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カテゴリ:報徳記&二宮翁夜話
花の都のパリに来ては、いやいやながら藤三郎も名所見物をせざるをえなかった。しかし彼はルーブルに(勧工場:かんこうば 明治・大正時代、一つの建物の中に多くの店が入り、いろいろな商品を即売した所)と注釈を入れている。
18日の夜行でドイツへ向った。ベルリンでは藤山治一が出迎えていてくれた。 ドイツでは、シーメンス会社や、ブランシュワイ精製糖工場を始め各市の26工場を見学した。 ハンブルク市へ行った時、そこのカール・メーケル商店の主人シモン氏の宅へ夕食が招かれた。いよいよ食堂が開かれる時、今井が、 「あなたが主婦の手をとって食卓まで導くのです」と注意すると、藤三郎は、 「そんなことはテレ臭くてやれやせん、真っ平御免だ、君やってくれ」 「それでもそれが招待を受けた主客の礼です」 「そんな礼儀をしなくては、飯をくわして貰えないなら、わしはこのまま帰る」 シモンス家の人々はもう立上がって待っている。今井は弱って、やむなく自分が主客の身代りになって夫人の腕をとった。 藤三郎は、英・米・独・仏の各機械製造会社と、予定した精製糖機械購入の契約を、自分でも満足するくらい割安に結んだ。ジュー・エンド・ヒューストン会社から精製糖機械類、ジェームス・プカナン会社から骨灰製造機械類、トーマス・ハミルトン会社から分蜜機その他、ザンガハウゼン会社からヒルタープレス類といった風に。その金額は約1万5千ポンド(当時の日本金で約15万円)に達した。 明治30年2月9日藤三郎はロンドンを立って帰国の途についた。サウドサンプトンの波止場まで、今井、ミセス・チャップマンほか、異境の空で親しんだ数名の人々が見送って来た。今度の船は郵船の土佐丸(※)であった。 ※「日清戦争後の海外航路拡張の世論に応えるため」(社史)に日本郵船が開設した欧州定期航路には13隻(予備船1隻含む)の大型新造船が投入されたが新造船隊が整備されるまでに暫定的に6隻の汽船(土佐丸、和泉丸、鹿兒島丸、旅順丸、他用船2隻)が就航した。土佐丸はその第1船で当時のわが国海運界が保有した初の大型貨客船であった。 http://homepage3.nifty.com/jpnships/meiji02/meiji02.htm NYK Nippon Yusen Kaisya 日本郵船 日本郵船はP&O社の斡旋により、欧州航路同盟の承認得て、明治29(1896)年に航路を開設し、3月15日に第一船として土佐丸が横浜を出港した。欧州航路用の船は新造船ができるまでのつなぎとしてイギリスから購入した中古船で土佐丸も同じであった。 http://www5f.biglobe.ne.jp/~travel-100years/travelguide_239.htm 3月14日シンガポール着。それからジャワへ渡って、半月余りをジャワ全島の視察に費した。 4月6日に今度はフランス船でシンガポールを出帆し、13日朝香港に入港した。ここで同地の砂糖商「広万泰」から歓待された。 香港では有名なジャーデン・マジソン製糖所や、太古製糖所を参観したかったが、両社とも、この日本の直接の競争相手には、さすがにそれを許さなかった。 4月20日に汽船海門号で香港を出帆し、油頭、厦門(かもん)に寄港して、23日に台湾の淡水港についた。 台北に1週間滞在して、その間に総督府を訪ねて、台湾の糖業の状態を聞いたり、参考資料を借りたり、又本島人の白糖製造所を視察したりした。この知識が、数年後の台湾製糖会社創立の時に非常に役に立った。 5月1日基隆(キールン)港から釜山港に乗って、7日朝神戸に入港、8日に東京の自宅に帰った。 明治29年7月14日7月14日横浜を出帆してから、11か月にわたって、完全に地球一周の旅行を遂げた。その間彼は無病息災で、一日も休みなしに、世界の代表的製糖工場や機械工場を視察した。藤三郎はこの洋行によって名実共に、当時の日本の製糖業界の第一人者となった。 彼は日記の終りに、この旅行中に汽船や汽車に乗ったマイル数を明記しているが、それによると、この旅程の総計は31,784マイル半で、その内訳は、21,175マイルが海路、10,609マイル半が陸路である。 洋行の総費用は7,010円8銭5厘であった。当時の優秀船で、日本の横浜駅から、太平洋、アメリカ大陸、大西洋を横断してイギリスのロンドンまでの上等通し切符代は、金468円73銭であったことから、最後の神戸から東京・新橋までの上等汽車賃が金11円25銭であったことまで、全費用を明細に記入した帳簿が、旅行日記と共に現存している。 放胆であった反面細心克明であった藤三郎の性格をよく物語っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年11月09日 20時55分50秒
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