴れわたった青空の片隅にいつの間にか一片の雲がわき出るように一つの疑問が首をもたげてきた。それは、「こんな美しい音を出すこの土鈴の内部は、どんな素晴らしい仕掛けがしてあるのだろうか?」それを知りたいとという好奇心である。父はその、土鈴の細く開いているワニ口に眼を押し付けて、息をこらして中をのぞいて見た。だが、中はまっくらでなんにも見えない。振っては中をのぞき、また振っては中をのぞき、そうしたムダな努力をどれだけ繰り返したことだろう。その努力がムダならムダなほど、父の好奇心は強まらないわけにはゆかなかった。青空のようだった幼い父の心は、今は、もうすっかり好奇心の雲でおおわれてしまった。
 もうこの上は、この土鈴をこわして中の仕掛けを知るより外に方法はないという考えがフト浮かんだ。しかし、どうしてこの大切な土鈴をこわすというような馬鹿なことができよう。そんなことをしたら、この魂をくすぐられるような天来の妙音は永久に聞かれなくなってしまうではないか!そんなこと、考えただけでも魂が凍るようだ。父はその悪魔のようささやきのような考えを振り払うように身震いをして、てのひらの中の土鈴をシッカリと握りしめた。だが、その時は、もう悪魔のカギのような鋭い爪は父の心に深く突き刺さっていて、残酷なまでに幼い好奇心をかき立てていた。幾度かの躊躇の後で、死ぬような苦しい思いをしながら、とうとうその土鈴を割って仲の仕掛けを見ようとする決心をせずにはいられなくなってしまった。
 父は軒先の雨落石の上に、その土鈴をおいた。そして、やや小さい石をさがして右手に持って振り上げた。もしその時、父の顔を見ていた人があったとしたら、幼児でもこんなに深刻な表情をする瞬間があるかと驚いたことであろう。やがて震えながら挙げられていた小さい手が、振りおろされた。それは父にとっては、自分の心臓を打ち砕くのと同じ努力であり苦痛であった。その手の下でガシャっというかすかな音がして、土鈴は幾つかの破片となって飛び散った。そしてそのカケラの間から豆粒ほどの小石がコロコロと転がり出した。それが、この神秘な音の唯一の種であった。それが幼い父が死ぬほどの思いをして探知しようとした仕掛けの全部であった。それを知った時に、父は始めて大きな声を放って泣いた。ケガでもしたかと、養母が驚いて駆け出して来たほどに大声で泣いた。それは悲しいばかりの、口惜しいばかりの涙ではなかった。むしろそれは大人が命がけの仕事をやりとげた後でひとり静かに流す涙、それに近い涙であった。
 こんな好奇心は幼児の特色であり、誰でも幼い時に必ず一度や二度はやっていることではある。しかし、大人になってまでも記憶している者はほとんどない。父はこの自分の幼時の経験を、晩年になってからも昨日の印象のようにハッキリと子らに物語った。老年になっても記憶が消えないくらいに父のこうした探究心は、幼時から異常に強烈なものであったらしい。「三つ子の魂百までも」というが、このあらゆる事物に対する異常に強烈な探求心こそは、父の生涯を貫いての性格であった。
 父は8歳になると寺子屋にあげられた。その頃から、」また随分強情な子どもであった。思い立ったことは、どこまでもやり遂げるというその強情さは、近所隣りでも評判なくらいだった。こんなこともあった。ある時、養母から言いつけられて紺屋(こうや)へ使いに行った。頼んだ物は、まだできていなかった。「あさっていらっしゃい」と言われた。それで、翌々日また行った。ところが「紺屋の明後日(あさって)」で、まだできていず、また「明後日いらっしゃい」だった。そこで憤然とした少年の父は、「もう、そんなにたびたび、お母さんに『まだできていません、まだできていません』といういなければ、できるまでここで待たせてもらいます」と入口の縁台に坐りこんで日が暮れても、どんなになだめても帰ろうとしない。これにはさすがの紺屋のおやじさんも閉口して、おかみさんを養母の所へあやまりにやって訳を話して、養母から帰るようにという使いをよこしてもらったので、ようやく父も帰ったという話もあるくらいである。
