次郎さん物語うばたまの 母の遺しき記録あり 父母を思へば 涙こぼるる 2011・4・23海越えて送りたる文返さるる 夢にて起きる冬の日の朝 2010・2・26 次郎さんは夢で眼が覚めた。もう15年以上前のことであるが、アジア系のアメリカ人の母子と知り合いになったことがあった。たまたま次郎さん親子で銀座に遊びに来ていた。その頃ソニービルの6階にソニーステーションのゲーム機を置いているある一角があり、小学生の太郎君を一人遊ばせて、次郎さん夫婦は銀ブラを楽しんでいた。東銀座の歌舞伎座の前に岩手県のアンテナショップがあり、少し買い物をしてレジに来ると、宮沢賢治の切手を売っていた。次郎さんは興味を持ってその賢治の切符を買った。 そしてソニーステーションに帰ると、ゲームで夢中の太郎君の後ろで同い年くらいの少女が熱心にゲームをクリアするのを見ている。 次郎さん夫婦がその様子を見ていると、近くにいた少女のお母さんが片言の日本語で話しかけてきた。黙っていれば日本人と見違うアジア系のアメリカ人であった。そのBさんの妹さんのご主人が日本の領事館に勤めているということで日本語を学んで、読み書きはだけだが話すのは意思疎通ができたのである。 「近くにマンガがおいてある本屋がありますか?」と尋ねられ、東京駅前のブックセンターを教えてあげた。次郎さんは別れ際に手元にあった宮沢賢治の切手をBさんに差しあげた。 「これはダレですか?」 「宮沢賢治という日本で有名な詩人で童話作家です」 「アメリカに帰ったら英語に翻訳したのを読んでみます。そして感想を送ります。」 そして実際感想が送られてきたのである。そしてBさんと文通が始まったと言いたいところだが、次郎さんは読むのは辞書を引き引き何とか意味が分かるのだが、書くのがほとんど文通の本を丸写しで苦痛であった。次第に間どおくなりここ数年Bさんの消息を知らない。 そのBさんから次郎さんが送ったエアメールがそっくり送り返されてきた そんなリアルな夢であった。もう今生の縁が切れたというような感じがした。 友情の苗木には時々水をあげる必要がある。それをしないと枯れてしまうかもしれない。 Bさんありがとう。あたたがたとも出会いは楽しかったです。鎌倉や横浜をご案内した全てが楽しい思い出です。ご縁があったら、また会いましょうとこころのうちで次郎さんはBさんに呼びかけた。 2009.6.28 その日、一日中、雨降りが続いていた。次郎さんは、午後、奥さんに頼まれて、坂の下にあるパリイというパン屋まで傘をさして出かけた。その日、全品20%引きだったのである。そのパン屋ではグループフルーツやブルーベリーの美味しそうなジュレが置いてあった。ちょうどその日、次郎さんの住む町の駅近くの会場で次郎さんが日頃から尊敬している先生が教室を開かれていた。次郎さんは先生に差し上げたいものだとジュレを2本買って家に戻った。 夕方5時前、教室の終わり頃の時間に傘をさして、駅そばのビルで開催されていた教室の会場まで挨拶がてら、そのジュレを持ってでかけた。ところが駅まで来てから、スプーンを忘れたことに気づいた。ちょうど駅前に外国製のキッチン用品専門店があって、店内をのぞくと、アイスクリーム用なのだが、素敵な長柄のスプーンがあった。次郎さんは、プレゼント用にとチェックの柄の包装でラッピングしてもらって、教室が開催されていたビルに入った。すると教室の主催者が出てこられた。「あっ、次郎さん、教室はさっき終って先生はとなりのビルにいらっしゃいます。お花ありがとうございます。ぜひ先生に会ってください。」と言われた。ああ、有り難い。次郎さんが隣りのビルに行くと先生からメールが入った。「教室に素敵なお花ありがとう。紫のバラと白い花たちの清楚で高貴なアレンジメントでした。本当に嬉しくて一日中あなたが一緒にそばにいてくれたようでした。」次郎さんはすぐにメールを返して、今、1階のフロアに来ていますと電話したら、すぐに降りてこられた。そしてもってきたジュレを差し上げた。とても喜んでいただいてよかった。 