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2014年03月07日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
 

広井勇の語る小樽築港工事

 明治三十三年三月の工学会誌第二百十七巻に「小樽築港工事」が載っている。これは土木学会付属図書館ホームページのデジタル・アーカイブスで読むことができる。原文はカタカナ書きであり、資料編ではひらがな書きにするなど現代語表記で載録した。

資料を編集し「広井勇の語る小樽築港工事」とする。

 

 小樽の地勢と土地の来歴について簡単に申し上げると、小樽は明治初年頃は一寒村でした。明治四年に開拓使が札幌に置かれると、石狩原野及び北海道の西半に対し、水陸運輸の接続を小樽港に期することになりました。これから小樽港は非常に発達して、年々人口が増え、また船舶の出入りも頻繁になり、一寒漁村は一躍一大市街となりました。明治四年から十一年の間、札幌・小樽間に道路が開通し、十三年に鉄道が敷設されました。函樽鉄道もできるような場合になり、ますます前途多望の港となりました。
 しかし、小樽の地勢は、港としては不完全な所で、地形においては多小湾形をなしていますが、東に向かって開いて、北に向かってわずかに端で覆われていますから、東から風が吹けば、港内に波が立ち、北から風が吹けば、非常の高波が港内に回って来る。ですから、物貨の積みおろしに非常な困難をきたす。年々船舶の出入りが頻繁(ひんぱん)になって来るほど、運輸事業上、損失が多くなる。それどころか、海岸は往来が途絶し、石垣は崩れ、家は流れるというような有様となる。ぜひ小樽の発達に伴う設備をしなければならない。小樽築港の事業は明治二十五年に北垣国道が道庁長官の時に、始めて調査をしました。計画を実行しようとすると、当時横浜港のコンクリートの亀裂とかその他財政の都合等によって、小樽築港の計画が延期しましたが、明治二十八年になって、まず試験工事をやろうということになりました。それで一大試験工事をやりました。ですから明治二十八年は小樽築港の初めといってもいい。
 この小樽の海の浅深は、明治四年に軍艦春日号と、イギリスの軍艦セルビヤ号という測量船が来て浅深を量ったのが初めです。続いて明治十二年にオランダ人のフワンゲンという開拓使の雇技師が小樽港の浅深を測量しました。これはやや精密なる浅深測量で、明治二十七年に最も綿密の測量をやりました。この二回の測量は十五か年を間に置いています。この両者の浅深を比較すると、海岸において、川の出口の辺りが多小埋まっているような形跡があるほか、その他ほとんど十五年の間に著しい差を認めません。そこで、将来において維持は容易であるということが分かって来ました。小樽港は深い港で、干潮以下十二尺の線は海岸を離れていることがわずかで、三百尺内外の間にあって、それより遠く、初めは十五分の一、後には二百分の一というあんばいでだんだん深くなっています。それで今、防波堤をやろうという所に至ると、四十尺の深さになり、浚渫(しゅんせつ)の必要はないくらいの深さを有しています。
 大潮干潮の差は、ごく微弱でほとんど無い。水温は最低が摂氏二度半、最高が二十六度で、北海道の北海岸にある流氷などは小樽では一切認めません。気温はずいぶん寒い方で、零以下二十五度、最高二十八度くらいになっています。海の寒暖を線を引くと、ちょうどカーブが二か所において交差しているこの両線が交差する時が、最も潜水業者が困難をする時節です。海底の地質はおもに砂で、わずかに泥が混じっている所もありますが、たいてい砂です。陸地に近い所には岩石もありますが、沖に向かって船舶の停泊する所はすべて砂です。波は東に向かってはごく高い波でも五尺ないし六尺のものです。北から参ります波は非常の高さに及んで、今まで観測した所では最高十五尺です。それは対岸が遠いためで、すなわちサイペリヤの海岸まで三百マイル余り隔っています。もしステベンソンの式が遠くまで適応するものであれば、西北の風を三百マイルに対して計算して見ると、波の高さ二十六尺になります。それが小樽港に舞い込む、その角度はおよそ九十度です。すると私どもかつて波浪に対して観測した結果によって計算すると、およそ十六尺になります。そうすると偶然かも知れませんがよく符合します。