なんでもやりかけたら自分で得心するまでは、いちずにそれを究めなければ承知しない。そして、どんなことでも在来のやり方を踏襲するのではなく、そこに新しい方法を工夫するというのが、生涯を通じての父の性格の大きな特長であった。「雀百まで踊り忘れず」というから、少年時代の父にも必ずこうした性癖は多分にあったと思われる。それであるから菓子製造でも行商でも、やりかけた以上はきっと熱心に色々工夫してやったに違いない。行商崎でも見慣れぬ菓子を見かけると、すぐ手にとって割ってその製法を調べた。「どうも才さ(父の幼名才助)が来ると、店の菓子を割られるので困る」とよくいわれたという話が、現に今でも残っている。そのくらい少年時代から研究心は強かったのである。
負け嫌いの父は、もとの寺子屋仲間などから自分が貧乏人の子であると馬鹿にされるのがヒドく嫌いだった。ハンテン股(もも)引きで菓子箱かついで行商に行く姿を、友だちに見られるのをイヤがるようになった。それで、朝は星があるうちに出かけ、夕方は月が出てから帰ってくるのが常になった。養父母は、少年の父が商売に身を入れるのを喜んだ。しかし、時々明るくなるまで寝すぎることがあると、その日はなんといっても一日行商に出なかった。そうした日には養父母たちは、ふだんあんなに稼ぎ手の父の気まぐれを、不思議がったものであった。
こうしたことがたびたびあっても、とにかく、家業に精を出すとともに飴や菓子の製造も自分より遥かに上手にやる若い父を見て、老いの坂を登りかけた養父はすっかり安心したもおであろうか、54歳の明治7年に、まだ20歳の父に家督を譲って隠居してしまった。父は戸主となると同時に、藤三郎と名を改めた。
青年はとかく血気にはやりやすいものである。(略)
遠江国は、昔から京都の宇治とともに茶の産地として有名である。宇治の茶は内地向きであるが、遠州の茶はこの頃から輸出向きとして大量に取引されていた。その頃、茶は生糸に継ぐ第2位の重要輸出品であったから、森町にもそうした製茶貿易に従事している人が幾人かいて、中には相当な成功者もあった。もちろん、まだ通信運輸の機関も倉庫設備も極度に不備な時代であったから、これは全く運を天に任せるような非常に投機的な事業であったが、それだけに一つ当ればすばらしい大儲けがあったし、そうした事業に従事している人々の生活は常に散っているように花々しく、なま木がくすぶっているような自分の生活にくらべて、本当に男らしい生きがいのある生活のように思われた。
「よし、製茶貿易をやろう!古来から英雄豪傑と称えられている人は、必ず一生のうちに幾度か乾坤一擲的な運命との格闘をして、みごとにこれに打ち勝った人である。いま製茶貿易の成功者とうたわれている人でも、智恵才覚で必ずしも自分の手の届かぬほどのところにいる人ばかりとも思われない。ひょっとして運命が、どんなに温かい手を自分にさし伸ばしていてくれるかも解らない。それは、やって見るより外に知りようはない。万一失敗しても、一生を駄菓子屋で終るよりはよいではないか!」
 幾日かの思考の後に、そう決心がついた。心が決まったらすぐそれを実行に移す、誰がなんといおうとやり通す、これがやはり父の生涯を貫いての性癖であった。父はすぐ養父に自分の考えを述べて、その許しを乞うた。しかし、穏やかな宿場町の一介の菓子商として別に不足らしい心を起したこともなく年老いて来た養父に、父の気持が解ろうはずはなかった。
『製茶思惑などというものは、儲けて喜んでいる一人の裏に、損して泣いている百人があるのを知らないか。お前のように無経験な若い者が、そんなものに手を出したら損するのは目に見えている。結局は、本業の方まで立ち行かないようにしてしまうのが落ちだ。飛んでもないことを考えるやつだ。』
