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2011年05月24日
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テーマ:鈴木藤三郎(175)
カテゴリ:鈴木藤三郎
 

鈴木鉄工部は鈴木氏が氷砂糖や精製糖を製造する機械を他に依頼して造らせたのでは、思うようなものができないので試作するつもりで明治24年1月始めた工場であった。日本精製糖に隣接した東京府南葛飾郡砂村字治兵衛新田479にあった。

黒板氏の鈴木鉄工部での仕事は主として設計技術者として設計の責任者の地位にあった。当然鈴木氏の発明特許には深く関係し、知識と努力を傾けたことは想像できる。入社後一余年後には、鈴木鉄工部の技師長となり、年俸で壱千円余を給せられていたという。鈴木鉄工部を退社したのは、明治38年3月31日で、翌月4月11日には、日本精製糖会社嘱託もやめた。鈴木鉄工部からは「在職中勤勉ノ功ニ依リ」八百円、日本精製糖から「慰労金」として三百円を送られたというから、その功績の次第がしのばれる。明治36年から37年にかけては、陸軍糧秣廠の醤油エキス製造装置、日本精製糖会社の拡張工事に腕を振るったという。

明治37年12月鈴木氏発明の鈴木式ボイラーを日本精製糖で採用しようという議が持ち上がり、黒板氏は精製糖会社の重役会の席に呼ばれ、意見を求められた。黒板氏は、技術者としての良心と信念から、鈴木社長(明治36年就任)の前で、自家製ボイラーの採用に反対した。この事件等以後、鈴木、黒板両氏の間がシックリいかなくなった。黒板氏は独立自営の決意をし、翌38年1月には鈴木鉄工所及び日本精製糖会社へ辞意を漏らしたが、鈴木氏は増俸したりして慰留し、辞職を承認しなかった。そこで黒板氏は大学院に通学して更に研究するという名目で、明治38年9月14日付で大学院に入学した。指導教官は井口教授となっている。

この間の事情について、真野文二博士はこう語られている。(昭和18年11月26日)

「黒板君を自分が実業家鈴木藤三郎氏のところに世話したことは確かである。鈴木氏のところに行った初め、どういうことをしていたかは知らない。それで黒板君も恩人だということで随分懸命に働いてつくしたのだ。

 ところが段々働いているうちに、鈴木氏のする仕事が気にいらない。どうも黒板君の主義と違う。まあいわば鈴木のやり方にわるい意味の商売人じみた処があった。そこで黒板君は随分尽していたが、やりきれなくなって、鈴木に別れて独立したいと申し出た。自分の処にも諒解を得にやってきた。

 鈴木は資本もないことだしと随分とめた。しかし黒板君は、もう少し真面目にやりたいということで、どうしても独立するといって自分の処にもことわりにきた。それで自分もやるがよかろう、といってやった。とにかく感心な人ですよ。何もないところから、あれまでにやりあげたんだから。」

また、昭和8年9月14日付長崎日日新聞の「黒板伝作君」ではこう述べている。

「鈴木鉄工部社長鈴木藤三郎氏は、一時発明家として評判された人で、その考案に成る鈴木式ボイラーを全国工場に使用すれば、燃料の節約その他で一億円の節約ができると称し、国益一億円を看板に広く宣伝した。このボイラーの製作には勿論伝作君が手伝ったのであるが、君は効能書きどおりの節約をなしうるかどうかに疑問を持っていた。すると明治37年12月製糖会社が右ボイラーを買うこととなり、重役会に提案された。君は会社の機械部嘱託として重役会に呼ばれて、意見を問われ、売る会社の技師長であり、同時に買う会社の技術主任という二重人格を有する君が、断固反対したので、鈴木氏は真っ赤になり、座は白け渡った。右の機械に関して自信を有せぬ君は、他の会社へなら売るとも自分の会社に買って期待を裏切る事はしたくなかった。それは技術者としての独立した使命で、正しい判断であった。すると翌年の実業之日本正月号に鈴木式ボイラーの事が大々的に掲載されたので、意見の相違は君をして鈴木氏から離反せしめ、切に慰留されるのを振り切って退社したのは、29歳(数え年)の春であった。」

また、黒板伝作氏の兄黒板勝美博士の親友で飯笹鋼業所主の飯笹小四郎氏が語ったところも当時の鈴木鉄工部の状況と学究肌の黒板氏がやめるに至った事情が窺われる。

「とにかく当時の鉄工業界は幼稚極まるもので、また随分乱暴なものだった。鈴木鉄工部でも依頼によって機械を製作したが、技術者としては到底自信のないものでもどんどん納入するのでハラハラして見ていた。技術には全然素人の小野徳太郎という支配人がいたが、その人などが納入に行って難なく納めてしまった。それで別に後から文句も持ち込まれなかったのだから、不思議といえば不思議だが、当時はそれで事が済んだのだった。

 ボイラーの時でも、鈴木さんはこうなるはずだという。しかし実際に使ってみるとそうはいかない。材料学の進んでいない時だから、今から考えるとムチャなことをやっていたわけだ。鈴木さんのいうとおりにならないというと、そんなはずはないと鈴木さんは怒号して叱りつける。仕方がないから、取換えの部分品をたくさん用意しておいてダメになると、ひそかに早速取り換える。鈴木さんにはそんなことは言えないから、鈴木さんはただ機械の運転するところだけを見て、うまくいっていると思い込んでいる。そんな調子だった。黒板さんはずっと設計にいて設計の責任者であったが、自分は現場にいて製作方面を受け持っていた。」(同書150頁)

