12344297 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

GAIA

GAIA

森恒太郎 講演より 貯金の徳

貯金の徳(「報徳講演集」)
               元愛媛県温泉郡余土村長 森 恒太郎君述

今回明石において報徳夏期講習会を開かれましたについて、これに集会するの機会を得ましたが、なお引続きご当地に報徳講演会をお開きになるということを聞きましてこれに罷り出てご高説を承ることを無上の光栄と致しました。
然るに私にも何か実験して来たことを話せよというご命令でございますが、私は格別皆様に申し上げる程の経歴をもっておりませぬのでございます。
私はご覧のごとく両眼明を失っておりますので、暗黒の中に探り探り人の後から付いて仕事をしているほかはありませぬ。故に目のお有りの方々のなさる事柄に追付く訳はございませぬが、私が明治31年から10年間、自分の郷里におきまして村治に関係致しました間に経験を致し、したがってその中に私が一種の信念を得ました点について、お話を申し上げようと考えます。その中につき、あるいはご参考になろうかと思うことも沢山ございますが、今日は時間もございませぬから、その中で貯金の徳というものを一つ選びまして実行上のお話を申そうと考えます。
明治34年の9月から自分の村に勤倹貯蓄の実行を致しておるのでございます。
皆様の前に勤倹貯蓄の話を申し上げることは無用でございますが、その貯蓄を致しておりまする方法はどういうあんばいかと申しますると、私の村内一般の人に、勤労と節倹との結果によりまして、僅かな金でも蓄積さしたい、それを極めて広き範囲において行わせたいと考えましたが、勤倹貯蓄ということは誰もいうことでございまして、悪いと言う人もございませぬ。けれどもその実行と言うことは中々継続しにくいものでございます。又僅かな金をば蓄積しようと思っても、それを銀行もしくは郵便局へ持って往かなければならぬということが煩わしい為に、その実行が出来ないということもございます。
又その貯蓄しようという信念が固うございませぬ者は、一時積もうと思っても郵便局あるいは銀行に持って往かぬ内に又使ってしまうという憂いがある。
僅かな金を取り集めるには、成るべく便利なる方法を取らなければならぬと考えまして、小学校の高等部の生徒を以て日曜事業と致し、その受持受持を定めまして村内を回らせ、金を集めることとしたのでございます。実は特別に人を雇うて金を集めさせますると、費用が沢山要りますから、むしろ学校の生徒を使って、日曜事業にやったらよいであろう。費用も余計に掛からぬでよかろうという考えを持ちました。それで学校の生徒が、日曜日に自分の受持ちを歩きまして金を集めて参ります。その為に生徒一人に信玄袋一個あて渡してござります。その中に手帳が一つございまして、その手帳には生徒が誰某が金何程を出したということを一々控えることにしてございます。
それから又その受持ちの人数だけ厚紙の袋をこしらえまして、それに金を入れるように造っております。それには預け主の姓名が書いてございます。
それから又その受持ちの人数だけ厚紙の袋をこしらえまして、それに金を入れるように造っております。それには預け主の姓名が書いてございます。それらを袋の中に入れております。
通帳は無論預け主に渡してありますが、金を受け取った時に、通帳を受け取って、袋へ入れ、そうして生徒は月曜日の朝、受持教員の所に持って参ります。教員はそれを改めまして、役場から収入役が参りますからこれに渡す。収入役はその金を受け取って役場に持って帰り、役場の台帳に記入して、水曜日に学校へ通帳を返送する。
その学校へ返った通帳を生徒が配って歩きます。
それで役場の台帳に記入した金は、一まとめにして銀行に預け入れるのでございます。方法はまずこういう風で日曜日曜ごとに繰り返して今日まで継続しているのでございます。それでこういうことを行いますに当たりまして、第一の準備と致しまして、ただただその規則書や方法が定まっただけでは、容易に実行は期せられませぬ。私は常に思いますに、この貯蓄する所の金それ自身よりも、貯蓄者の心に常に勤倹貯蓄をしなければならぬという、その心の継続せんことを願うのでございます。それにはどうしても貯蓄心というものを養成するのが第一義であると考えまして、着手以前において私は村内をちょうど37回回りまして、諸所で談話を致し、貯蓄心の養成に努めました。それから自分はこの不自由な体ではございますが、通帳のごときも初めは私自身が各戸に配布したのでございます。