 明治二十八年において施した試験工事は防波堤の一部分を造ったので、その目的は種々ありましたが、その結果によりますと、まず海底の載荷力は大なるもので、ちょうど幅は四間四方でその重量は六百トンありましたが、海底は少しも動きません。所によって泥の少し多い所になると、多小沈下することがあるかと思いますが、今日のところでは少しも認めません。それから波浪の圧力について実測しようと思って、ステベンソンの検圧器を取り付けたが、思うような観測はできません。随分ひどい圧力の結果は機械によって出ましたが、余り当てになりません。
 今度は、設計のことを申し上げましょう。小樽港の設計は、二つの防波堤を築きまして、被覆した面積およそ百十万坪を防波堤の内において得ようというものです。そしてその中を将来必要に応じて浚渫し、十分深さを得、海岸は適当の距離まで埋め立て、埠頭(ふとう)を数箇所に設け、大船を横付けにする。これが小樽築港の計画です。今、現在、小樽築港工事はこの防波堤一つです。これより十分設備を施して将来、大船を横付けにするようになったら、遥かに多いトン数を停泊することができます。ですから、この面積で将来、十分に余りある計算です。
 この防波堤の構造は甲乙丙の三区に分って、甲の部分は、ほんの海岸の際(きわ)、岩の上の所で、乙の部分は長さが四百二十五尺あり、砂の上に直に捨石を施して、その上をならしてコンクリート塊を左右に積み立て、その間に割栗を投げ込んで、そして一か年を経て、その上に更にコンクリートの場所積をし、この塊は十二トンの重量です。試験工事の時は八、九トンのものを用いましたが、波のために移動される恐れがありましたから、十二トンにします。それから先になると、捨石を投じて、その上をならして、塊を積み重ね、その積み重ねの方法は傾斜の積み重ね方を用いました。この角度がちょうど三分の一になっておりますから、七十一度三十四分という傾斜です。これは一方から工事をやって行きます。数か所においてかかるのではない。すべてこの端から段々押して行こうというのです。これらの塊の大きさは一番大きなのが二十三トンです。その細いのは十四トンになっています。それからこういう臍を付けて、上と下の契合とし、ここに軌鉄(きてつ)を二本ほど曲げて一番上の層は繋ぎはわずかです。そして一か年ほどを経て、その上にやはり前同様の場所詰めをやるという設計になっています。この断面は二十四尺というのは大海に向かってやる防波堤では随分小さい方で、ほとんど例のないくらい細いのです。これは大きくしておけば安全ですが、小樽港に政府から出る金でやらなければならないので、思う存分なことはできません。つまり波動の計算上ようやく許すというだけの幅にしたのです。

コンクリート塊を傾けるのは、下にもより、横にもよるというような結果を与えるためです。こういうように傾けて置くと、こっちに寄りかかっておりますから、築堤の端にあるものも、よほど取り去られません。それからこの下の捨石が沈下するに従って、このままずんずん押していき、隙ができません。これがもし水平に置いてあると分かれるような気味があります。
 この工事のやり方について、おもに話すと、すなわち人造石(コンクリート塊)をこしらえることが一番始めての仕事でして、すべての設備をその間に整えて人造石ができあがると、これが沈下にかかるのです。人造石を拵えるには、砕石及び砂利(じゃり)は一方から入り、砂とセメントとはもう一方から回転するシリンドルの中へ入って、向こうの枠の中に出ます。塊の製造はすべて、つき固めの法によっております。工場の面積は、在来少しばかりありました地所と加えて一万坪になります。荷揚げ、受取りすべてこの船入場から入って来て、工場の中でするようになっている。セメントを大船から艀(はしけ)船に積んで、工場へ持って来て上げて、倉庫の中に入れるようになっています。倉庫はおよそ一万五千樽のセメントを入れる設備になっています。砕石機械は二か所でやっています。機械は俗にゴライアスという機械で、工場の中で塊を運搬して、そうしてその端まで持っていくと台車の上に載せて、防波堤のでき上った部分の上に機関車で押して行き、その終端に達せしめる。このゴライアスすなわち軌道起重機扛力(こうりょく)は二十四トンでこれが自分で動いて持ち行くようになっていて、機械は三十トンばかりの重量です。イギリスのバッスのピット工場で製作させました。塊を下すところは、かつてマノラで使ったのと同じような仕掛けになっています。俗にタイタンと称する機械は前のゴライヤスと同じ所で製作させ、百トンあります。そして五十トンのパラストが入っています。ですから、塊を吊って、先に出したときには、ほとんど百五十トンの力で、下の塊を押込みます。汽罐車が台車で塊を押して行くため、わずかな人間より外はいりません。機関師が一人、火焚(ひたき)、油差しが各一人、下に人足が二人、潜水者二ないし三人いれば十分です。最も困難なのは海底の捨石をならすことです。これが一番費用も余計かかりますし、仕事が難儀です。

この塊におけるセメントの配合はセメント一、砂二、砂利砕石四という割合でやっています。すべてただいまご覧に入れたようなぐあいに混合するのは、機械ですが、つき固めるのは、人力によっています。このつき固め法をよく励行し、英国の諸港でやっているような流込みは一つもやっていません。試験上、突き固めの法によらなければならないということを確認しましたから、最も厳しくやっています。配合は試験の結果、セメント一、砂二というのが非常の好結果を与える配合で、また、ヨーロッパの諸港において経験したところからも見ても、一番よく海水に耐える配合であると認めました。これはセメントも余計いりますから、工事に取りましてはなかなか困難ですが、励行しています。セメントは九分通り浅野セメントを用いています。私ども今日まで試験をしたところでは、日本のセメントは海水に耐えるものはわずかです。試験して合格さえすれば整式は問いません。その中で浅野がまず、好結果を示したので、今日まで多くこのセメントを用いています。

総経費は二百十八万円です。そして工事防波堤一本だけです。この端には鉄製の灯台を設けるような計画です。これは総経費の中に入っています。

工事の着手は明治三十年五月で、ようやく三か年に近い工程を示しています。その防波堤の延長は九百尺で、まず後と七年余り明治三十九年に落成するはずです。北海道の工事は年中セメントを使うわけにはいきません。僅かに四月の末から十一月の初めまでの間に、すべて大体の作業を終らなくてはならない。冬になると、僅かに捨石をならしたり、塊の残っているのを入れるくらいの仕事です。それも天気がごく悪い方が多いからできない方が多い。

本工事は我が国未曾有の工事で、これが満足にできれば、私ども当事者の幸いとするところです。今日現在、工事に従事しています者は、調査以来続いてやっている人で、北海道庁技師青木政徳氏です。







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最終更新日  2014年03月07日 07時03分51秒
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