と父の申出は、たちまち養父に一蹴されてしまった。しかし、そのくらいのことでへこたれる父でもない。毎日毎日、根気よく父一流の理屈をたてて養父を説き伏せようとする。養父はまた若い者の屁理屈と、耳に入れようとしない。こうしたことがたび重なると、時には大きな声を出しあうようになる。今まで、まことに平穏であった家庭の中が烈風に吹きまくられるサバクの中のようになったばかりではなく、血気一途に思いこんだ志望を実現することのできない父は悶々の情にたえかねて、今まで働き手と評判をとった家業までも顧みないようになって来た。
 父子相克のこの間にはさまって、一番苦労したのは養母のやすである。やすはどっちかといえばお人好しの夫伊三郎とは違って、中々男まさりの強い気性であった。それだけに父の強い性格に対しても、夫よりは理解があった。
「このままでは貰い当てたと近隣の羨望の的になっている養子の一生を狂わしてしまうかも知れない。それはまた、自分達の晩年を路頭に迷わせる結果になる。結局同じことなら、今のうちにできるだけ本業に支障のきたさない範囲で、やらせてみるほうが利口である。やってみたら、若い者の一本気で思いつめている養子の気も、冷静に考え直す余裕もできてくるであろう」と思案した。
それで極力夫を説いて、父の申出に同意させた。そして菓子商の方は元々どおり養父が受け持って、父には1年ほど知合いの製茶貿易をしている人につけて見習わした上で、他所からささやかな資本を借りてやって、その範囲でその商売に従事することを許した。
 熱望をようやくかなえられた父は、手綱を放された奔馬のように巨富を得るという目的のためにはあらゆる権謀術数を弄し、奸計を廻らすことも辞せずに努めたつもりではあったが、もともとそうしたことは性格的に不適合である上に、資力は少なく無経験であったからなかなか思うような結果は得られなかった。
 このようにして翌明治8年も父は焦燥のうちに過ぎた。(略)
 家を外にしがちの息子には、女房でも持たせたら少しは落着くであろうかという考えは、今も昔も変わらない親心であるらしい。父の養父母も、またそれを考えた。この1,2年あれこれと探し求めたあげくに、同じ町の天ノ宮(あめのみや)という所に住む安間両助の次女かんという気立てのよい娘を橋渡ししてくれる人があったので、父にも勧めて貰うことになった。
 明治9年1月15日に若い2人の結婚式は挙げられた。この時、藤三郎22歳、かん17歳であった。

 2 新しい出発
結婚は人生にとって新しい出発である。しかし、父にとっては不思議にもこの時が、また精神的にも新しい出発の時となったのである。
それは、どういうことであったろうか?
父は、その正月に生家の太田家へ年始に行った。その時、そこに一冊の本があった。なに心なく開いてみた。1,2枚読んでゆくうちに、父の心はその本に全く引き付けられてしまった。その本を借りて家へ帰って、一息に読んだ。そして、外のにぎやかな追羽根の音も凧(たこ)のうなりも万歳(まんざい)の歌声も耳に入らぬくらいに夢中になって繰り返して読んだ。読みながら、眼からウロコが落ちたとパウロもいっているような気持になると同時に、自分の今まで立っていた立場が急に逆転したことを感じた。そして不意に眼の前に展開して来た今まで見たこともない輝かしい世界の荘厳さに打たれて、新しい瞳を見張らずにはいられなかった。それは何かまぶしすぎるようでもあった。今まで住み慣れた暗い世界の方が、淋しく頼りなくはあるけれども落着きがよいようにさえ思われた。けれど、その輝かしい世界の光の権威は、父に再び暗黒の世界を振返えることを許さなかったのだ。父は、それを光栄に思った。自分が日ごろ心の底で漠然とたずね求めていたものが、ハッキリとそこにあることを知った。武者ぶるいをしながらも、その方へひと向きに進まずにはいられなかった。
父のそれからの一生の基本となった大きな動機を与えたこの本は、二宮尊徳翁の報徳の教えを書いた書物であった。もしその時、そこにその本がおいてなかったなら、父はらつ腕な製茶貿易商として終ったのかもしれないと思うと、神から見れば当然なことなのであろうが、人間の目からは偶然としか見えない運命の神秘さについて、いまさらに思わないわけにはゆかないのである。