かように致しまして、私の村は480戸という小村でございますが、通帳の出ておりますのは630幾つという数になっているのでございます。
一戸に通帳一つ以上になっているのは親子として多きは3,4人蓄積しているものもあるからでありまするが、そういうような風で、学校の生徒、小さな子どもの紹介によりまして明治34年以来今日まで継続したその金額は、2万3千幾円になっているのでございます。
 それでこの学校の生徒に貯蓄金を集めさせる労を掛けるというのは、どうであろうかと随分議論もあったのでございます。又私もその点は心配して充分に教員の意見を聴きまして、もし悪いという学校の意見ならば止してよろしい。他に方法を取りましょうが、よろしく研究をして貰いたい。しかし自分の考える所では、学校の生徒に扱わせると危険だからとか何とかいうことはあるけれども、危険だ危険だと言うて恐れたならば、いつも任すということは出来ないようになるではあるまいか。又高等科の生徒等が多少計算を正確にするように、又その計算を実地に行うと同時に多少整理の頭を造り待たるるであろう。又一方から言えばこららの事を間違いなく正確に行うということは、とりもなおさず学校の倫理訓練の実を示すのではなかろうか。もしこれらをして誤まりを生ぜしめるということは、未だ学校の訓練が至らないのではなかろうか、寧ろ進んでやって見るべきではなかろうか。生徒に百千遍話をして聞かせるよりも、あの小児をしてこれらの貯蓄の紹介者たらしめたならば、どのくらいの効果があるであろう。将来この生徒が大きくなった時に想い出すであろう。自分が小さい時に学校で袋を持って金を集めたが、あの婆さんの所へ往ったら憫(あわ)れな生活をしていた。その婆さんが1銭2銭を積んでいた結果、何百円になったというような考えを起したら、それが記憶に残るのではなかろうか、わずかな金を集めて大を為すということを実行して、深き観念を与えて置いたら、他日彼らが世の中に立って、自ら一家経済上の責任をもった時において貯蓄心の尊きことを知るであろう。その時の利益は少々ではなかろうから、是非ともこれをやって貰いたいというと、学校を同意してこれを実行することになりました。さて実行してみると、果たして好成績で今日まで一つも間違わずやっております。それは固より教員諸君の労にまった所が多いのであります。なぜなれば年に2回各戸訪問をして貯金を集める状況等を調べ、それと同時に教員の側からも勤倹貯蓄の必要を説いて回るのでございます。そうして生徒に対する注意もよく行届いて誤まりなくやっております。それで私は時々学校へ参りまして生徒諸君に礼を言うのでございます。「あなた方が紅葉のような手を以てこの紹介の労を取ってくださるその金は、僅かに1銭2銭という少数なようであるが、もはや1万円に達しましたと報告すると、生徒は自分の金でも出来たように手を拍って喜んでいる。この1万円という声は余程大きく感ずると見えて、僅かに1銭2銭という少額であるのに、知らぬ間に何万という金に達したと聞いて、積もれば大になるという深き観念を与えたと思います。又手を拍って彼の無邪気なる生徒が、自分の物が出来たように喜ぶのを見ましても、確かに一種の効果を収めたものであろうと存じます。かように致しまして現在の金額は2万3千円幾百円になっております。この金は銀行に預けてございますが、容易に引き出しませぬから銀行の方でも日歩2銭1厘という特別な利子を付けてくれます。そうして生徒が日曜日の働きに対して報酬を与えておりますが、これは村費を以て勤倹貯蓄の奨励費と致しまして支出しております。
それはどういう風に支出しているかというと、生徒が1万円を集めて来ましたならば、郵便切手を以て1銭を与えるのでございます。その切手はすなわち生徒の勤労の結果としての郵便貯金となっているのでございます。かように日曜日曜にやっておりますが、ある時人が申しますには、日曜日曜に集めるのは面倒であるから、一月か二月にまとめて一遍に取ったらよかろうということを申しますが、私は是非日曜ごとにやりたい。又出来るならば毎日でもやりたい。なぜかというに貯蓄心を忘れないためで、貯金貯金と言わなければ兎に角忘れるからして、その心を忘れないように持続することを努めなければなりませぬ。故に幾回となく村内を歩きまして勤倹貯蓄の話を継続しているのでございます。