黒板氏は明治38年4月に深川区猿江町(現江東区)に日本精製糖会社の機械修繕部職工長の山谷和吉氏(工手学校出で後年山谷機械株式会社社長)と共同で東京鉄工所機械部を設立した。同年8月には京橋区月島東仲通5丁目(現中央区)に東京月島機械製作所を創立した。

同年6月には宮崎好文氏が帝大卒業と同時に技師長として入り、明治40年頃から顧問を委嘱し、最高学府出の新鋭の技術者を選び、根岸政一氏、内村最一郎氏、竹村勘?氏に委嘱されているが、これらは鈴木藤三郎氏の鈴木鉄工部が東京帝大出の学士を技師長に採用したやり方などをとりいれたものとも思われる。

明治40年、大日本製糖株式会社(明治39年11月、日本精製糖会社と大阪の日本精糖会社と合併、鈴木藤三郎氏は退陣されていた)から小名木川第一、第二両工場の拡張工事があって、東京月島機械製作所が受注し、これが当社の発展の基礎となった。同書26頁では「翻って考えてみるに、もしこの時に鈴木氏が依然として大日本製糖を主宰しておられたならば、あるいはこの拡張工事そのものがなかったかも知れないし、またたとえあったにしても、仕事は当然鈴木鉄工部(同部は明治41年頃、敷地3,500坪、従業員400人を擁して、東京屈指の鉄工所であった)に回って、東京月島機械製作所には注文されなかったであろうと思われる」と感慨を述べている。

台湾製糖の橋仔頭工場の建設には鈴木鉄工所が関与し、当時同部に勤務していた黒板氏は、明治36年11月18日神戸出航で初渡台し、同工場を視察した記録「新領土初旅日記」(昭和15年4月発行)があるという。東京月島機械は、堀宗一氏の依頼により塩水港製糖の据付工事を引き受け、ドイツ、イギリスから技師が来た大日本製糖、東洋製糖より期間も早く、成績もよかったという。こうした製糖機械に関する技術の高さから、明治42年に打狗製糖所南投製糖所に赤糖の機械を納め、43年松岡製糖所に諸機械を納入するなどしている。東京月島機械製作所は、製糖機械の国産化に勤め、大正4年第一次世界大戦で、外国品の輸入難などが幸して、製糖機械の注文で活況を呈した。台湾製糖の神戸工場建設には、黒板氏が特に選ばれて、工場監督、設計をまかされ、月島機械からも諸機械を納入した。

黒板氏はまた徒弟教育に力を尽くし、多くの技術者の養成をされた。

「先生は常に言う。自分は若い時に非常に苦学した。しかし多くの知人から援助を得て学業を終え社会に出た。自分はその恩に報ゆる積りで多くの後輩を援助し養成し、一人でも多く有用な人物を社会に送り出したいのが念願である。また徒弟養成所にしても、機械製作の仕事を勉強してもらってたくさんの良い製品を作り出してもらいたいためである。仕事に精進して一人前の工員となってから月島の工場に勤務してもらいたいのであるが、必ずしも無理に工場に引き留めるわけではない。一人でも多く良い技術者を社会に送り出し国家のために大いに活動してもらいたいのである。徒弟の養成については専門の技術も大切であるが、精神方面の徳育も大切であるとして、訓育につとめたのであります。」(同書70ページ、宮崎好文氏「追想録」より)

ここにおいて、鈴木藤三郎氏の報徳の思想は、荏原製作所の畠山一清氏と同様、また黒板氏においても「一人でも多く有用な人物を社会に送り出し、国家のために大いに活動してもらいたい」という念願となって精神面でも受け継がれたかのようである。

黒板伝作氏は、昭和8年12月27日逝去された。「一生を通じて、非常な努力家であったこと、よく若い者の面倒を見たこと、利財の蓄積よりも世のため人のために力を尽したことは、多くの人の話や、諸事の記録を見ても判ることで、先生の人柄はここに、滲み出ていると思う。」(同著155ページ)

月島機械創業時の職員の山県孝亮氏は昭和18年11月21日当時をこう語った。

「黒板さんは学者だったから、人のやれぬこと、新しいこと、研究的なことをやりたがった。わるくいえば経営心理にうとかった。いつも仕事の六割は世の中にないもの、世の中より一歩先に出たもの、研究的なことをやりたがり、したがって利殖は第二になって、いる人の勉強にはなるが、月給をたくさん出すというわけにはいかなかった。いわば学校みたいなところがあった。研究的なことで金をかけて失敗した例といえば、明治43年の精米機械や、大正5年の自転車のソケットなどはいい例だ。外にも熱処理だとか、変圧器など、例が多数ある。そのようなわけで、稽古には雅量があった。本などいくらでも買ってくれた。一時会社の中に特許部を設けていたことがある。」(156頁)

☆ 荏原製作所の創業者畠山一清氏はその自伝で、鈴木藤三郎の報徳の考え方に影響を受け、経営の基盤にした。しかし、また藤三郎の失敗が社内の和の欠如にあると見て、茶の精神を自らの修養に取り入れた。

 一方、黒板氏をめぐる評論では鈴木藤三郎を積極的に評価する声は少ないようである。どちらかといえば、その商売人的なところに技術者の誠実さから黒板氏が反発して独立したというような評論が多い。しかし、創造的な仕事を通して国に報いよう、世に役立つ人物を育てようと実践してきたところは、月島機械の業務の内容や最高学府の卒業者を招致し発明を重視したこととも思い合されて、鈴木藤三郎が築いたものを土台にしている。黒坂伝平氏についても鈴木鉄工部での体験が事業活動のベースになっている。





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最終更新日  2011年05月24日 03時04分33秒



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