二宮尊徳翁は、天明7年7月23日(1787)に遠州から余り遠くない相模国足柄上郡栢山村に生まれられ、安政3年10月20日に歿せられたのであるから、当時は直弟子の人々も生存していた。それで報徳社の運動は、明治維新も一段落ついて、古い封建制度がすさまじい響きをたてて崩れ落ちた後に日本資本主義が勢いよく新しい芽を出しかけた風潮に乗って、活発な運動をこの地方で始めていたのであった。
森町にも報徳社が設立されていて、社長の新村理三郎氏宅で毎月社中の集会があるということを知った父は、その日を待ちかねて出かけて行った。そして、書物ではまだ解りかねたいろいろの点についての詳しい教えを新村氏始め社中の先達の人々から聞き、これが日常の実生活の上に生きた指導をする教えであることを知ってますます深く信ずるようになるとともに、自分の今までの考え方が、この教えとは全く正反対であったことに寒中ながら冷や汗の流れる思いをしたのであった。
そうなると、また自分の本当に得心のゆくまでは究め尽くさなければ気のすまぬ性格であるから、集会の日までは待ちきれないで出かけて行って、見当たり次第の先達をつかまえて質問をする。腑に落ちなければ落ちるまで議論をするという調子であった。本来報徳の人は謙譲の美徳を尊んで人と議論するというようなことはない。それを父は、目上の人であろうが、さしつかえのあるような事柄であろうが少しも仮借もせずにやったので、たちまち「論客」というアダナを社中からつけられた。それくらい猛烈だったのである。
菓子製造などは男子一生の仕事とするに足らない。実業家として功を立て名を成すには大金儲けのできるような事業でなければし甲斐がないと、無理やりに家業を棄てて、製茶貿易といえば聞えはいいが茶の思惑に走ったのである。それが今、二宮翁の遺された報徳訓には、「誠心をもって本となし、勤労をもって主となし、分度を立つるをもって体となし、推譲をもって用となす」とあって、人間の尊さは、まず第一に誠である、真心である。これさえあれば、仕事はなんであろうと大した違いはない。本当の貴さは、それに従事する人の心であって業ではないということを知らされて、今までの考えが迷いであったことがハッキリと解ったので、その夏ごろには、父は再び家業に帰ろうと決心をした。
しかし、この両三年製茶貿易に従事して、既に仕入れた新茶も大分あるので、それを売ってしまわなければ止めるわけにもゆかない。そこで、父はその荷をもって横浜へ売りに出かけて行った。ところが、その時はあいにく茶の相場が非常に暴落していた時なので、諸国からこの港へ集まって来ていた製茶貿易商は、みんなこの地に滞在して相場のあがるのを待っていた。父もやむを得ず、やはりそうするより外に仕方がなかった。
今までならば、こうした時には知合いの商人同士で碁か将棋でもやるとか、相場の予想や商売の自慢話をしあうとか、または近くへ見物にでも出かけるとかで、少しも退屈はしないのであったが、今度はそういう訳にはゆかない。うちに目覚めた道心にうながされて、一日も早く手持ちの茶を売って家業に帰りたいと思い立った矢先であるからジリジリせざるを得ない。ジリジリ焦っても相場はどうにもならない。前には。これも儲けのためと思って辛抱できたが、今度はそうして儲けることそのものに意義を見いだせなくなってしまったのだから、そのためにこうしていたずらに日を過ごしていることが目的のない生命の空費のように思われて、実に堪えられない感がしてきた。そうなことを開け放した宿の部屋の中で独りポツネンとかんがえこんでいると、フト近くで子どもが読本のおさらいをする声が高々と秋の空に響くように聞えてきた。それはなんだか、自分の思い切りの悪い態度を叱責する天の声のようにさえ思われる。
