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2014年03月15日
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報徳記 巻の1【1】 二宮先生幼時艱難事跡の大略

ここに二宮金次郎尊徳先生の実跡を尋ねるに、歳月が久しくたってその詳細を知ることができない。

かつ先生は謙遜(けんそん)であって自己の功績を説かれることがなかった。いささか村人(むらびと)の口伝えに残っていても、万が一にも及ばない。また、田舎の人の口伝えでどうして先生の大志や深遠のまごころを察する事ができようか。いささか普通の人と異なっているところを唱えるのみである。また、どうしてその深理・実業を見るに足りようか。しかしながらこれを記(しる)さないならば、いよいよその才徳や功業は隠滅し、漠然(ばくぜん)として、誰が先生が幼少の時から人と異なった志が群を抜いていた行ないを知ることができよう。これは嘆くべき限りではないか。このゆえにやむを得ず、村人の口伝えに基づいて、ここに筆をとってその概略を記(しる)してみる。

先生の姓は平(たいら)、名は尊徳、通称金次郎(「金治郎」が正しいとされる)、その先祖は曽我(そが)氏に出る。二宮はその氏である。同じく二宮と称する者は、相模(さがみ)の国栢山村(かやまむら:神奈川県小田原市栢山)におよそ八戸ある。皆その氏族であるという。父は二宮利右衛門(りえもん)、母は曽我別所村の川窪某(川久保太兵衛)の娘(名前は「よし」)である。祖父の銀右衛門(ぎんえもん)は常に節倹を守って家業に力を尽くし、すこぶる富裕となった。父の利右衛門(りえもん)の世になって、村人は皆これを善人と称した。民の求めに応じて、あるいは施し、あるいは貸し与え、数年で家産を減らして、財産をすべて散じて貧乏が極ってしまった。そうであったが、その貧苦に安んじて、あえて昔、施したり貸したりしたことの報いを受けようと思わなかった。この時にあたって先生が生まれた。実に天明七年(一七八七)七月二三日である。次子を三郎左衛門(幼名は友吉)、その次を富次郎という。父母は貧困の中に三人の男の子を養育して、その艱苦は言葉で尽くすことはできなかった。

ときに寛政三年(一七九一)、先生が五歳の時、酒匂川(さかわがわ)が洪水し、大口(おおぐち)の堤防を破って数ヶ村が流亡した。この時、利右衛門の田んぼも一畝(ひとせ)も残らず、ことごとく石河原(いしがわら)となった。もとから赤貧であり、加えるにこの水害にあって、艱難(かんなん)はいよいよ迫って、三人の子を養うのに力を労すること幾千万、先生は終身、話しがこの事に及ぶと必ず涙を流されて、父母の大恩の無量なることを言われた。聞く者は皆、このために涙を流した。

ある年(寛政十年)、父は病気にかかった。極貧で薬代に当てるべきものは無かった。やむを得ず田地を売って金二両を得た。利右衛門は病気が治ってから、ため息をついて言った。「貧富は時にして免れがたいといっても、田地は祖先から受け継いだ田地である。私が病気を治すためにこれを減らすことは、どうして不孝の罪を免れることができよう。しかしながら医薬の代金を払わないわけにはいかない」と。大きくため息をついて医者のもとに行って二両を出してその労を謝した。医師某(村田道仙)は眉をひそめて言った。「あなたの家は極めて貧乏である。何によってこの代金を得たのか。」利右衛門は答えて言った。「誠に私が赤貧であることは、あなたの言うとおりだ。しかし、家が貧しいために治療の恩を謝することができなければどうして世に立つことができよう。あなたがこれを問うのに本当のことを告げなければ、あなたの心もまた安らかでないだろう。貧困が極っているといえども、まだ少しの田地があり、これを売って謝礼とするのです。あなたが心配することはありません。」医師は愁然(しゅうぜん)として涙を流して言った。「私はあなたの謝礼を得なくとも飢渇には及ばない。あなたは家田を失っていったんの義理を立て、後日どうやって妻子を養おうというのか。私はあなたの病気を治して、かえってその艱苦を増すのを見るに忍びない。すぐにその金で田地を買い戻しなさい。私への代金を払うために労してはなりません。」利右衛門は許さなかった。医者は言った。「あなたは辞してはならない。貧富は車のようなものだ。あなたは今、貧しくても、いつの日か富む時がこないとはわからない。もし家が富む時になってから、この謝礼をなすのであれば私もこころよくこれを受けよう。何の子細(しさい)があろうか」と。

