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江戸時代孝子列伝

亀田窮楽は、江戸時代の書家である。市中隠として世には名前が顕れていない。
元は鍛冶屋であったという。酒徒でまた孝子であった。

「初雁」(森銑三著)に「亀田窮楽」より

「亀田窮楽は、市中隠で酒徒で、かつまた孝子であった」とある。

京都堀川の近くに住んでいたときに、母が老病で床についていた。窮楽が次の間で客と話していると、折節の暴雨で堀川に水がみなぎって、ものすごい音を立てて音を立てて落ちていく。母親がそれを気にして、床の中から、「せがれや、あのどうどうというのは何かえ」とたずねる。
 窮楽は、客との話をやめて、「おっかさん、雨で堀川の水が増したので、それであのように音を立てているのですよ」と、ていねいに答える。
母親はそれを聞いて、「ああそうかえ」と安心する。
ところが少ししたかと思うと、「せがれや、あのどうどうというのは何かえ」と、またしても心配そうに聞く。
「おっかさん、雨で堀川の水が増したので、それであのように音を立てているのですよ」
窮楽の返事は、前のごとく鄭重である。
「ああそうかえ」と、母親は落ち着くが、しばらくしてまた同じ問いを繰り返す。それに対して窮楽はまた何度でも同じとおりの返事をして、更に倦むところがない。果ては聞いている客の方であきれてしまった。
「いちいち同じ返事をしないでも、さっき言ったとおりですとおっしゃればいいじゃありませんか」
たまりかねて差出口を聞くと、窮楽はたちまちかぶりをふった。
「いいえ、母はもう年の寄った上に病気で頭がぼけていますので、自分では始めてのつもりで聞くのです。ですから私も、初めてのつもりで返事をいたします。
この一言を聞いて、客は窮楽の孝心に打たれた。


さらにこのような逸話が「初雁」に載っている。

ある時、窮楽が揮毫中に母から呼ばれた。
「はい」と答えて、一字の偏だけ書いたままで筆をおいて立って、母のもとへ行き、用を済ませてから座にもどり、書きかけの字に つくり を書き添えた。
そして居合わせた門人に「なんとこの字はよく出来たではないか。偏を書いた勢いでつくりを書けば、一字一字が離れ離れになるもんだが、これを御覧。
後から書いたつくりの釣り合いが、いつもの文字よりかえってよい。これというのもおっかさんのお蔭だ。親というものは、何と有り難いではないか」と喜んだ。



亀田窮楽は養子をもらった。久兵衛といった。これもまた孝子であった。

久兵衛は、もと窮楽の家の近くに住んでいた寡婦の子であった。
久兵衛が10歳あまりの頃、母と物詣に出て、誤って傘を取り違えて帰った。
後で気がついたが、母親は「なアに、かまやしないよ。傘だってこの方がいいのだから、得をしたのだよ」と言ったら、久兵衛は「いいえ、おっかさん、新しい傘ですから、なほのこと返さなくてはならないのです。」と言った。

窮楽がそのことを聞きつけて、その子どもは末頼もしいと、貰い受けて自分の子とした。

久兵衛は、手習いをさせ、書物を教えると、ほかの子より群を抜いてよくできた。
ところが何年かすると、窮楽は久兵衛に「お前はこれから木綿を売って歩くがよい」と言いつけた。
久兵衛は子どもながらに、おとっつあんの後を継いで書家となる積りだったので驚いた。
「何かお心に障りましたか?私はどうにかしておとうつあんの後を嗣(つ)ごうと励んでおりましたのに」という。
窮楽は「いや、おまえには始めから商売をさせるつもりだったのだ。しかし儲けの多い商いには得てして禍いもわきやすい。儲けのわずかな品は何かと聞いてみたら、油か紙か木綿であろうということだった。けれども油は相場は動くし、紙は品数が多くてわずらわしい。だからお前は木綿を売るのがよかろう。」
そういって木綿の商いをすすめた。久兵衛も素直な若者で父の意に直ちに従った。