自分が22歳になるまで、人生の目的は金儲けにあるもののように思いこんで平気でいたのは。小さい時から家業に没頭して、少しも読書するとか修養するとかいう機会がなかったからのことだ。現に最近まで同町内に報徳社があるということは薄々知りながら、報徳などというものは、朝早く起きたり、金をケチに溜めることだくらいに考えて、こんなに手近にありながら深く研究しようという気さえ起こさなかったのは、みんな文字の道から遠ざかってしまったからだ。このごろは文明開化の世の中になって来て、あんな子どもさえ一生懸命で勉強している。このままでいたならば自分は全くこれから先の長い生涯を、この非常な勢いで進んでいる世の潮流から取り残されてしまうのだ。今の自分の1時間は、あんな子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。時は命だ。命は金では買えないのだ。そう考え出したら例の気性で、もう一刻もジッとしてはいられなくなった。
立ち上がって単衣の帯をしめ直すなり、父は表へ飛び出した。そして、取引先の問屋へ一直線に入っていった。父の勢いこんだ様子に、帳場机によりかかりながら鼻毛を抜いていた問屋の番頭さんは先ず驚いたが、今即座に持荷全部を買ってもらいたいう申出を聞いて、再び驚かれた。
「それは、お引取りせぬこともありませぬが、せっかく今までご辛抱なさったのですから、もう少しお待ちになってはいかがですか。そのうち外国船が入港しましたら、きっと値が出るにきまっておりますから・・・」
と親切にいってくれたが、そんな忠告は、もう父の耳には入らなかった。
「いえ、どうしても、それまで待てない事情がありますので・・・」
と無理に頼んで仕切ってもらった。
 その金を懐にするなり宿をたった。鉄道は明治5年に東京横浜間が、同じく7年に大坂神戸間がようやく開通したばかりで、東海道は膝栗毛に鞭打つより外に仕方がなかった時代なので、もう9月とはいいながら残りの暑さに照りつけられて油汗を流しながら箱根八里の峠を越えて、松並木の長い長い東海道を一向に歩いたのであった。自分の1時間は、子ども達の百時間にも千時間にも当るのだ。そう思うと、汗をふく暇さえ惜しまれた。
東海道を袋井まで来て、それから秋葉街道を北へ三里、水のきれいな太田川を渡るともう森町である。家では案外に早い帰宅を皆いぶかった。同じように茶の商売で横浜へ出かけている幾人かの人々も。まだ一人も帰ってはいないし、当分相場のあがりそうな見込みはないと便りが来たのも、ついこの間のことである。それに何やら様子が違う。そんな心配がみんなの心を暗くして、長の旅路の疲れをいたわる言葉にも舌の重い感があった。しかし、父はそんなことを気にもかけなかった。帰るなり帳場格子の所に座っている養父の前へ行って、
「お父さん」
と改まった調子で呼びかけた。家の者は、養母も妻も、やはり何かあったのだなと体中を耳にせずにはいられなかった。養父はタバコをすいながら、何をまた気まぐれ息子が言い出すかというような顔をしている。
「お父さん、私は製茶貿易は昨日限りやめました。今日から、また家業の方を手伝わせてもらいます。」
これには生来のんきな養父も、そうタバコばかりを吹かしてはいられなかった。
「ほう、それは結構なことじゃ。わしはお前にそうしてもらいたいと思えばこそ、3年も前に隠居した訳なのだから・・・。」
「それについて、たった一つお願いがあります。」
「何かな、それは?」
「私が、学問をすることを許して頂きたいのです。」
「ほう、製茶貿易をやめて、今度は学問か?」
相変わらず気まぐれだと思いながら、
「それで、家業の方はどうするつもりかな?」
「昼間は家業に精を出します。それで晩だけ学問させてください。」
これを聞いて、養母も妻もホッとした。養父は、もともと菓子商に学問はいらぬという持説であったが、夜だけというのなら大して仕事の障りにもならないし、それに何よりそれで危険の多い製茶貿易をやめるというならおやすいことだと考えたので、
「夜だけということなら差支えはなかろう」と許した。
父はその許しを得ると、近くに住んでいる町の小学校の訓導の青木露生という先生がまことに篤実の人柄のように前から思っていたので、知人から父のために夜学の個人教授をしてくれるように頼んでもらった。ところが、その返事は意外であった。