次郎さんは最初お花をお祝いに差し上げただけで、その日は先生にお会いすることはないかなと思っていた。ところが1枚のハガキが次郎さんの背中を押してくれたのだった。 それは、宝珠院の住職Sさんにいただいた「仏心のある生活」というハガキ通信であった。 「人がいる心の風景は移ろいやすい。だからこそ、今縁ありてわが心の風景の中に生きている人は、常に真心をこめて大切にしたいもの」 そう書いてあった。ああ、そのとおりだ、あのとき会っておけばよかったとならないように、会えるときは会いにいこうとそう思って出かけたのであった。先生に直接会え、お礼が言えてよかった。まことによい一日であったと次郎さんは思った。 2009.6.27 次郎さんは、夢で目を覚ました。 海辺にいたら海の水が増してくる夢だった。 奥さんが一緒だった。 次郎さんは夢の中で奥さんに声をかけて一緒に向背の山のほうへ逃げることにした。 そこは次郎さんの亡くなったお父さんの故郷の港町のような風光であった。 海を臨む高台に父の母方のお墓があったことから、幼い頃から、よく親と墓参りに行ったから、だいたいそのあたりの土地の具合がわかっていたのであった。 2人でずんずん山の穏やかな坂路を登っていって、中腹にいたったとき、食べ物を買いこまなくちゃと思った。 そこで家内をそこに残って下にあったカルカン工場のようなお店に行ったのである。 もうその頃になると、海の水が増していることなどは忘れ去って さて、どれにしようかと、工場の出店で物色していたのであった。 すると次郎さんの奥さんもお手洗い行きたくなったからと来た。 そこらあたりで目を覚ました。数年前も海の水が増す似たような夢を見たことがあることを思い出した。そういえば奥さんもつい最近水が増えて、向かいの棟が水にあふれたという夢を見たと話してくれたのだった。だから夢のなかで奥さんが出てきたのであろうか。 以前、読んだ本に過去退行の話がでていた。ある女性が水恐怖症でワイス博士の催眠療法でその原因をさぐっていたとき、そのときは前世なんて発想はなく、幼い頃何か水を怖がる原因があろうかとその女性を催眠状態にして探っていたとき、ワイス博士は全くそんなつもりではなく、その原因はいつのどこのことですかと聞たのである。 驚くべきことに、その女性は紀元前のエジプトにいると答えたのである。 ワイス博士は驚いたものも、その女性に質問を続けた。 その女性はそのエジプトでも20代の若い女性で娘を連れて手をひいていた。 「あら、姪のだれだれだわ」とその女性は言った。その時の娘が現在姪として生まれ変わっているのらしかった。その後に過去世療法で分ったところによると親しいソウル・メイトは、生まれ変わってもまた身近な存在として生まれ変わり、親しく付き合うものらしかった。 むしろそう約束して生まれるものであるのらしかった。 エジプトの女性が幼い娘を連れて、峡谷沿いを歩いていたとき、津波が押寄せてきたのである。逃げるいとまもなかった。大増水に飲み込まれて最初しっかり握っていたのだが、水の圧力にはさからえず、手と手は離れた。「お母さん、お母さん」と泣く娘の声が聞え、間もなく海の水に飲み込まれて苦しい中に死んだのである。その記憶が現在の水への恐怖をひこおこしていた原因であった。そしてそれを後に前世療法と呼ばれる催眠療法で思い起こしたとき、水への恐怖が消えたという話だった。 ふーむ、してみると家内とはきっと過去世でも夫婦であったことがあるのかもしれぬ、そんな思いになりながら、次郎さんは一人夜中物思いにふけっていたのであった。 2009.6.8 次郎さんは5,6年前まで、よく禅寺へ坐禅しに通ったものである。膝を悪くして座れなくなった。 その日も次郎さんは5時過ぎにお寺の早朝の座禅会に出かける。 まだ早かったので奥の院の前の掲示板にかかる文句を確認に行く。 「水は流れねばならぬ 眼は澄んでいなくてはならぬ 心は燃えていなくてはならぬ 山深し 心に落ちる 秋の川」とある。 