窮楽はやがれ倅に嫁を迎えて、同じ町のうちに新世帯を持たせた。
久兵衛は朝は未明に起きると父のもとに行って、戸外から父が目覚めるのを何度となく窺った。
父の目覚めた気配がすると「おはようございます」といって内に入り、湯水から食事の世話をする。
商売に出ようとするときには、また「行ってまいります」と挨拶して出かける。
帰ればすぐに顔を出して「ただいま帰りました」という。
そしてまた何かと用をして「帰ってお休み」といわれなければ去らない。
このように2軒の家を行き来することが日に幾回とも知れないので、近所の人々はその孝行に感じ入って、少しでも容易に通れるようにしようと、空き家の壁を抜いて、自由に通らせた。

そのうちに窮楽は下血を病んで、ややもすれば床を汚した。
久兵衛はそれを自分ですすいで妻には一切手をさわらせなかった。
妻のほうではそれを歎いて「そのようなことは私のする仕事ですのに、どうしてさせてくださらないのですか」と訴えた。
久兵衛は、「それはお前だってしてはくれようが、心の内で汚いと思わずにはいられないであろう」
露ばかりもそのように思ったら、おとっつあんに相済まないから」とやはり自分ですすぐのだった。


「どうしたら父を喜ばすことが出来ようか。- 庄右衛門の思ふところは、ただそれだけだった。」

「初雁」(森銑三著)所収の「新島ものがたり」の一節(184頁)である。

庄右衛門の父、与十郎は、大和国十一郡のなかにあった天領18か村の内の八条村の年寄だった。
宝暦4年の秋の不作で困窮していたことから、その18か村全体が申し合わせて訴訟を起こした。ところが取入れを済まし年貢を収めた上で歎願に及ぶべきを、その仕方よろしからずと、願は聞き取られないばかりか、村々の主だった者は、関東に連行され、勘定所奉行一色周防守の吟味を受けた上で、遠島や追放に処せられた。与十郎も伊豆の新島へ流罪を申し付けられた。その跡目も欠所とされた。
与十郎はその時50歳で、妻は事件の前年亡くなっていて、母と長男庄右衛門、次男清右衛門、3男平兵衛、それに末の娘ついの5人が残された。庄右衛門は22歳だった。さよという長女はすでに他へ縁付いていた。父与十郎の流罪の知らせが来て、清右衛門がせめてお別れにと江戸へおもむいたが、すで父を乗せた船は出て間に合わず涙にくれた。

村人は残された庄右衛門らを哀れんで、力を合わせて農事にいそしんだが、与十郎の母である祖母に孝養を尽くしていたが、祖母は宝暦7年に亡くなった。
祖母の病死を手紙で島の父に知らせた。島への通信は開き状という形式で封をせずに願い出る。そういう形でも通信の道は開かれていた。

庄右衛門は祖母が亡くなった後、妻帯もせずいた。人に聞かれると「少し考えるところがありますから」と妻帯しようとしなかった。
しかし、「父も遠島でそなたの身が固まらなくては安心できまし」と叔父の強い勧めで妻を向かえ、子ももうけた。弟の清右衛門は他家の養子となった。

島の父からは、人の世話で酒を商うようになったという知らせがきた。その後、眼病を患ったという知らせもきた。
そのとき、庄右衛門の心は固まった。

「眼病の親父様を、そのままにしては置かれない。どうしても島へ行って介抱をしよう。-さう思い立ったのである。」 (173頁)

庄右衛門は役所へしばしば歎願した。しかしお許しはでない。月日だけが経っていく。
そのうちに島の父から便りがぱったりと絶えた。
父の遠島後、早くも10年の歳月がたって、明和2年となった。
この年、東照宮150年にあたるということで恩赦を期待したが何の沙汰もなかった。
翌3年、遠江国豊田郡芝田村の権八という者が西国巡礼の姿で訪れた。
新島で同じく罪人だったが、恩赦で帰ってきたので、与十郎の消息を知らせにきてくれたのである。