「あのくらいの年になって夜学をやろうなんて、それはとても続くものでじはない。前にも2,3そういって頼んだ人があったので引き受けたところが、勉強にはちょっとも来ないで、家の方は毎晩『夜学に行く行く』といって、トンでもない夜学に凝っていたのが最後にバレて、『こちらは先生を信じて、息子がお宅へ毎晩通っているものと心を許していたのにこんなことになって、あんまり先生も頼み甲斐がないではないか』と、ひどく親たちから逆恨みをされて閉口したことがあるから、もう中年者の夜学のお世話はマッピラご免だ。」
と、とても承諾してくれないというのであった。
 父は思いたったらなかなかそれくらいのことではヘコタレない、すぐに青木先生のところへ、今度は自分で押しかけて行った。先生の書斎には一人お客が見えていたが、それには構わず、父はなぜ自分が夜学を志すようになったかを、二宮翁の書物を見た時から始めて、今度横浜で決心するなり、時は命だ、命は金では買えないと、損得かまわず持荷を処分して汗ふく間も惜しんで帰って来たまでのことを、熱情をこめてつぶさに物語った。その熱心さに、先生よりは先にその座に居合わせた客の方が動かされて、一緒になって口添えしてくれたので、青木先生もようやく承諾された。
 父の喜びは非常なものであった。しかし、これから家業の方もやってゆかねばならず、したがって一家の生活についても責任を負うことになるのであるから、いつまでも夜学に通うということも事情が許さない。それで、できるだけ速成に読み書き一通りを教えてもらうには、おおよそどのくらいの時間をかけたらよいかということを青木先生といろいろ研究した結果、まず9ヶ月でどうにかやれようという見込みがたったので、夜学の期間をこの10月から来年の6月までということにして、その間にできるだけ能率をあげるように細かいプランを立てて始めた。
 この9ヶ月の間というものは、一日の家業を終ると夜学に行って、それから帰るとまた復習をし習字をして、一晩もかかしたことなく、毎晩12時前には寝たこともなかった。青木先生も父の熱心に心から感動して、実に親身になって教えてくれたので、この短い期間としては驚くほどの進歩が見られた。
 翌10年の6月、予定以上の成績で課業を終ったので、父は形を改めて青木先生の所へ行って心から礼を述べた。先生も世話のし甲斐のあったことを真底から喜んでくれた。(略)
 その頃のことについて、父は後年に次のように話している。

  余の理想の人物

○大いに金を貯めることとした 
お恥ずかしい話ですが、私は明治9年22歳になるまで理想などということは少しも持たなかった。その時までは、極めて単純の生活をしていたのである。8歳の時より12歳まで寺子屋に通学の時はいるも先生からほめられていたが、父はほめられるだけに心配して、菓子屋の子に学問は不必要だといって、13歳の春から家業を手伝い隔日に荷を持って近所に商っていた。私は勝気の性質として、朝は暗いうちに起きて夜の明けぬ前に12里くらいを歩かねば承知ができず、終日の奔走でくたびれたために夜明けて後に覚めるときは終日商いに出かけなかった。
 この時までは頭はボンヤリとして運動する機械のようでいたが、19歳の時ふと思いついたことがある。自分は菓子の商いをしているが今後いかなるのであるか。近所の人を見れば旦那と尊ばれているが、菓子商いなどしていては、幾日たっても発達の見込みがない。旦那といわれる人は皆金を貯めた人であるから、自分も大いに金を作らねばならぬ。当時、製茶は横浜市場の主な輸出品で、遠州は茶の産地だけに私の郷里森町でも富者となった人は茶商人に多かったので、私も富者となるには茶商となるの外なしと決心し、父に相談したところ、茶商は10年くらいは小僧で見習いしなければならぬのに、中途から従事しても無駄であるというて最初は聴かなかったが、私の決心が固かったので幾らかの資本を他から借りてくれ、私は菓子商に関係なく独立して茶業に従事していた。最初の1年は見習いに過ぎなかったが、2年目からは各地方に出かけ四日市、豊橋等にまで行って買集め、これを横浜に送っていた。

    ○初めて報徳主義を知る