皆様からお聞きになりましたならば、一村掛かって明治34年から今日までに僅か2万3千円くらいのこと、何の仰山な、言うほどのことがあるものかと仰せられることと思います。けれども私はそうでないと考える。これは彼の小学校の生徒が紹介してくれる金でございます。小児という方からいうても無闇に多く集まって来る気遣いはございませぬが、一回集めますると、70円80円の金が集まって参ります。これがズッと継続していると致しますれば、生徒の仕事としては私は意外に多い金であろうと考えます。否生徒から見た2万幾千円が多いと認めるのではございませぬ。勤倹貯蓄の徳は実に私の予想外の光を放つものと実は驚いたのでございます。なぜかと申せば」この僅かな2万幾千円の金が出来ますると同時に、村内の貯蓄心が非常にさかんになって参りまして、その結果はこの2万幾千円でなく、なお余裕金が沢山に出来まして、つまり直接に銀行へ預けたり郵便貯金をする者が意外にふえてきたのでございます。それを一昨年の調査と明治34年とを比較して見ますると、ほとんど10万円の貯蓄を増加したのでございます。これも畢竟生徒が日曜日曜にその熱を冷まさないように貯蓄の紹介をしてくれました2万幾千円という金は僅かのようでありますが、その貯蓄の徳は一般の貯蓄心を勃興させまして、そうして僅かな戸数の村において数年の間に十万円余の貯蓄が出来た訳でございます。
故に明治37,8年の戦争の時におきましても、彼の国債募集に方って、毎回の応募にも役場の吏員が1人出張して、勧誘したということはありませぬ。ただ一日の間に皆からの申込みを受けるのでございます。そうして第1回のごときは、その割り当てた負担額の3倍に達し、その後はいつも倍数であったというのは、つまりこの貯蓄心の徳であったろうと思います。
かように致して参りまして、僅かながら金が出来ると農村の事であるからその金の働かせ場がない。それが為に土地などの購買力が増加して、土地の価も隣村に比して非常な騰貴を致しました。これもまた少なからぬ富の増加でございます。
その上なお明治33年の調査によると、村の副業たる織物は僅かに5万8千幾円という生産高でございます。その以後この農家というものには、是非とも副業がなければ経済の維持が出来ないという事を、私どもが数字の調べによって確かめまして、この副業の奨励に努めました結果、今日では13万余円の生産高に上りましてのでございます。これも数年の間にかくのごとく増加することは容易に出来ることではないのでございますが、一方に貯蓄心が出来、金に余裕が出来たものでございますから、あるいは織物の資本に融通をすることができるようになったためで、貯蓄の徳は副業の上に多大の便利を与えたのでございます。そうして又副業の発展が農業の改善に利益をしたことがございます。それは農業には忙しい期間というものが限られております。すなわち挿 刈取りの時期には猫の手も欲しい時でありますが、農家はこの忙しい時期のために使う人を平生準備して置かねばならぬ。然るに副業がさかんな為にいつも人を置いて、その食料と給料をこの副業の利益より取っていて、農業の忙しい時にはこの方に力を供給さるることになります。それ故農業にも発展を来しまして、小作人にしても多くの面積を作ることが出来るようになって参りましたので、従って農業の経済に利する所少なくございませぬ。これらの金の余裕が出来るのと同時に、肥料の改良も出来まして、その及ぼす所の利益は少々ではございませぬ。こういうふうになってくると、勤倹貯蓄の徳に段々枝に枝が咲き、子に子が出来まして意外の効を収める、ただお聴き遊ばすと明治34年から今日まで掛かって2万幾円という僅かなもの、何の誇りになるものかと言わるるでございましょうが、私は貯蓄の徳という、徳そのものを他観して甚だ強力なるものと自覚致しましたからその徳に対して非常の信仰を有しているものでございます。その無限の力の存することを私は深く信じているのでございます。
これらのことを実行致しまして、初めてこの1銭2銭という少額の貴きことを私は心から感じた次第でございます。ことに一人二人の金持ちを造るよりも、一般分配の富の増加を図ることになりますると、その融通力が非常に寛になって来ると同時に、農村は土地の購買力が増し、それと同時に土地を尊重するようになる。土地を尊く思いますると、農業に力を入れて来るように、段々結果に結果が出来まして意外の効を見ることと信じます。
今日は時間に制限がございますから、私は自分の経験上貯蓄の徳の大なることを感じましたことを申し上げて、ご挨拶に代える次第でございます。(拍手)



