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山岡鉄舟

山岡鉄舟の生き方の見事さに感動している。
その生き様を何回かにわたって紹介しよう。

山岡鉄舟と禅の境涯

 山岡鉄太郎は父にどうすれば武道を全うできるでしょうと問うた。
「家祖の高寛公は、剣を小野治郎左衛門、小太刀を半七に学び、また禅の蘊奥を究めた。東照、台徳の二公に仕え、しばしば戦功をあらわした。常にその旗に『吹毛不曾動』(毛を吹いて かって動ぜず)と五文字を書し、これを携えていた。いまお前が武道を全からしめんとするなら、すべからく剣と禅を修め、心を明鏡止水の域に達せしめ、もって後日の大成を期せ。」と禅を修めることを勧めた。

 鉄舟は、願翁、星定、濁園、洪水、滴水の諸禅師に参じた。始めて滴水禅師に参じたとき、鉄舟は剣と禅は一つであると事細かに論じた。その時滴水禅師は、
 「成るほど貴公のいわれるとおりだ。けれども、わが禅の道から忌憚(きたん)なくいえば、貴公の現在の境涯はちょうど眼鏡をかけて物をみているようなものだ。眼鏡はもちろん物を明らかに見ることを妨げないが、肉眼がしっかりしていれば、眼鏡を用いる必要はない。いや、眼鏡をかけるのは変則で、眼鏡のないのが自然である。無用の眼鏡さえ捨てれば、たちまちお望みの極意を体得できよう。貴公は剣禅兼ね至る人であるから、一旦豁然として大悟したら、殺活自在、神通無礙の境に至るであろう。」
といって鉄舟を励まし、無字に徹することをのぞんだという。

 維新後、明治五年(37歳)、岩倉卿、西郷南洲に請われ、辞退した末、「それでは十年だけ」と明治天皇の侍従となった。
 またこの年より三島の龍沢寺星定和尚に参禅した。明治十三年三月(45歳)「両刃、鋒を交えて避くるを須(もち)いず、好手、還って火裏の蓮に同じ、苑然として自ら衝天の氣あり」を透過して、天竜寺管長滴水禅師より大悟徹底の印可を受けた。
 また、浅利義明より無想剣を相伝し無刀流の一派を開いた。刻苦十七年の修行であった。その時次のように心境を詠じた。
『剣を学び心を労すること数十年 機に臨み変に応じ守りいよいよ堅し 一朝累壁(るいへき)みな摧破(さいは)す 露影湛如(ろえいたんにょ)としてかえって全きを覚ゆ』
 明治十五年約束通り宮内省を辞したが、明治天皇の強い御希望で、生涯宮内省御用掛りという身分を受ける。
 
 山岡鉄舟は自ら悟った無刀流の境涯をこのように言う。
『無刀とは心の外に刀なしという事で、三界唯一心なり。一心は内外本来無一物であるが故に、敵に対する時、前に敵なく、後ろに我なく、妙応無方、あとを留めない。これが余が無刀流と称するわけである。過去現在未来の三際より一切万物に至るまで、何ひとつとして心に非ざるものは無い。その心は、あとかたもないもので、活発無尽蔵である。その用たるや、東湧西没、南湧北没、神変自在、天も測ることができない。』

  鉄舟の貧乏と人間の桁について
(「山岡鉄舟」小島英煕、「おれの師匠」より)

○鉄舟は、若い頃、「ボロ鉄」と呼ばれたほど貧乏だった。
 父は六百石の旗本、小野朝右衛門で鉄舟十歳の時、江戸御蔵奉行から飛騨の郡代に任ぜられた。
 鉄舟のため剣の師匠として井上清虎を江戸から飛騨に呼び寄せたほどで、鉄舟は少年時代は裕福な暮しをしていた。井上八郎清虎はお玉が池千葉周作の門弟で、北辰一刀流の達人であった。井上は鉄舟の人となりとその技量を愛し、小野朝右衛門が亡くなった後、小野家の後始末をするなど鉄舟の後見役をよく勤めた。
 鉄舟十七歳のときに父が亡くなるが、鉄舟のどこまでも爽やかな風韻はそうした生い立ちの良さもあるように思われる。
特に母、磯の及ぼした影響は大きい。母は鹿島神宮の社人塚原石見(いはみ)の次女であった。背が高く色黒でしっかりした性格だったという。
 母は鉄舟十六歳の時、四十一歳でなくなった。鉄舟は、毎日真夜中に墓前に額づいてお経を読み、夜が白々と明けるまで続け、それが五十日にも続いたという。小野鉄太郎は、実にそのような少年であった。