「権八は言った。
『島では与十郎殿とは、至って懇意にしていました。ですから故郷のお話なども、毎日のように聴かされたものです。与十郎殿は不自由ながらも堅固にお過ごしです。・・・』」と語ってくれた。
庄右衛門は、父の無事を喜んだが、盲人同様という権八の話に、心を痛め、寝ても覚めても、その一事が心に懸った。

「庄右衛門は宿願を立てて、長谷の観音様へ詣でて、眼病の平癒を祈った。」 (175頁)

庄右衛門は芝村の役所でらちがあかなければ、江戸へ行って、織田様に願い出るしかない。許されなければ、乞食をしても門前を去るまいと決心した。親類・縁者は反対したが、庄右衛門の決意は固かった。妻にも今生の別れとなるかもしれないと申し渡した。

「子供達のことならご心配なさいますな。いかようにもして成人させましょう。どうかこの上はお父様もお連れになって、めでたくご帰国なさる日を、今からお待ち申します。」
夫の決意をとうに知っていた妻はそう言ったのである。
弟や妹は、兄がそのような覚悟で江戸へ行くと聞いて、奉公に出てその前貸しした資金を兄に路銀として託した。庄右衛門の兄弟にはそうした健気な志を者達が多かったのである。

明和5年11月、庄右衛門は芝村の役所へ庄屋の付き添いで出頭して、父が老衰し盲目同然である。自分が島に渡って介抱したいでご許可下さいと願い出た。

役人達は「田畑や妻子はどうするのか」と聞かれ、ありのままに答えた。
「島に渡ってからの貯えは?」と聞かれ

「困窮の百姓にございますれば、金銀の貯えなどはございませぬ。しかしながらどのような荒れ島にもせよ、土さへございますれば、親子が食べるくらいの食物は作り立てまする。」
庄右衛門はかう、さっぱり答へた。


この一言は役人たちの心を動かし、願の趣きは関東へ申上げるので、帰って待つようにと言い渡された。

明和6年2月、役所から呼出しがあって、願いが聞き届けられたという嬉しい知らせをもらった。こうして庄右衛門は江戸へと向ったのである。

明和6年2月21日に庄右衛門は、村中に暇乞いを終わらせ、八条村を出た。村役人2人が付き添った。川止めで日を費やし江戸に着いたのは3月11日である。
16日御勘定所安藤弾正少弼から呼び出しがあり、直々に吟味された。
「そのほうこと、新島へ参り、父親の介抱をしたき段、奇特に思し召され、このたびめしくだし仰せつけられたが、親の介抱は、いかように致す所存か」
庄右衛門は、芝村で答えた事をここでも繰り返した。
「金銀の貯えはあるか」
「弟や妹の給銀を借り受け、村方の餞別など貰って参りましたけれども、途中で川止めに遭ったり致しまして、残り少なに相成りました。」
「金銀の貯えが乏しくては、介抱は覚つかなかろうぞ」
「土さへござりますならば、親子2人の食分くらいは作り出しまする」
弾正少弼も、この一言に感動の体だった。

「願いの通り御聞き届けくださる。島へ参って大切に介抱致すように」と仰せられた。

新島は伊豆国韮山(にらやま)の代官江川太郎左衛門の所轄であり、3月21日に庄右衛門は織田の屋敷から江川の屋敷に引き渡され、その日すぐに江戸を出帆した。途中浦賀に寄って新島に着いたのが27日の朝である。島の役所に出て、前田左近ら役人に面接した後、島人の案内で父与十郎の小さな藁葺きの住まいに到った。そこには別れて15年間に、老いさらばえた父がうづくまっていた。
「親父様だ」と思った瞬間に、万感がこみあげて物がいえなかった。
「おとうさん、私です。庄右衛門がご介抱に上がりました」
かろうじてそれだけを言えた。
与十郎は、あまりの出来事に判断もつきかねてぼんやりしていた。
「おとうさん、私ですよ。庄右衛門が参りました」と進み寄って、父の手をとって、父の目の見えない顔にすりつけんばかりに繰り返した。
「おう、おう、庄右衛門か」
父の見えない目から涙が滝のように次から次へと流れおちた。

