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2012年12月30日
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カテゴリ:鈴木藤三郎

 

桃園親王碑by天野.JPG

 桃園親王碑in桃園神社 by A

 

2012年12月27日に、森町の六人衆と 鈴木農場(今、不二聖心女子学院、不二農園)見学会を実施した。

午前10時に学校には伺う旨、事前に連絡し了解いただいていた。

9時半前に 裾野鈴木図書館に集合し、最初に桃園神社の境内裏手にある 桃園貞純親王碑と鈴木藤三郎の発見由来記の石碑を視察に行く。

これら2つの石碑は、鈴木農場内で藤三郎が発見して、その発見記を記した石碑を建てたのだが、おそらくはこの地が、藤三郎の後を承継した元北浜銀行頭取岩下清周氏のご子息がカトリックの司祭だったことなどから、キリスト教系の学園用地として寄付されたことから、当該碑を桃園神社に移築したものであろう。

 

 

「黎明日本の一開拓者」には、この碑のことの記述はなく、また鈴木農場の記述もあっさりとしたものである。

「明治35年(1902)に、父(藤三郎)は、静岡県駿東郡富岡村桃園に鈴木農場を開いた。御殿場線佐野駅(今の裾野駅)から北へはいった所で、前に奔たん巌を噛むという形容詞そのままの黄瀬川の清流を控え、近くに愛鷹、遥かに富士を仰いだ眺望絶佳の仙境である。この農場の面積は、約百町歩にわたる大農場であってその中に16町歩の茶園を主として、果樹園14町歩(桃、柿、りんご、ぶどう、桜桃、柑橘、びわ、栗等)、蔬菜園12町歩、山林約50町歩であって、また牧畜部には乳牛60頭、種牛1頭、馬11頭、鶏500羽等が飼育されていた。11戸の常農家族が農場内に住まい、農繁期には男女約100人の農夫や茶師が働いた。
 父は既に商業、工業、植民地農業に応用し、非常な効果をあげた報徳の仕法を、ここで内地農業に応用し、わが国全産業に対する報徳流の経営の規範を完成して、二宮翁の遺徳に報いたいという念願を起したものであろうと思われる。」

 

 

 「駿河土産」の中に、著者国府氏らが朝食後、農場を馬でめぐり、南方の丘に

馬をつないで、小さな林の中で小さい神祠があってそのかたわらに古い石碣(いしぶみ)あった。『桃薗貞純親王塔』と彫ってある。そのかたわら近くに一碑を建て、鈴木氏がその由来を刻んでいる。

『古塔発見記。明治三十七年十月。余初巡視農園。距御嶽神社二町。得一大石于竹林中。抜地五寸。則令人発掘、陰々有文。桃園貞純親王塔七字。或曰此石元在神社境内。

或曰昔時有計埋塔者。今不知其何故。然至塔之為神社域中之物。復実不可争也。則更移之于茲云。明治三十八年四月鈴木藤三郎』とある。

この記述が気になって、2011年8月28日に裾野市鈴木図書館に調査に来た際に「裾野市史」に石碑の移築の記事を見つけ石碑を桃園神社裏手に現存しているのを発見したものである。

そのことは「報徳産業革命の人」に記述した。

 

 

なぜこの『柾薗貞純親王塔』碑がこの佐野の地にあるのか。

藤三郎も「今その何ゆえかを知らず」とその発見記にいう。

また誰がこの塔と称する石碑を何の目的のために建てたのか現在のところ、すべて不明である。

ただ、藤三郎がこの石碑を発見し、その発見の記録を石碑に刻んで残したというのが興趣深い。

藤三郎は森町の観音像もその由来と歌碑を石碑に刻んで、後世に残そうとした。

藤三郎の石碑に刻んで伝えようとした気持ちを、正しくそれをここに発見し、故郷の森町の方々に披露できて嬉しく、また少し安心した心持ちになった。

 

27日の鈴木農場見学会の折りに「この桃園親王はどういう人ですか?」と質問されたものだが、確たる回答ができる知識がない。

検索できる情報を以下に記しておく。

 

 

桃園神社の前が定輪寺がある。定輪寺は、弘法大師空海が開創したとされ、清和天皇の第2皇子貞純親王が桃園山定輪寺と名付け、当初は真言宗の寺であったが、永享12年(1440年)に曹洞宗に改宗した。寺は室町時代の連歌師宗祇と深い縁があり、箱根湯本で客死した連歌師宗祇の墓や句碑が置かれ、直筆の写経も伝わっている。

 

「東照宮御実紀巻一」に「かけまくもかしこき東照宮のよつて出させ給ふその源を考へ奉れば。天地ひらけはじめてより。五十あまり六つぎの御位をしろしめしたる水尾のみかど。御諱惟仁と申しき。是は文徳天皇第四の皇子。御母は染殿后藤原氏明子と聞えし。太政大臣良房の女なり。このみかどを後に清和天皇と称し奉る。天皇第六の御子を貞純親王と申す。中務卿。兵部卿、常陸大守をへ給ひ。桃園の親王と号せらる。親王の御子二人おはす。経基。経主といふ。経基王は清和のみかどの御孫にて。第六の親王の御子たるゆへ六孫王と称し奉る。此王はじめて源の氏を賜はり。筑前。伊予。但馬。美濃。武蔵。下野。信濃等を歴任し。太宰大貳。左衛門権佐。式部少輔。内蔵頭等を累任せられ。鎮守府の将軍に補し。正四位上に叙せらる。」

 

桃園親王

 

首途(かどで)八幡宮の説明に次のようにある。

「今出川通智恵光院を北へ入った西陣の一角に首途八幡宮がある。もとの名を「内野八幡宮」といい、宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられる。大内裏(御所)の北東(鬼門)に位置したことから王城鎮護の社とされた。この地は清和天皇の第六皇子であった貞純親王の邸宅・桃園宮の旧跡。邸宅は広く、庭園は池と築山を中心に周辺に桃の木が植えられ、春になると一斉に桃の花咲き、桃花祭が執り行われた桃園だったことから、貞純親王は桃園親王とも呼ばれていた。」

 貞観15年(873年)? - 延喜16年5月7日(916年6月10日))は、日本の平安時代前期の皇族。桃園親王とも呼ばれる。清和天皇の第六皇子で母は棟貞王の娘。王子に源経基、経生王がいる。経基王、経生王は共に源姓を賜り臣籍降下している。清和源氏の祖とされている。ほか、兄弟に貞保親王がいる。

 清和源氏とは、第56代陽成天皇の6番目の息子であった貞純親王から、源氏の姓を賜っている。系統的には、この貞純親王(さだすみしんのう)→ 源経基(みなもとつねもと)から、武家として流れを汲んでいるようである。






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最終更新日  2012年12月30日 18時10分29秒



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