ああ、最初の「水は流れねばならぬ」うんぬん、これは真民さんの詩の一節からである。 このところ結構しっかり坐れる。それにしてもここ仏殿でこの暁に坐ると、山が深いため、鳥の声が心と体に染みてくる。「岩に染みいる蝉の声」と芭蕉の句にあるが、ほんとうは自らの身心と自らが感知する全世界に染みるのだ。 坐禅が終わって、般若心経と白隠禅師坐禅和讃を腹の底から唱える。 こうして坐った人と一緒にに思い切り腹から声を出すのもすがすがしい。 こうした一時を持てることに感謝する。 法華経に「如来の室に入り、如来の座に坐り、如来の衣を着る」とあるが、しっかりすわるとよしよしとお釈迦様から頭をなでられる思いがする。 帰りトイレに寄ると古参の居士が後から入ってきて小便しながら話している。 「今日は四弘誓願がなかったですね。お坊さんが忘れたんですかね、いつもののをやらないと何かしっくりしないですね」 「まだお若いお坊さんだったから、うっかり忘れたんでしょう」 四訓 川はいつも流れていなくてはならぬ 頭はいつも冷えていなくてはならぬ 目はいつも澄んでいなくてはならぬ 心はいつも燃えていなくてはならぬ 2009.6・6 次郎さんは奥さんに語った。 朝方から降り続いていた雨がやんだので、買い物にいって、次郎さんはリュックにつめこんで家に帰ったところだった。お湯を沸かして三角錐になったペーパーフィルターでコーヒーを入れる。コーヒーをすすりながら語らっていたのである。 「ヘミングウェイの作品の中に、ニック・アダムス物語という短編集があるんだ。 ヘミングウェイ自身を語っているような私小説的な味わいを持つ短編でね、その中に 『2つの心臓の大きな川』というのがあってね、戦争から帰ってきて日常の生活になかなか戻れないニックが、一人川の上流にわけいってマス釣りをする話なんだ。 ニックは川のほとりの平坦な場所にテントを張って、川から汲んできた水をブリキの器で沸かしてコーヒーを入れる場面がある。その火で豆料理を作って食べるんだけど、それがうまそうでね、コーヒーは香りたち、豆料理は池波正太郎の時代劇の朝餉の風景にも似てうまそうなんだ。 今度ね、新採君を誘って、鉄の道をハイキングしようと思っているんだけどね、途中の広場で休憩してね、 コーヒー豆、そうだな。コーヒーのいい香りがまわりに広がる。登山用の湯沸しで、ペットボトルの水を沸かしてペーパーフィルターでコーヒーを作って、陶器の小さなコーヒーカップでふるまってやる。 木漏れ日がさして、爽やかな初夏の風が木々の間をかけぬけて涼やかだ。 ねっ、そう考えるだけでも素敵じゃない。 昔、馬事公苑にワインボトルとワイングラスを持っていって広い芝生の一画に座って飲んだことがあったねえ。」 「そんなこともあったわねえ、あれは結婚まもない頃で子供がいなかった頃ね。」と遠くを見つめるように奥さんは懐かしんだ。 「そうだったっけ、子どもも一緒にいたようだったけれども、きっとその後、何回か行って凧揚げしたりもしたからかなあ。あれもね、映画の中で、馬車にピクニックバックを積んで、丘の上でワインを飲み軽食する場面があったのを見て素敵だなあと思ったからだったねえ。」 「もう今は後片付けが面倒でそんな気持ちにはなれないわねえ。」 男はいつまでもロマンチストでもある。 次郎さんは図書館にヘミングウェイの『2つの心臓の大きな川』を借りにいったものである。 いつの日かこんなふうにコーヒーを沸かして飲んでみたいものだと。 『2つの心臓の大きな川』新潮文庫ヘミングウェイ全短編1 190ページ 小高いその地面は木の生えた砂地で、草地と川の流れと湿地が見わたせた。ニックはザックとロッド・ケースを下して、平坦な場所を探した。すごく腹がすいていたが、食事をこしらえる前にテントを張りたかった。(略) あらためて空腹を覚えた。こんなに腹をすかしたことは、いままでにないくらいだ。最初にポークと豆の缶づめ、次にスパゲッティの缶づめをあけて、中身をそれぞれフライパンにあけた。 「文句も言わずに運んできたのだから、これくらいのものを食べる資格はあるさ」 ニックは言った。