新島での庄右衛門の新しい生活が始まった。新島は戸数300軒あまり、土地が悪く米はできない。漁に出てそれで獲た魚を売った金で米を買う。漁が収穫できなかったり、海が荒れたりするとすぐに食料がつきる。そのため栄養失調のものが多かった。
流人は100人ばかり。一人1軒の藁葺きの小屋が与えられるが、その当たりは土が悪く畑もできない。そこで山を越えて畑にいって専らサツマイモを作った。それも数年前に種が渡って来ただけで作り方も下手であったが、それを与十郎らがいろいろ教え、それらしい芋がとれるようになったのだった。
庄右衛門は山を越えた畑にいっては、早速農事に励んだ。国からいろいろな種を持ってきたので、島人にもそれを分かって、作り方を教えた。そうして島に綿や煙草ができるようになった。島人も喜んだ。農業の暇には父が以前していた酒の販売も始めた。庄右衛門は骨身を惜しまずに働き続けた。

「どうしたら父を喜ばすことが出来ようか。- 庄右衛門の思ふところは、ただそれだけだった。」

しかし、食べ物の不自由な島では、特別に父の好みの物など作って勧めることもできない。
ある日、そのことを父に嘆くと、こう言われた。
「何をいうぞ。命あるうちにおまえに逢われて、こんなに介抱してもらっているのが何よりの馳走じゃ。この上に何の願いがあろう。
おまえが来るまでは、こんな島に追いやったお上を恨み憎む気持ちもあった。目が見えなくなってもはや故郷の土を踏むこともかなわず、おまえたちにも逢うことなくみじめにこの島に埋もれていくかと愚痴を言い、嘆き悲しむ日々であった。最後はただ絶望のなかにあきらめておった。ところが、こうしてお前に逢われた。こんなにも一心にわしを介抱してくれる。何と有難いことであろう。それも、お上の慈悲じゃと思えば、わしはありがたい、感謝の気持ちでいっぱいじゃ。」

「わしはもはや余命も幾らもあるまいが、島で死んでも魂はおまえの背中に負ぶさって帰国しようぞ。」

父の言葉に庄右衛門の心は痛んだ。何とかして年老いた父を故郷に連れて帰り、肉親や先祖の墓参りもさせたい、そう思った。そこで折に触れては、その事を島の役人達に訴えもしたが、「流人の身分で、赦免を願い出るなど、はなはだ恐れおおいことである」と取り合ってもらえない。
「流人の身では、はばかりもございましょうが、わたくしは流人ではございません。
余命いくばくもない父を、どうにかして命のあるうちに故郷へ帰して、肉親の者たちへも逢わせとう存じまする」
一言一言庄右衛門の言葉には真心がこもっていた。役人達もむげにははねつけることができなかった。
新島は人々の気風が荒く、親を敬うなどという気持ちはいたって少なかった。ところが、庄右衛門の孝行ぶりをみて、次第に見習う者が多くなってきた。親を敬い愛する気持ちが少なかった島の人々が自ら恥じる気持ちを起こして、親を大事にするように変わっていったのである。また、庄右衛門は島の農業の改善にも力を尽くして、「土さえあれば、親子2人の食べる分くらいは作り出します」という勤勉な姿勢は周囲を風化していったのである。島の役人達は、折りに触れてそういうことどもを代官所に告げる。そしてそれは次第に幕府の要職の者へ伝わっていったのである。