◎大森府会長 私は今、森君の話について特に同君にお礼を申します。実に有益の話を承って定めて諸君も益を得られた事と思います。私もそれに続いて承った事がありますから、なお一言ここに同君から承った事を諸君にご紹介しようと思います。
この席ではないのであります。けれどもドウもやめようと思ってもやめられぬ一事がある。諸君のために大いにご参考になろうと思う。
先だって森君が府庁に見えられて私にイロイロ話されたその時に初めて面会をした。森君の名はかつて聞いておったが実は初めて面会をしました。その時に森君から有益の話を聞き、しばらく段々話をしておったが、まず第一に私は疑問を起こして、言うには
「先生、盲人で村長をしている、無論我が自村である。盲目にして村長を勤めておって、そうして成績がすこぶる好いというは随分不思議に堪えぬ。目が明いても甘く行かぬ村長の役をドウして盲人の身で執るか」と思って実に不思議に思って、まずそのドウして行ったかという事を私聴きました。先生は田舎に立派な家を持っている。村長になったその時に先生の家族は・・・・・・子どもを教育のために松山に細君や子どもは往っておった。松山から僅か一里か二里という余土村の事で無論生開けの人気もよくない村治も挙がらぬ容易ならぬ村である。それでまず以て役場へ入ってしまおうと決心して妻君を残してたった一人で役場に住んでおったという。飯や掃除や衣服はドウしたかというに、米は自分が焚いて食ったという。手探りで飯は自分が焚き役場の一室を借りて寝起きして飯を食っておった。ただ火の扱いが危険であって骨を折ったという。自分で菜を焚き自分で飯を精げてそれを煮て食って自分で夜の世話をして一切人手を借らぬ。ただ小使が着物の世話ぐらいは多少してくれたという。まず一人で手探りでやったという。それはつまり我が事は我がするという考えで、それから手始めにして余土村は松山にも近いので多少人の風儀も面白くない。まずそれから改良するには自分の用事は自分がするというのでなければ人の世話は出来ぬという考えで、口に言わず行いに行うてみたという。
私はそれを聴いてすべてを了解してしまった。モウその他の先生の事は聴かなくてもそれだけ聴けば十分で、森君の精神が分る。私はこれだけ承って非常に益した事であります。なおその他イロイロ承って大いに参考になった事がありますが、ことにこの事は私だけ承りて置くに忍びず、あるいは森君においてはそういう事を言われるのは自分の本意でないかもしれませんが、私はこのことを承ってやむにやまれず実にやみがたい事と思いますから一言お話しておきます。
その時になお、随分その村で憎まれたり、非常に困らせられたりしたので、家内などからモウ辞めたらよかろうというぐらいに言われたという話もある。それは美談である。私はその時に榎原重左衛門君の話をしたことがある。同氏も村から追い出されようとしたことがある。そのような事が森君にもある。森君にもその事を話したが、それは村でも仕事をしようと思うと随分骨の折れるものである。今日どこの地方を見ても我が事を我れがするでなく人に依って我が事をする人が多い。学校を建てると直ぐに補助金を取って来ないと良い村長とは言われぬというヨウなことで困ったものである。これは村長その人が悪いのではない村民が悪いのである。補助金でも貰ってくると評判が良い。僅かの補助金を取る為に多大の運動費を使い、差引き幾らにもならぬ。これでは我が事をするに人に依って我が事をするのである。己にその精神がいかない。随って村民の気風及び事業の程度が分る。
森君のはこれに反してすべて己れの事は己れがする。ことごとく自分が飯を焚いてやる。その主義で以てやる。僅かの目腐れ金の補助金を貰って、それで学校を建てるという所とは余程趣きが違うと思う。もっともその補助金を貰うという事は絶対的に悪いということではない。往々それはどこにもあるがその精神は感服したものではない。これは大いに考うべき事であろうと思う。それで森君の村には他から補助金はない面も新設の立派な学校を持っておられる。これは他でも大いに気をつけなければならぬと思う。この美談は特に皆さんにお聴きに入れて置きたいと思います。


© Rakuten Group, Inc.