その声は、暗くなりつつある森に異様な響きを残した。それきりもう声は出さなかった。 松の切り株を斧で割って何本かマキをこしらえると、彼はそれで火を焚いた。その火の上にグリルを据え、4本の脚をブーツで踏んで地中にめりこまさせる。それから、炎の揺れるグリルにフライパンをのせた。腹がますますへってきた。豆とスパゲッティが温まってきた。そいつをスプーンでよくかきまぜた。泡が立ってきた。いくつもの小さな泡が、じわじわと浮かび上がってくる。いい匂いがしてきた。トマト・ケチャップのビンを取り出し、パンを4枚切った。小さな泡がどんどん浮かび上がってくる。焚火のそばにすわりこんでフライパンを持ち上げると、ニックは中身の半分をブリキの皿にあけた。それはゆっくりと皿にひろがった。まだ熱すぎることはわかっている。その上にトマト・ケチャップをすこしかけた。豆とスパゲッティはまだ熱いはずだ。(略) もういいだろう。皿からスプーンいっぱいにしゃくって、口に運んだ。 「やったあ」 ニックは言った。 「こいつはすげえや」 思わず歓声をあげた。 (略) ザックの中から折り畳み式のキャンバスのバケツを取り出すと、ニックは小高い丘を降りた。草地の端を突っ切って、川の岸辺に歩を運ぶ。対岸は白い靄に包まれていた。濡れて冷たい岸辺にひざまづいて、キャンバスのバケツを川に沈ませた。すぐに大きくふくらんで、水流に激しく引っ張られる。水は氷のように冷たかった。バケツをゆすいで水をいっぱい入れてから、テントまで持ち帰った。(略) 見ているうちに、コーヒーが沸騰してきた。蓋が持ち上がって、コーヒーとその滓(おり)がポットの外に流れ出す。ニックはボトルをグリルから下した。(略) ニックはコーヒーを飲んだ。苦かった。つい笑い声をあげた。頭が冴えてきはじめた。が、これだけ疲れているのだから、頭の働きには待ったをかけられるはずだった。ポットに残っていたコーヒーを火にぶちまけ、その上に滓を揺すり落とした。 2009.6.4 次郎さんは起きてきた奥さんに語った。 「Y叔母さんの夢を見たよ。Y叔母さんは夢の中でもやさしいんだ。 Y叔母さんちの家にとまっていてね、縁側から外風呂に歩いていける。 するとね、叔母さんが『次郎さん、浴衣丈があっていたね、短くなかったね。 お風呂入りなさいね』といつものようにやさしい声をかけてくれたんだ。」 奥さんは、ただ微笑んで聞いていた。 次郎さんは、田舎の墓参りに行った折のことを思い出していた。 小高い丘の中腹にあるお寺の霊堂の中にある父母の位牌を拝んで帰ろうとしたら雨が降っていた。 ちょうどお参りしていた70半ばくらいのおばあちゃんがいて、同じく降り出した雨に困惑していたようだった。少し話したら、ちょうど次郎さんの家への道筋にある弓道屋のおかみさんだった。次郎さんは、タクシー会社に電話してお寺まで来てもらい、「ついでですからどうぞ」とそのおばあちゃんをタクシーに同乗させた。 それを見かけて感心なと思われたのであろうか、お寺の住職がタクシーのところまで来られて 「これ、お寺の煎餅だけど、持って行きなさい」とくださったのである。 次郎さんはその一つをおばあちゃんに差し上げた。 タクシーの中でおばあちゃんと話していると、なんとY叔母さんの小学校時代の同級生だということが分った。 『Yちゃんは、やさしくて』と何度も何度も繰り返した。」 「本当にY叔母さんは夢の中でもやさしいんだ」と次郎さんはつぶやいた。 2009.6.22 次郎さんが新聞のコラム欄を読んだら、冒頭にこんな情景が描かれていた。 「日だまりで90代と70代のおばあちゃんが笑顔で向き合っていた。穏やかな会話にみえた。何の話かと近寄ってみるとそれぞれの思い出を脈絡なしに語っていた。ともに認知症と診断されている。話の中身はかみ合わなくても幸せそうだ。