安永7年閏7月、八条村に芝村の役所から、与十郎と庄右衛門とのこれまでのことについて、なおまた2人の行状についても問い合わせがあった。庄屋年寄は早速書付を提出した。
そして3ヶ月を経た10月21日に、江戸表において与十郎遠島ご赦免の義が仰せ出でられたのである。ああ、「どうしたら父を喜ばすことが出来ようか」という庄右衛門の至誠が通じたのである。感謝すれば感謝すべきことが起こるのである。
そして数日を経た10月28日に、赦免船が新島に着いたのであった。

その時父与十郎は綿を繰り、庄右衛門は煙草を刻んでいた。
小屋の入口に島役人が姿を現した。
「与十郎いるか。庄右衛門付き添いで、すぐに罷り出るようにというお達しじゃ」
役人の様子も、いつもと違っている。

庄右衛門は取るものも取りあえず、父を促して出る。
みちみち島役人が「与十郎喜べ、赦免のお達しがあったのだぞ。」
とこっそり教えてくれた。これを一番最初に教えたかったのだ。

庄右衛門はもう自分の体が自分なのか、半ば分からないくらいだった。
役所につくと、役人がみんなそろっていた。
「与十郎儀、遠島御赦免の趣(おもむき)、今日御下知が参った。赦免状を受けたわるように」

そうしてこう読みあげられた。
「その島に預けおき候大和国十市郡八丈村年寄与十郎、今度帰島仰せ付けられ候。ならびに介抱人せがれ庄右衛門同道にて、仕立船を以て差し出すべく候。」

11月9日の正午に、与十郎、庄右衛門父子は、島の人々から名残を惜しまれながら、新島を出航した。18日には江戸鉄砲洲に無事ついた。
20日に奉行所の白州に召し出された。
「今般日光御社参の恐悦につきて、与十郎遠島御赦免なし下さる。
並びにせがれ庄右衛門、介抱行き届きたる致し方、神妙に思し召され、両人とも帰国仰せつけたる以上はありがたく存じたてまつれ」
請け書を差し出すと、与十郎のせがれの孝心感心ということで、料理を賜り、白銀1枚を賜った。
12月2日、父子は江戸を立った。芝村の役所には13日に着き、すぐに故郷に帰ることが許された。実に庄右衛門は10年ぶり、与十郎にいたっては24年ぶりの帰郷であった。
庄右衛門の妻わさは、は顔にてぬぐいを押し当ててただうれし泣きに泣いていた。
10年の間に、子どもたちは大きく成長していた。

庄右衛門は帰国後、人々にこう言った。

「このたびは有り難くも、親を貰って参りました。返す返すも有り難いことでございます。」

そして庄右衛門の親孝行を褒め称えて次から次へと人々が祝いに北が、庄右衛門は家族にこう言い聞かせた。
「このように世間様に知られて褒めはやされたりすると、それにつれて大きな顔をする心が出はすまいかと、それが心配じゃ。あれは孝行な人じゃのと、必ず必ず思うまいぞ。これは皆おかみの御慈悲ゆえじゃ。お互いに慎まなく手は、冥加のほども恐ろしい。夢にも慢心起こすまいぞ」


「初雁」から「新島ものがたり」のあらましを引用してきた。

「後語」で森氏はこう付け加えている。
「昭和58年3月、その年の挨拶を兼ねた配り本として発表された。

昭和23年、戦争後、することもなく日を送っていた折、書いたものらしい。日本教育文庫の孝義篇の一篇を書き直したものである。・・・孝行の字にとらわれず、昔の美しい性情を持った人の、美しい行いをした物語として読んでもらわれるならば満足である。 

