☆山岡鉄舟の衆生無辺誓願度山岡鉄舟の衆生無辺誓願度(鍵田忠三郎語録より)鍵田忠三郎氏は、奈良市長を6期務めた。 曹洞宗の僧籍を持ち、柳生無刀流師範・道場主であった。 1994年逝去された。 この人の語録に山岡鉄舟に関する話があり、これが実にいい。 「四弘誓願は仏教者は誰でもあげますし、僕もずっとあげてきたんですが、3年前にその意味が解りましてね。 山岡鉄舟という人がおるんです。剣道の大家でありましたし、書道の大家でもありましたし、また坐禅を徹底して坐った人です。 この人は字をたくさん書いておられますが、いつでも字を書くときに「むにゃむにゃ」と言わはる。 剣道するときでも「むにゃむにゃ」と言わはる。 なんかするときに「むにゃむにゃ」と言わはる。 山岡鉄舟の「むにゃむにゃ」て何やなとずっと気にかかっておったのです。 それが、3年前に病気さして頂いたとき、山岡鉄舟関係の本を集めるだけ集めさしてもろうて、お陰で「むにゃむにゃ」が解った。 それは「衆生無辺誓願度」と言うておられた。 「衆生無辺誓願度」というのは、世の中の全ての人達を私が誓って救いますよ。 あの岸へお移しいたしますよ、ということです。 それを唱えてから字を書く。 それを唱えてから剣道する。 それを唱えてからなんかする。 僕は、ほんと実に嬉しく感じました。 私は、この東側に小さな道場を構えていますが、3間に8間と不思議に同じ大きさでありまして、山岡鉄舟先生に特に親しみを感じておるわけです。 その山岡鉄舟先生が何をやられるんでも「衆生無辺誓願度」と唱えてからやられる。 私もそれから何でも「衆生無辺誓願度」です。 それまでもちろん四弘誓願を唱えてきたけれど。その時分はわからなんだ。 行政やるんでも「衆生無辺誓願度」、味噌づくりやるんでも「衆生無辺誓願度」、何でも「衆生無辺誓願度」です。 また下手な字を書くときでも、先ず「衆生無辺誓願度」と書いてから字、書かしてもろうている。 全ての衆生、全ての人類を救わしてもらいますよ。 そういう願を立ててですね。 そしてそれを唱えながら生涯を送られた山岡鉄舟は立派です。 我々はみんな自分のことだけを考えとんねん。 山岡鉄舟は全ての人類を救うことを考えとんねん。その辺が大きに違う。」 鍵田忠三郎氏は、こうも語っている。 「祈るのでも、みんな自分のために祈っとる。 自分の幸せのために祈っておったってなんにもなりません。 人のために祈るんです。 他のために祈るんですよ。 そうさえしておれば自分も自然と幸せになれるんです。 自分の幸せのために祈ったら自分は幸せになれないんです。 人のために祈ったら自分は幸せになれるんです。」まことに 祈るものは祈られている 押すものは帰るの理で、 祈りもまた他のために幸せを祈れば自ずと自らも幸せになるのだ。 これがこの世界の原理である。 ○先日、元奈良市長の鍵田忠三郎氏の話を紹介した。 「山岡鉄舟は、いつでも字をたくさん書いておられますが、いつでも字を書くときに「むにゃむにゃ」と言わはる。剣道する時でも「むにゃむにゃ」と言わはる。なんかするときにむにゃむにゃ」と言わはる。 山岡鉄舟の「むにゃむにゃ」て何やなとずっと気にかかっておったのです。それが、三年前に病気さして頂いたとき、山岡鉄舟関係の本を集めるだけ集めさしてもろうて、お陰で「むにゃむにゃ」が解った。それは「衆生無辺誓願度」と言うておられた。「衆生無辺誓願度」というのは、世の中の全ての人達を私が誓って救いますよ。あの岸へお移しいたしますよ。ということです。 それを唱えてから字を書く。それを唱えてから剣道する。それを唱えてからなんかする。 そういう願を立ててですね。そしてそれを唱えながら生涯を送られた山岡鉄舟は立派です。我々はみんな自分のことだけを考えとんねん。山岡鉄舟は全ての人類を救うことを考えとんねん。その辺が大きに違う。」 ○鍵田さんは、山岡鉄舟関係の本を集めるだけ集めさしてもろうて、お陰で「むにゃむにゃ」が解ったという。 どの本だろうと気になっていたが、それが分かった。 大森曹玄老師の「山岡鉄舟」だった。 「鉄舟は非常な速筆で、書生が紙を取り代えるのが間に合わなかったくらいだといわれるが、しかし一枚ごとに必ず心の中で「衆生無辺誓願度」と唱えながら揮毫したということである。・・・一筆ごとに「衆生無辺誓願度」と唱えるという見識や願心に至っては、現代ではおそらく地を払って絶無に近いとおもう。」 ○ある人が鉄舟に向かって、 「海舟さんや、泥舟先生は大いに自重されるが、先生のように無造作にご揮毫なさっては、書の値打ちがなくなります。」と注意した。 「いや、わしが人から依頼されて書くのは、その人の望みを空しくするのがいやだからで、書を売る考えなど毛頭もない。だから世間の人が、わしの書で鼻をかもうと、尻を拭こうと一向かまうところではない。」と答えた。 また、ある人が、 「先生は随分お書きになりますが、これまでの揮毫数は大変なものでしょうナ」と言うと、 「ナニ、まだ三千五百万人に一枚ずつは行きわたりません」と答えたということである。三千五百万人とは、当時の日本の人口数である。 鉄舟が書を揮毫するのは、実に衆生済度の方便であって、さればこそ一枚ごとに「衆生無辺誓願度」と唱えたわけである。だから当時の日本の全人口三千五百万人を済度するためならば、本当に全部に一枚ずつ行き渡るまで書いたかもしれないと曹玄老師は言われる。 ○山岡鉄舟は明治十九年頃から、大蔵経の筆写を発願し、芝の増上寺の大蔵経を借用して、毎晩写経していた。 ある夜、写経していると門弟の内田宗太郎が傍から 「先生、先生がたとえ百歳まで生きてお書きになったとしても、大蔵経は出来あがりますまい。」と言うと 「ナーニ、これを終わったら、もう一度今度は草書でやるつもりだ。」と答えた。宗太郎が心中「先生も大法螺を吹かれるナ」と思い、エヘヘと笑うと聞き咎められ、 「おれは死にもせず、生きもせんぞ。この糞袋が古くなったら張替え、張替えしてやるだけだ。大蔵経の一通りや二通りはなんでもないことだ」と叱咤されたという。 |