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山岡鉄舟と清水の次郎長との出会い

   山岡鉄舟と清水の次郎長との出会い

○慶応四年三月、有栖川大総督は西郷隆盛を先頭に錦の御旗を掲げ、東海道を江戸に向かって進み、駿府に陣を構えた。徳川慶喜は恭順の意趣を伝えるべく山岡鉄舟を、駿府に向かわせた。鉄舟は勝海舟の配慮で薩摩藩士益満休之助を連れて、難なく官軍陣営を突破してきた。しかし、益満は途中で足を傷め、三島に残るはめになった。

 鉄舟は先を急ぐ余り、夜に薩垂峠を無謀にも単独突破しようとした。すると既にここまで来ていた官軍の先鋒に誰何された。一人では突破できないと見た鉄舟は急いでその場を引き返したが、官軍は怪しいと見て後ろから盛んに射撃してきた。
 薩垂峠の登り口に松永家が代々営む「望嶽亭、ふじみや」があった。身の危険を感じた鉄舟はこの「望嶽亭」に逃げ込んで、助けを求めた。何か事情のある侍だと感じた当主の松永七郎平は鉄舟を奥の座敷に入れ、妻かくに命じ鉄舟を漁師の姿に変装させ、着用していたものを捕方の目にふれないように、手早く隠した。七郎平は清水次郎長宛に手紙を書き、下僕の栄兵衛に命じて蔵座敷の隅にある秘密の通路を通って当時すぐ裏にあった海岸へ逃がした。そして、繋いであった舟で夜陰に紛れて、清水の次郎長の所へ送ったのである。次郎長は若い時に当家に手伝いに来ていて、当主と親交があった。

 山岡鉄舟は次郎長のところで服装を整えた。そして次郎長が鉄舟を駿府伝馬町「松崎屋源兵衛」宅に案内した。ここで山岡鉄舟は西郷隆盛との会見を行い、有名な江戸城無血開城を成功させる談判となるのである。
一方、藤屋では残った武家の出の内儀が官軍と堂々と渡り合い、家捜しにも耐えて、最後には官軍の武将が無礼を詫びて迷惑料を置いて行ったという。鉄舟は漁師の服装に着替えた折、持っていてはまずいと置いて行った持ち物の中に現在松永家に残っている山岡鉄舟のピストル(フランス製の十連発小銃)があって今も大切に保存されている。

○明治元年九月十八日、徳川幕府の軍艦であった「咸臨丸」が新政府の官軍によって清水港内で攻撃を受け沈没した。次郎長は傷つく徳川方の軍人を官軍の目の届かぬよう密かに逃がし、また湾内に浮遊する屍を拾い集め、手厚く供養し葬った。
 これらの行為が駿府藩の耳に止まり、出頭、詰問を受けたがそこで次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬することが悪いと言うのなら、次郎長はどんな罰でもよろこんでお受けします。」と答えた。

 このいきさつをあとで聞いた山岡鉄舟は、いたく感心し、鉄舟が明治二十一年に亡くなるまで親交が続いた。
 また次郎長も自分より十七歳も年下の鉄舟に心酔し、「自分の親分は山岡鉄舟」と公言するほどだった。
 そして明治八年には鉄舟の勧めで富士の裾野を開墾するなど社会活動に励み、明治二十六年六月十二日、七十四歳で大往生した。

○山岡鉄舟が清水の次郎長と会った時のエポソードがある。
「おまえの子分で、おまえのために、命を捨てる人は何人いるかい」。その時に次郎長はこのように答えた。
「イヤー、あっしのために命を捨てるような子分は一人もおりません」
 その後の次郎長の言葉が良かった。
「わっしのために命を捨てるものは一人もおりませんが、わっしは、子分の為にいつでも命を捨てる覚悟をしております。」