○母の死後半年で父も亡くなった。父は亡くなる直前、小判千五百両を鉄舟に渡し、幼い弟達の世話を頼んだ。
 鉄舟は弟達を連れて江戸へ帰り、持参金を付けて養子に出し、自らは百両だけ持って山岡家に入った。
 山岡家は当時二人扶持金一両という。
 鉄舟は槍の名手、山岡静山に師事し、鉄舟はその人となりにほれこんだ。静山は、親孝行で、たった一人の母の用事は何でも自分でやった。母の肩を毎晩揉んでいたが、槍術の弟子が増えて忙しくなると、毎月一と六のつく日は母の按摩の日と定め、どんな用事があっても母の肩を揉む日と定めていた。鉄舟は剣に専念するかたわら、静山に槍を学んだ。鉄舟20歳のときである。
 鉄舟は山岡静山の人格に敬服しており、静山が27歳で死んだ後、毎晩人知れず墓参りを続けた。こういうところに鉄舟の人となりがしのばれるなあ。 寺の和尚が、毎晩何者かが静山の墓に来るのを怪しんで、山岡静山の弟で他家に養子に行っていた高橋泥舟にその旨を告げ、泥舟はひそかに様子を見にいった。
 ちょうどその晩は電光きらめく夕立となった。そこへ大男が走ってきて、静山の墓前に恭しく礼拝し、羽織を脱いで墓に着せ、墓に向かっていった。
「先生、鉄太郎がお側に居りますから。どうぞご安心ください」と雷雨が過ぎ去るまで墓の前で守護していた。泥舟はそれをみて感涙にむせんだという。生けるものに仕えるごとく、鉄舟はそういう人間であった。
 静山には二人の妹があった。長女は英子(ふさこ)といって当時16歳であった。その英子が鉄太郎を男の中の男と惚れこんで「ほかのひとをお婿さんにするくらいなら死んでしまいます」と言い切った。当時は小野家は微禄で、山岡家は600石の旗本で身分が違いすぎた。山岡家親族あるいは叱りあるいはなだめたが、娘の気持ちは変わらない。ほとほと困り抜いて泥舟が鉄舟の弟金五郎に事情を話した。金五郎は驚いて、兄鉄舟に話した。
鉄舟は「そうか、それほどまで俺をおもっているか」といい、
泥舟のもとに行き、「私のような者をお英(ふさ)さんがそんなに思ってくださるなら、婿に参りましょう」と一諾した。安政2年鉄舟20歳の時である。ああ、鉄舟の心事のすがすがしいこと比類がない。
 結婚後、小石川にいたが、鉄舟は当時国事と修養のほか全く念頭になく、しかも食客までいるとあって困窮をきわめていた。
 夫人は手内職をするとともに、屋敷のまわりに野菜を作り、家計を助けたが、天性気前よく、貧乏をきにしないところがあった。そして惚れ抜いて婿に来てもらっただけに仲がよかった。鉄舟は「俺のような者に連れ添ったゆえ、人十倍の苦労をする」とよく夫人をいたわった。
 当時金に困って、家財から着物まで売り払い、畳まで三枚を残して売り払った。夜は蒲団もなくぼろぼろの蚊帳に夫婦くるまって寝たという。
「どうしてあの蚊帳だけが残ったものか、きっとよほどのボロなのでくず屋が持っていかなかったのかもしれない。」と小倉鉄樹に語ったことがあると言う。
 食事も日に一度か二度で食べるものがなく、水を飲んですごすこともあったという。
「何も食わぬ日が月に七日くらいあるのは、まあいいほうで、ことによると何にも食えぬ日が一月のうちで半分くらいあることもあった。なあに人間はそんなことで死ぬものぢゃなあ。これは俺の実験だ。一心に押して行けば生きていけるものだ。死にはせんよ。」

