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2009年01月12日
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カテゴリ:イマジン
「江戸時代人づくり風土記22静岡」272~280ページ

斎輔霊神ー民間療法の元祖となった高松才助

天保元年(1830)3月5日、当時の周智郡奥山郷地頭方村の時原村(今の静岡県磐田郡水窪町)に一人の男の子が生れた。名を才助と名付けられた。父は修験道の先達だった高松周碩(かねひろ)、母はさとといった。
 才助は3歳でいろはを覚え、小さい頃から、神仏を拝み生き物を憐れみ、ノミ、シラまで殺さなかった。8歳のとき、村の加持大仙という人の妻が難産で苦しんでいた時、父が祈祷で治せなかったのを祈願して不思議に無事出産したという伝承がある。
 10歳のとき突然行方不明になる事件が起こった。村の人々が探し回ったが、白倉権現という修験者の道場で、断食の荒行を行っていた。才助を見つけた人々は説得して村に連れて帰った。
 13歳になると周智郡山梨の医師の賢斎という人の門に入って、医学を修めた。才助はその後も諸方に行って勉学に励んだ。「斎輔霊神由来記」によれば、京都へ行ってさらに医学を学ぶ一方神社仏閣を拝し、「因果経」「法華経」などの仏典や医学書を求めて帰郷したとある。
 才助の治療方法には独特なものがあった。患者自身に「少しで早く病気を治したい」と願う心持ちを起させ、薬療の効果を一層助長させるという治療方法をとった。そのことで患者の全快が早くなり、治療率もよかったと伝えられる。
 そのころ、有本の新谷伊勢蔵という人が、弟子として才助に仕えたが、
「才助様は、薬代を持参する者にはお茶だけのもてなしでよいが、貧しくて薬代の払えない者には一食添えてもてなすように」といつも指示を受けて実行していたという。
またある雪の降った朝、才助が「伊勢、雪をかけよ」と命じたので、伊勢が
「無学でもかかねばならぬ今朝の雪」と答えると「うん、よくできた」とほめた話が伝わっている。
 安政元年(1854)正月、才助は思いがけず病気にかかり、日に日に病状は悪化した。しかし本人は少しも悲しむ様子が無く、普段と変わりなく笑顔で診療を続けた。両親が心配して「病にさわるから診療はやめるように」というと、才助は、
「医は仁術といいます。医者として、また人としての務めを果たさなければなりません。少しでも多くの方々に喜んでいただけることが私の幸せです。どうか悲しまないでください。人は生まれたとき、すでに天命が定められています。自分の体のことは私がよく知っております。」と笑いながら答えたという。
10月になって、病状は急に悪化し、死のまぎわに才助は「医者として、また人としての務めを半ばにして終るのが心残りですが、私亡き後、堀切峠の上に五色の雲が見えます。それが私です。母様よく見ていてください。それが見えれば、私亡きあとも皆様のお役に立つことができると思って喜んでください。」と言い残し、そばで見守る人々に礼を言い、眠るように死んでいった。10月5日、才助25歳だった。
 一同が悲しみにふけるなか、ふと堀切峠を見ると、上空に五色の雲が浮かんで、それが数日間続いたという。
 
 才助亡き後、生前の徳を慕う人々が社を建て、斎輔霊神の神号を奉ることになった。その後、信者に夢や感得という霊的体験で、また斎輔霊神に奉仕する神主の口を通しての「申し降ろし」によって、内服薬や外用薬の手当てを教示し、多くの患者を救った。
「斎輔霊神由来記」によれば、没後まもなく有本の守屋国平の祖母が重い病にかかり、水窪の医師の診療を受けるため、村の人の協力で連れ出す支度中、祖母が心中に斎輔様を思い出し、祈念したところ、夢のように草木の根や皮の処方とその服用方法が浮かんできて、家人が急いでそれらを採取して服用させたところ、熱が下がり、日ならずして全快したという。
 こうしたことが数多くあって、参拝者が絶えないようになった。後に新谷伊勢造が神がかりして「申し降ろし」を行い、患者やその代理人に伝えるようになった。
 斎輔の神示には罰だとか祟りというようなことは決してなかった。才助の妹の子孫にあたる名古屋の高松栄一という人が故人となってから、「申し降ろし」のできる人は一人もいなくなった。(孫六京一)