○次郎長は、鉄舟居士に心酔し、よく出入りしていた。
 ある時、次郎長がこんな事を言いだした。
「先生。撃剣(剣術)なんてたいして役に立たないもんですねえ」
「どうして役に立たぬな」
「わっしの経験ですがね。刀をもって相手に向かった時にはよく怪我をしたものですが、
 刀を抜かずに『この野郎』とにらみ付けると、たいていの奴は逃げちまいますよ。」
「そういうこともあろうな。それでは、お前はそこにある長い刀でどこからでも俺に斬りかかってこい。俺はこの短い木太刀で相手をしよう。もし、俺にかすり傷ひとつでも負わせたら、お前が勝ったことにしてやる。」そこで、負けん気の強い次郎長は、端然と座っている鉄舟をしばらくの間にらみ付けていたが、
「これはいけねえ。どうしてもお前さんにはかかれねえ。このすくんでしまう気持ちはどうした訳だろうね。先生には分かっているだろうから教えておくんなさい」
「それはお前が素手で、この野郎と相手をすくませるのと同じことだ」
「それではわっしが素手で、この野郎と睨み付けるとなぜ相手がすくむんだね」
次郎長は一心に追求し、居士は楽しく言葉を継ぐ。
「それはお前の目から光りが出るからだ」
「撃剣を稽古すれば、よけいに出るようになりますか」
「なるとも。目から光りが出るようにならなけりゃ偉くはなれねえ」
といって「眼、光輝を放たざれば大丈夫にあらず」と大書して与えた。次郎長はこれを表装してずっと床の間にかけていたという。

○山岡鉄舟は清水の由緒ある久能寺が荒れ果てていたのを惜しんで再興を図った。そして、たくさんの書とともに募金の趣意書を次郎長に与えた。
これが現在の鉄舟寺である。その趣意書に言う。

「鉄舟寺庫裡建立墓縁山本長五郎簿」
寺を建てても何もならぬ。親を大事にしてもなんにもならぬ。わが身を大事にしてもなんにもならぬ。なんにもならぬところを能く能く観ずれば、又、何かあらん。山本長五郎御往時を考えここに尽力することあり、諸君なんにもならぬ事を諒察あらば多少の喜捨あるも又、なんにもならぬ何かあるの一事也」
明治二十一年二月山岡鉄舟しるす


2010年02月05日 取り壊す寸前の建物に移築、次郎長の終の棲家が平成の世に甦っていた!
「船宿・末廣」は、講談や浪花節で有名な森の石松や、大政、小政など大勢の子分を抱えていた幕末の侠客・清水次郎長が晩年に経営していた宿である。明治26年6月12日、次郎長はこの船宿でその生涯を終えた。
大正5年には、次郎長の養女が「末廣」を引き継ぐが、大正8年に売却。船宿「港屋」として新たに開業された。その「港屋」も昭和初期に個人に売られていた。その売られた民家(昭和以降は、船宿ではなくなっていた)が、次郎長が晩年に暮らした末廣であることがわかったのだ。
平成13年には、清水区港町のエスパルス通りとさつき通りの交差点の角に、創業当時の部材を生かして「末廣」が復元された。実際に次郎長が開業した初代「末廣」の場所は、清水港近くであり、現在では「次郎長宅跡」と記された石碑が付近に建立されている。
先述の民家が、次郎長が晩年に暮らした末廣だと判明したきっかけは、徳川慶喜が撮影した写真の中に、「末廣」を撮った一枚があったことからである。一介の侠客と将軍を結びつけたものは何だったのだろうか。
それは山岡鉄舟という人物である。次郎長の有名なエピソードとして、幕府の軍艦「咸臨丸」が新政府軍に襲われた際に、逆賊として放置されていた遺体を手厚く葬ったというものがある。この命がけの行動をきっかけに、静岡藩の藩政補翼であった山岡鉄舟と次郎長の付き合いが始まる。
山岡鉄舟といえば、勝海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の会談にも立ち会った人物であり、当然慶喜との繋がりも深い。明治時代になり、将軍職を退いた慶喜が清水に頻繁に訪れていたこともあり、交流があった可能性もあるかもしれない。
(前野クララ)


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