○師匠が山岡家に養子に行った当時、最初に生まれた子が奥さんの乳が出なくて死んだ。お産のとき、奥さんは敷くにも掛けるにも一枚の布団もなくて、鉄舟は自分の着ていた着物を脱いで、奥さんにかけて、自分で褌一本で奥さんの枕もとに座って看護した。奥さんは「どうか羽織だけでもひっかけていてください」というので、裸に羽織をかけていたが、奥さんが寝入るとそっと羽織を奥さんにかけ、自分は裸で坐禅していたという。鉄舟は、寝ている妻の顔を見つめ、「こんな俺になんだって惚れて夫婦になる気になったのだろう」と不憫の涙がこぼれたことがあると小倉鉄樹に語ったことがあると言う。

○鉄舟が宮中に出仕することになっても、鉄舟の衣食は変わらなかった。
鉄舟の義弟の石坂周蔵が、豹の皮を買って鉄舟に座らせようとしたことがある。ところが鉄舟がつぎの当たった座布団を敷いているのを平気で見て、そのまま持って帰った。そのとき石坂は玄関で「兄貴と俺とは人間の桁が違う」と嘆息して帰っていったという。

 また、明治十五年頃、鉄樹が晩飯の給仕をしていると、
「あまり夜具が傷みましたから、これで新調したいと思います」と奥さんが紬(つむぎ)の反物を鉄舟の前に出した。
「そうですか。お客用ですか」と鉄舟はきいた。
「いいえ、あなたのお夜具があまりひどいものですから・・・」
「そりゃ止したらいいでしょう。今ので間にあってるのですから、新しくこしらえるにも及びますまい」と鉄舟は奥さんの言葉をさえぎって、「お互い昔は敷いて寝る布団もなくて、古夜具にくるまって、抱き合って寒さをしのいだこともあるのですからな。聖恩のありがたさ、食うものに困らなくなったって、昔を忘れるようじゃいけませんな」と言ったので、奥さんは「はい」と言って引き下がった。

 ああ、石坂周蔵とともに「人間の桁が違う。鉄舟にはかなわない」と嘆息をつく。

「永遠に生きる二宮尊徳」(加藤仁平)71ページ

静岡に報徳運動をやられた荒木由蔵という人がいた。
この人が山岡鉄舟を尋ねた時、山岡鉄舟が
「お前たち報徳報徳というけれども、いったい報徳というのはどういうことか」と言われた。
荒木由蔵は「報徳ということは一度死ぬことでございます」と答えた。
山岡鉄舟は剣と禅の達人ですから、「それはいいことだ」といって喜んだ
話がというあります。
二宮先生の訓えというのは、いつもそういうふうに、上に立つものが、まず命を捨てる。
必ずしも肉体的の生命を捨てなくても、名誉心とか、利権争奪の心持といったものを捨てる。
その時にパッと道が開けてくるというのがいつも指導の仕方なんですね。そのことは、まず上に立つ者が一人そうした決心をすると、たとえば静岡県の庵原(いはら)村杉山にしても、徳川の末から明治9年まで、貧乏村の代名詞であった。名主の片平信明翁が、村のことを心配して病気になってしまった。村のことを心配して病気になるほどの者が一人できてくると、貧乏でも、すさんでいても早いか遅いか、道は開けてゆく。あの場合はあれは名主ですから、僅かに50戸ばかりの小さな村ですので、僅かの間に村の立て直しができるわけですね。
相馬6万石の場合には、富田高慶という、一人の青年が立ち上がって、国を救う道を研究しようと、命がけで勉強を始める。こういう場合には、長くかかる。7年から10数年も経って目的を達したということになるのです。早いか遅いかの差はありますけれども、ともかくこうした決意を持てば、やがて道は開けてゆくものなんだ。二宮翁はいつもその点をめらって指導されたのです。




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