周囲の家族は静かに見守っていた」 以前、次郎さんの父がなくなった後、弟の四郎の車で故郷の坂を上っていたとき、「大学生時代、この丘の公園で本を読んでいたら、チンピラにからまれたことがあってね、『お前の家はどこだ』というから、店の名前を出したら、『お前のところの親父さんにはうちの親分が大変世話になったことがある』と急に丁寧になってね、何事もなく降りてきたことがあってね・・・」と話しかけたら、「兄ちゃん、その話は何度も聞いた」とぴしゃりと言われた。四郎さんの奥さんも「お兄さん、よっぽど怖かったんですね」と言われた。「いや、怖かったというんじゃなくて、親父がどんな恩をその親分に売っていたんだろうと思ったもんだ。」 実はその父が施した恩の話を兄一郎からこういうことじゃないかと聞いていたので、続けようと思っていたのだが、話の接ぎ穂を断たれて黙ってしまったものである。その時は父を偲んで繰り返したのだが、まあ、人には深く印象ずけられていて繰り返し同じ話をしたいときだってあるんだよという思いを次郎さんはしたのであった。 一郎さんが次郎さんに話した話というのはおおまかこういうことだった。 警察がその親分を何かの事件で逮捕したことがあったという。一郎さんの話によると、その時間帯、集金でそのお宅にうかがっていてその親分のアリバイを証言して放免となったことがあった。それ以来、あそこには決して手を出すなとその親分が子分達に命じたことがあるらしい。 次郎さんのお父さんは自分の事を語ることはまれであった。たまに帰省すると、風呂をたててくれたり、それとなく気遣いしてくれるのが有難かったくらいである。 次郎さんのお父さんが亡くなった通夜の席に、2人の女性が遅くなってきて、「おじちゃん、おじちゃん」と涙を流す姿があって、感動したことがあった。次郎さんがお母さんに聞いたところによると、昔、その女性が子供のころ、彼女らのお母さんが商売がいきずまって借金に追われていた頃、多額のお金を貸してやり、しかもいよいよどうにもならなくなったとき、救ってやって、彼女らのお母さんがその恩を忘れるなと言っていたようなのである。どうも昔、商売が順調だった頃、何かと手助けしたことがいろいろあるようなのである。 以前次郎さんが勤めていた職場の入り口に一本のつげの木があった。もう先端は朽ちて空洞ができていた。ところがその先端から若葉がみずみずしく生えていた。その無骨ながらも生命力あるツゲの木に、父の姿を重ね合わせて次郎さんは「言葉少なの父し思ほゆ」と歌を詠んだこともあったものである。 ああ、きっと父が子が知ることもなくひそかに行ってきた多くの陰徳が子供達を今なお潤しているようにも思われる。 次郎さんは帰省の折、朝方、仏間につながる部屋で寝ている次郎さんを起こさないように気遣って、そっと仏間に入り、「なむあみだぶ」と一言唱えた父の声と姿を思い起こして位牌に手を合わせた。 「お父さん、ありがとう」 ○ 次郎さんは先日の土日、ヒューレン博士のビジネス・クラスを初めて受講した。 以前、東京で「水の伝言」の江本勝さんとヒューレン博士との共同講演会を聴きにいったことがある。その折も次郎さんはちょっと不思議ななりゆきで最前列のヒューレン博士のお話しする真ん前で話を伺ったものであった。 今回も次郎さんにそうしたちょっと不思議ななりゆきが起こった。2日間のコースで朝11時から午後6時までということで、次郎さんは事情があって、2日間連日での受講ができるかおぼつかない思いがあったのである。ところが、それは仕事上のトラブルが起こるという思わぬかたちで解決された。ビジネスクラスのある土・日の前後の2日間トラブル解決のために次郎さんは出張せざるを得ないはめになった。そしてトラブル解決のためにという名目で土日終日出かけることが可能になったのであった。 土曜日、次郎さんが午前10時に会場に行くともう長蛇の列ができていた。次郎さんが会場に入ると1,000名近い席の前列はすでに埋まっている。とりあえず中央の中ほどの列に荷物を置いたのだが、2列目に一つ席があいているのを見つけてそちらへ異動した。午前11時開会直前に隣りの人が「予定していた友人が来なかったから」と席に置いていた荷物を取り去って、次郎さんの横に一つ席が空いた。