毎朝、正心調息法を行った後、首曲運動を行っている。
正心調息法は塩谷信男先生が創始された呼吸法である。60歳で大成されて、なんと90歳過ぎてから世に公表された腹式呼吸とイメージングと言葉の力を総合させた呼吸法である。
塩谷信男先生は内科の医者であり、2008年3月14日に106歳に後10日で死去された。生前、世に多くの健康法がありますが、創始者が100歳を超えて元気なのは私だけですとおっしゃられていた。
塩谷先生は、東京大学医学部で勤務されていたとき、手当て療法をしたとして物理学療法を日本で取り入られた真壁教授の逆鱗をかい、まじないみたいなことをするやつは出て行けと東大から追放になった。後に真壁教授から「塩谷は私の正式な弟子ではありませんが、立派な臨床医です」と評価された。日本最大のヒーラーの一人である松下松蔵翁には「あんたの手には神んケが宿っている」と言われた不思議な力をもたれていたが、後年は封じられて誰でも自らを健康にできる正心調息法を普及されたのであった。

「自在力」には次のようなエピソードが載っている。

塩谷信男先生が渋谷に内科の医院を開業して間もないある日、往診から帰ってくる塩谷先生を病院で中年の男性が待っていた。塩谷先生の顔を見るなり、ビックリしたような顔で立ち上がって「あっ、この人だ!」と叫んで、しきりにお辞儀した。
「名古屋から来た○○です」と自己紹介した後、「こんなにお若い人だとは思いませんでした。ありがとうございました。お蔭さまですっかりよくなりました」とお礼を言った。
塩谷先生はなんのことか分からなかった。その人と会ったのは初めてだったのだ。
塩谷先生がわけを聞くとこういうことだった。この人は腎臓結核を患っていて、地元の名古屋の病院で手術をしないと治らないという診断を受けた。でも手術をするのは気が進まなかった。そんな折、東京で「生命線療法」という手を当てて病気を治している医者がいるという塩谷先生の噂を聞いて、上京して診断を受けようと思った。その人は手を当てて病気を治すくらいなのだからよほど偉い先生なのだろう、診てもらう前に心を静めておこうと正座して精神統一を行った。すると間もなく、誰かが腰を押す。驚いて振り向くと、ヒゲをはやした若い男の顔が見えた。押された部分から温かいお湯が流れ込むようで気持ちがよく、押されるままに寝入ってしまった。翌朝、いつもなら起きぬけの小便が血尿で濁っているのが、その日はだいぶ薄らいでいた。その夜、また正座して精神統一を行うと、同じようにヒゲをはやした若い男が現れて腰を押してくれて寝入ってしまった。翌朝起きてみると、尿はもっと薄くなっている。その夜も同じことが繰り返された。翌朝、便所に行くと尿はきれいに澄んでいた。
驚いて病院に駆けつけると医者が目を見開いて言った。「すっかり治っています、どういうことですか?」念のため精密検査したが完治していることが明らかになった。もちろん手術は不要になり、その人はいまだ会ったことのない塩谷さんに病気を治してもらったお礼に上京したのであった。その人は偉い先生だというので初老の落ち着いた紳士を想像していたのであるが、ヒゲこそはやしていたが当時30歳頃の塩谷先生の顔を見て、「やっぱりこの人だ」と得心したのだった。もちろん、塩谷先生自身には何の覚えも感覚も記憶もなかったのである。
その後も、「お蔭で病気がよくなりました」とお礼を言われたり、手紙を受けとったことがしばしばあったということである。

 塩谷先生は「宇宙の無限の力が凝り凝って 真の大和のみ世が生り成った」という大断言を言う事も勧められた。

この大断言の中には、「真和」という塩谷先生が自ら神示で受け取ったとされる自らの神名が隠されている。有本の守屋国平の祖母が「斎輔様」と祈念して治ったことを思い合わせると、大断言を唱えたり、「真和様」と祈念してみてもいいかも・・・





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最終更新日  2009年01月12日 15時29分46秒
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