 茶の鑑定その他のことがひととおり了解せられ、相当の利益もあったが、22歳の正月に実家へ年始に行ったところが二宮という本があった。何のことかと聞くと、二宮尊徳翁の御説を書いたものだという。私も報徳ということは聞いていたが、それは単に金をケチに貯めるとこととか、朝は早く起きるとかいうに止まり、その教えが書籍になっているとは思わなかった。これを借りて帰って読んでみると、すこぶる面白い。その大体は、こうである。
 人は何故にこの世に生まれてきたのであるか。いかにして生くるのであるか。金銭も名誉もその目的とするものではない。人は国家社会のために、その利益を増進する仕事をなすべきものである。過去の人がなしておくことを、今人は更に増殖してこれを後世子孫に伝えもって国家社会の利益を増進する。云い換えれば、代々の人はその消費するよりも以上の仕事をして、前人から受け継いだ外に更に増して子孫に伝える。何事もせずして先人の事を後人に伝えるのは、恩義の賊である。されば人間は個々としては生まれたり死んだりするが、大体よりいえば人間は生きているのである。この目的は一人にてはできぬ、また一代二代にてできるものでない。すべての人間が、この目的に向って勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務となる。されば職務は人の賢愚不肖によって異なってはいるが、国家社会を利するという大目的に比ぶれば同一で、その間に上下尊卑の区別があるべきはずがない。ただ自分の職務とするところを遺憾なく尽くして明らかならしむべきだる。いわゆる天地の秘を発(あば)くべきである。これが人生の大目的で、また人が禽獣と異なる所謂(しょい)である。
 この人生の大目的の一分を達するために各人はその職務に全力を傾注するときは、たとえ自己の利益栄達を主とせなくても、これらはその職務の遂行に伴うて自ら発達して来るものである。この主義を服膺する間に自から自己も発達せられるという意味であった。

    ○神のごとき二宮先生
 この書を読んで、私は豁然として悟った。今まで金さえ貯ればよしといた思想は全く誤りであることを発見し、報徳主義の甚だ大切なことを知ることができた。自分は、ここに初めて人間の道ということを知ることを得た。まさに大河を渡らんとしたときに船を得た心地がしたので、今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。
 それからは、毎月開かれる報徳の集会には出席する。会日以外にも行って種々なことを質問し議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。報徳記も当時は僅かに写本ばかりで、それすら容易に見ることはできなかったが、特に読まして貰った。
 同時に他の方面の研究をする必要もあったので、また書見を始めた。12歳から以来全くやめていた経書などを漁り読み、23歳の時には夜学に通うて勉強し、研究すればするほど他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われて来た。

    ○明治10年より再生す
 かく研究すればするほど過去の我が身の過ちを発見し、新生活を開く必要を感じたので、明治10年1月1日を紀元とし自分は全く生まれ変わりたるものとして新生活に入ることを決心し、今もなおその決心に随って続けて行っているつもりである。もとより他人から見たら間違っていることがあるかも知らねども、自分では報徳の教えに随って進み行っているつもりである。
その後もなお書見は続け支那の経書は勿論、仏書も少しは読んで見たが、これは単に報徳主義を明らかにする道具に使われたもので、報徳主義の大切なことは依然として異ならぬ。否、むしろますますその光輝を発揮するように思われる。
大工は曲尺一挺で9尺2間の小屋も建てれば、堂々たる大厦高楼をも建てる。造り上げたん物は大いに異なっているが、詮ずるところ、ただ曲尺一挺を使用したに過ぎぬのである。二宮先生の報徳主義も、一たび会得すれば人間万物に応用して最も有効に活用することができると思う。