そちらの方が正面に近かったので次郎さんはそちらに席をずらした。つまり次郎さんが座った席が空席になったのである。そこへ開場まぎわにアタフタと入って来た野口さん(仮名)が入ってきて、めざとく空席を見つけ、次郎さんの隣りに座ったのであった。次郎さんに野口が隣りの人と話すのを聴くともなしに聞こえてくる。仙台から来られたのだという。昼過ぎ、休憩の時間に野口さんが次郎さんに話しかけてきたのだが、なんと野口さんの友人が次郎さんが先生とも仰ぐ方の友人であるというのである。思わぬ奇縁に2人驚いたものの、話はそこで終わり、その場では名前も名乗らないで別れたのであった。 翌日日曜日、次郎さんが午前10時前に早めに開場を待つ列に並んで、前日とほぼ同じ2列目に一つ空いていた席に座った。すると、すぐに最前列の席が一つ空いたのである。次郎さんは、そちらに異動した。するとまた開会直後にさらに次郎さんの隣の席が一つ空いたのである。そこにまた開会まぎわに急ぎ足で入場してきた野口さんがまたその隣りに空いた席に座ったのである。 「昨日も隣りでしたね」ということで、休憩時間に話をした。話をすると、次郎さんの話がよく通ずるのである。 野口さんがヒューレン博士のことを知ったのは、わずか2週間ほど前だという。「水の伝言」の江本勝さんのことは以前から知っているという。 「江本博士とヒューレン博士の講演会のDVDを持っていますが、よければお送りしましょうか?」と次郎さんは言った。 「ぜひお願いします」ということで、野口さんと名刺交換したのであった。 さらには昼食も中華料理屋でご一緒して、さらにお話を続けたが、お互いの話が大変に参考になった。 特に、野口さんがヒューレン博士がウニヒピリ(内なる子ども又は内なるコンピューター)との接触の仕方を説明したのだが、それを実践した話は参考になった。野口体操の実践者(そこで仮名を野口さんにしたのだが)であるということで、心と体のバランスの取り方に習熟されているせいか、ヒューレン博士の言うとおり行ったら、ウニヒピリとすぐコンタクトできたというのである。驚くべきことにウニヒピリは野口さんに返事をし、見つけてくれたことをとっても喜んだとサラリと言われた。内なる子どもが野口さんの問いかけに答えた次第はとても面白かった。 そこで次郎さんも昼食後、会場に戻った後、野口さんが行ったようにやってみると次郎さんもまたウニヒピリとコンタクトできたのである。それはとても温かい感覚がした。そしてそれは自分自身を愛すること、いとおしく思うことにほかならないのだが、それまで次郎さんには言葉では理解できても感覚的に何やらよく分からなかったのである。それがウニヒピリからの返事をうちで感じるとちもに温かい感情とともに内なる自分を愛するということが体で分かったのであった。 そしてその効果は次郎さんが家に帰ってすぐに家族の変化となって現れていた。次郎さんが何もしていないのに、家族の対応がとても温かいものに変わっていたのである。 「私が変われば(私の周りの)世界が変わる」という。まことに私自身のウニヒピリ(内なる子ども)を愛することは、即、家内や家族や先祖を愛し、わたくしが認識するこの世界を愛し、癒すことにつながっているのである。それは自己愛、ナルシズムとは違う。ウニヒピリを愛する温かい感情はそのまま他者にも向かう。 ヒューレン博士曰く、「私たちはみな家族なのです」と。 おそらくはそのことを知らせるために、野口さんは、偶然にも見える運命の絆によって、2日連続して次郎さんの隣りに座ったのなかろうかと次郎さんには思われてならなかったのであった。(2009.12.8) 「お父さん、何か面白いお話をして・・・」 「面白いって・・・」 「お父さんが先に寝ちゃって、コーヒーを飲みすぎちゃって、眠れなくなっちゃった。 何か面白いお話をして・・・」 「次郎さんが・・・・」 「なんか面白くなさそう・・・・」 その時、次郎さんは先日一緒に観にいった「借りぐらしのアリエッティ」の物語と「人間の運命」第1巻の森の妖精のお話が脳裏に浮かんで、話を切り換えた。 