 荒至重(あら・むねしげ)の母

 荒、通称専八は、多士済々の相馬藩の中でも、異色の存在である。苦学して、和算・測量にかけては日本の最高水準に達し、尊徳のもとで実地の修練を積み、帰国の後は、民政と土木工事と著述・教育に活躍した。その卓抜な設計と施行による大規模用水事業は、今日までも恩恵を残すものが多く、彼を祀る神社もある。
 それは彼の天才と、努力によるが、彼を彼たらしめた究極のものは、実にその母にあったと思う。

 母の繁(しげ)は、文政4年(1822)、18歳で、藩の祐筆荒喜左衛門量重(かずしげ)に嫁いだ。喜左衛門は、料理方から身を起こして徒士(かち)となり、日夜筆道に励んで祐筆に抜擢された人で、謹直・公正な人物だったという。しかし、禄高は低く、「文化の厳法」という藩の財政緊縮策で藩士の給与は半減されていたから、荒家の生活は楽ではなかった。繁は、機織りをして家計を補いながら、夫と62歳になる姑(しゅうとめ)に仕え、また夫の書道の弟子たちの面倒をみた。
 文化9年(1826)に至重が生まれた。翌年、重い疱瘡(ほうそう)かかったが、繁の懸命の介護で一命をとりとめた。至重が5つ、妹が2つになった天保元年(1820)、喜左衛門は回米奉行を命ぜられ、城下から南へ7里、塚原村の浜蔵に移った。その翌年繁が10年間かしずいてきた姑が死んだ。中風で、あと3年間は寝たきりだったが、繁は終始、実の母と変らない愛情で看護し、孝養を尽した。
 繁はさらに夫の姉がつれあいを亡くし、数年前から痛風を病んでいたのを引き取って自分が面倒をみようと言い出した。喜左衛門は当初ためらったが、繁はぜひともと押し切って引き取り、看護の手を尽くした。
 さらに繁は夫にこう申し出た。
「私の母が、66歳になって、よそにいます。よかったら引き取りたいのですが、すぐにではありません。私はこれまでどおり機を織って、家計に入れますが、それ以上に夜中に働き出しをして、縮を50反、織りためて予備金とします。それができたところで、母を当家に引き取らせていただきたい。」
「これまで、母や姉ばかりに尽くして、心苦しく思っていた。里の母を迎えるのは、わしも望むところだ。縮を50反など要らないからすぐに呼びなさい。」
 繁は喜んで母を招いて、家事に、介護に、帯も解かずに励んだ。
 これらのことが評判になって、繁は藩主から感状を授かった。

 天保5年(1834)正月、夫の荒喜左衛門がにわかに病んで急逝した。享年わずかに42歳。繁は31歳。至重が9歳、妹が7歳で、去年生まれた下の妹はまだ乳離れしていなかった。喜左衛門は2年前に、さらに南方3里の請戸(うけど)村の浜蔵に変っていた。繁は10里の道を子らを連れて中村に戻ったのであった。
 繁が至重の名義で藩から来る扶助料は1人扶持で、繁は、朝から晩まで機織りに励み、夜は赤子を背にくくりつけて荒地を開墾した。他からの援助は一切受けなかった。
 至重はそんな母の姿を見て育ったのである。15歳のとき、藩命で和算家佐藤儀右衛門に師事し、1年ほどですべてを学びとった。17歳で勘定方の常雇いとなった。繁は毎夜、蓑笠に大小を帯び、男姿で出迎えたという。
 弘化元年(1844)、至重は19歳で勘定方の本勤となり、江戸遊学を命ぜられた。やがて関流のの大家内田弥太郎に師事すること3年、日夜帯を解かぬ勉学で、数学・測量・天文の奥義を究めた。その後は仕法掛として尊徳の随身を命ぜられ、野州東郷にいたが、3年たった嘉永6年(1853)7月、母大病の知らせで急きょ国に帰った。息子のつききりの看病で母の容体は持ち直し、何年か齢を保った。母の労苦と献身の生涯は報いられたのであった。





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