    ○人間の最大目的に直進せよ
 で、自分は己に多年の覚悟として守り、また青年の決心すべきものとして常にこういっているのである。
人間は、その本分として皆尽くすべきだけの職務を持っている。国家社会の利益を増進するために、分業して相共に天地の秘を発(あば)くまでも勤勉すべきである。これがためには全力を発揮して勤めねばならぬ。もし職務のために死ぬことがあれば、これは名誉の戦死である。軍人が征戦に死ぬと異なることはない。己を棄てて全力を発揮すれば、目的を達すると共に立身や栄達はこれは副産物である。初めから目的物として望むべきことではない。人はこの職務ということを知り、これに全力を注がなくてはならぬ。知るということは表面のみではなく、これを明らめ尽して少しの遺憾なきに至らねばならぬ。世間では「知っている」というて、しかも実行の伴わぬものが多い。知っていれば行われなければならぬのである。それが実行せられぬのは、とりもなおさず真に知らぬのである。知っているというのは間違いである。人間がこの世に生まれてきた以上は、飽くまでもその職務本位とすることを知りおかねばならぬ。
真の仕事はできぬのである。

    ○人の元値を知れ
 強固な意志を有する者も困難に堪え煩悶に忍ぶことができる。けれども、これは一種の我慢である。一定の程度に達すれば、制限を受くることを免れぬ。つまり普通の人は十まで忍ぶことができるが、意志の強固な人は十二とか十五まで忍ぶというに過ぎぬ。二十、三十、いくばくでもということはできぬ。しかし、道理に基いた意志は水火の中をも辞せぬ。いわんや困難辛苦をやである。いかなる所にまでも忍び達するのである。
普通にいう困難ということは分かりきったことである。古来の人々が既に久しく出会って嘗め来った事柄である。別段に新しき困難の発明があるのではない。これは人がこの世に生まれて来れば免れざることで、七難九厄に会うのは当然のことである。聖賢とても免れざることである。
何事をするにも元値を知ることが必要である。元値とは、人は生まれたからは死すということである。必ず死ぬときまっているものは、いつ死んでも仕方がないのに、今日もまた、今日も生きているというのは儲けものである。その他百事百般皆もうけの上のもうけなりと一大覚悟さえすれば、一生涯に苦痛とすることはない。
これが、報徳主義の活悟道であると思う。世間では悟道は3年も坐禅をするか、たくさん書見をせねばできぬようにいうが、そのようにむつかしいことなれば大道とはいえぬ、小路とでもいわねばならぬ。道路も大なるものは、老人子どもでも差支えなく行けるから大道路である。また修行せねば歩けぬ極小路というは糸の道である。これは熟練した軽業師でなければ行けぬ。

(「実業の日本」明治40年1月1日号63~66頁)

 この「余の理想の人物」という父の談話筆記は、「実業の日本」の明治40年1月1日号に掲載されているから、おそらくはその前年(52歳)の暮あたりに話されたものであろうが、まことによく父の思想的根拠を体系的に示しているように思われる。この前半は報徳の教えを知って以来生涯変わることなく、父の人生観の基礎を成したものであり、後半はそれから自ら導き出されて来た処世観であって、当時、鈴木の「職務本位論」といって相当有名なものであった。
 しかし、こうした考えがまとまったのは後年いろいろの経験を得てからのことである。ここでは再び「新しい出発」の当初に帰らなければならない。

3 荒地の力で荒地を拓く
 父の性格の大きな特長は、極めて実行的であるということであった。
(略)
 後年(「実業之日本」明治41年10月1日号23~26頁)にこれを詳細に述べているから、父自らに語らせることにしよう。

冷水養生談

「鈴木藤三郎伝」村松梢松序


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