「次郎さんは、静岡のガニュウドウの生まれなんだ。我入道とは我、道に入ると書いてね、 昔、日蓮上人がこの海岸から身延に入られ、お寺を作られたという伝説が残る風光明媚なところだ。 次郎さんはまずしい漁村の家の息子で、小学校から帰ると、仲間と近くの山にのぼって、落葉を拾っては背中のしょいこに入れてそれを売って小銭を得ていたんだ。 ある日、山のもっと奥にズンズンは入っていった。そこらは オオヤマ とはいう偉い人の家があるとかで、村人も入っていかない一角だった。 だからこそか、いい落ち葉がいっぱい落ちていて、次郎さんたち子どもはいっぱい拾っては しょいこに夢中になって入れていた。 その時だ、次郎さんの目の前に、髪の毛の真っ白な、そして顔も異様なくらい真っ白な、 その頃見たこともない珍しいヒラヒラのドレスを着たおばあさんがふっと立っていた。 日露戦争の頃だから、まだ女の人は着物で洋装の人って次郎さんたちは見たこともなかった。 「お菓子食べる?」 とそのおばあさんは言うのだ。 「ギャー、お化けだ」 仲間の子供達はお化けが出たと一目散に逃げていった。 ところが次郎さんは腰が抜けたように動けなかった。 それにお化けというよりは、西洋の絵本に出て来る妖精のような感じがして怖さは感じなかった。 「お菓子食べる?」 とまたそのおばあさんはニコニコして言う。 思わず次郎さんは「ハイ」とこっくりうなずいた。するとその女の人はふっといなくなった。 そしてまたどこからか、ふっと次郎さんのもとに現れて、緑の美しい紙に入ったものをくれた。 「ありがとう」 ぺこりと次郎さんは頭をさげて、また見るとおばさんの姿が消えていた。 なにやら本当に森の妖精に会ったような不思議な心もちで、次郎さんは仲間が投げ捨てていった落葉を拾って村への道を下っていった。 すると麓の分かれ道のところに仲間たちが不安そうな顔をして待っていた。 「次郎、お化けに食われたかと思って心配したぞ、よかった、よかった。」 「お化けじゃないみたい、お菓子をくれたよ」 「絶対、お化けだ、お化けがくれたお菓子なんか食べちゃダメだぞ。きっと馬の糞か何かだ。」 「そんな悪さするようなものじゃなかったよ、あれはきっと森の妖精さんだよ、きっと」 そう言いながら次郎さんが緑の紙を開くと、なにやら見たこともない丸いお菓子が何枚か入っていた。 「食べちゃダメだよ」 仲間の一人が今にも泣き出しそうに制止するのも聞かず、次郎さんは一口食べた。 それは今まで口にしたこともない甘い香りのするおいしいお菓子だった。 次郎さんがあんまり「おいしい」というものだから、悪童たちも我も我もと手を出して、後には緑の包み紙が残るばかりだった。 次郎さんはその包み紙を宝物のように大切にしていた。 それから数年後、上級生になった次郎さんはその森の中でであった不思議な妖精のようなものとの出会いを作文に書いた。すると優秀賞を貰ったのだ。 後で先生に教員室に呼ばれた。 「次郎、よく書けたな。いい作文だった」 先生は褒めてくださった。 「次郎、あの山はね、日露戦争で活躍された 大山巌元帥の別荘があってな、 お前が出会った妖精はこの人じゃないのか?」 そう先生は当時流行して画報を開いて見せてくださった。そこには丸い円の中に洋装の婦人の写真が載っていた。 それはまさしく次郎さんが見た妖精のおばあさんの若い頃の写真であった。とても美しかった。 「この女の人は大山元帥の奥様で、外国に留学したことがあり、社交界の花形だった人だ。 だから別荘で洋装していたんだろうな」 先生はその画報を次郎に記念にとくださった。次郎さんはそれもまた緑の包み紙と一緒に大切にとっておいたという話だ。 おしまい」(2010.7) 「どうしたの、次郎君、こころありげな顔をして」 「ぼくの母もねえ ある先生のことをあんまりにもいうものだから 西往寺(京都国立博物館預り) 宝誌和尚立像~平安時代 あれはそのイメージなんだろうねえ。」 |