ここにおいて利右衛門も大変感激して三拝してその言葉に随うこととし、強いてその半金をもって謝礼とし、その半金を持って帰った。先生は、父の病気の後の歩行を心配して、その帰りの遅いことを憂慮して、門に出て、これを待っていた。利右衛門は医者の義言を悦んで両手を舞うようにして歩いて来た。先生は迎えて言った。「何を喜ばれてそのようになさっているのですか。」父は言った。「医者の慈言はこのようであった。私はおまえたちを養育することができる。これをもって喜びにたえないのだ」と。

父は酒を好んだ。先生は幼くして、わらじを作って、日々一合の酒を求めて夜な夜なこれを進めた。

父はこの孝行の志を喜ぶこと限りなかった。

時に寛政一二年(一八〇〇)先生十四、父利右衛門は大病となり日々に衰弱していった。母と子はこれを嘆いて昼夜看病を怠らなかった。家産を尽くしてその治療を求め、鬼神に祈り精魂の限りを尽くした。しかしながら運命であろうか、ついに同年九月二十六日没した。母と子が悲嘆慟哭(どうこく)は、はなはだしく、村人は皆このために涙を流した。

母は先生に言った。「なんじと友吉(三郎左衛門)とは私がどのようにも養いとげよう、末子(ばっし)までは力が及ばない。三子ともに養おうとすれば皆共に飢えてしまうだけだ。」

これにおいて末子を携えて縁者(母よしの弟、奥津甚左衛門)に行って慈愛を請うた。奥津甚左衛門はその委託を受けてこれを養った。母は悦んで家に帰って二子に告げて、ともに艱苦(かんく)をしのごうとした。母は寝たが、夜通し寝ることができず、毎夜涙を流して枕をうるおした。先生は怪訝に思って母に問うた。「毎夜寝ていらっしゃらないのは何のためでしょうか。」母は言った。「末子を縁家に託してから私の乳が張って痛苦のために寝ることができない。数日を経るならばこの憂いはなくなるでしょう、お前が心労することはありません」と。言い終らないうちに涙がさんさんと降り落ちた。先生はその慈愛が深い事を察して泣いて言った。「前にはお母さんの命に随って末子を他に託しました。思うに赤ん坊一人あってもどれほど艱苦を増しましょう。明日から私は山に往って、たきぎを伐(き)ってこれを売って末子の養育をいたしましょう。すぐに彼を戻してください。」母はこの言葉を聞いて大変喜んで「おまえがそう言ってくれるのは本当に幸いだ。今から直ちにかの家に行って取り戻して来よう」と、すぐに起きて行こうとした。先生はこれを止めて言った。

「夜、今、子〔ね・夜の十二時〕に及んでいます。夜が明けたら私が行って抱いて来ましょう、夜半(やはん)の往返(おうへん)はどうか思いとどまってください。」母は言った。「お前は幼いのになお末弟を養おうと言ってくれる。夜半の往返をどうして厭(いと)おうか」と そでを払って隣村の縁家に行って、ことの次第を告げて末子を抱いて家に帰り、母子四人共に喜ぶこと限りなかった。

これから鶏鳴(けいめい)に起きて遠くの山(久野山・矢佐柴山などの栢山の箱根外輪の入会山)に行って、柴(しば)を刈(か)り、たきぎを伐(き)り、これを売り、夜は縄をなってわらじを作り、寸陰を惜しんで身を労し、心を尽して、母の心を安らかにし、二人の弟を養うことのみ労苦した。そして薪(たきぎ)を採(と)る往き帰りにも「大学」の書をふところにして途中歩みながらこれを暗誦し、少しも怠ることがなかった。これが先生の聖賢の学の初めである。歩きながら大声でこれを誦読するために、人々のなかには怪訝(けげん)に思って狂った子だと見なす者もあった。

ある年(享和二年、先生十六歳)の正月、土地の風習で大神楽(だいかぐら)というものが家々をまわって一曲を舞って正月の祝いをした。家々は百銅(百文)を出して舞ってもらった。舞わせなければ十二銅(十二文)を与えて去らせた。時に大神楽が近隣に来た。母は驚いて言った。「大神楽が来た。何をもってこれに与えよう。」先生が言った。「わずか十二文あればいいのです」と。そこで家の内をことごとく捜索したが一銭も得ることができなかった。母は言った。「神棚(かみだな)にあるのではなかろうか」先生はまたこれを探したがなかった。母は大変これを憂えた。先生は言った。「家が貧しいからといって村の中の一戸です。大神楽が来て、わずかに十二文がないといっても、どうしてこれを信じましょう。家を挙げて田に行って一人もいないまねをして去らせるより他にはありますまい。」母は言った。「おまえの計りごとに随ってみましょう」と。

すぐに戸を閉じて息をしないようにして伏せた。間もなく大神楽(だいかぐら)が来て、寿(ことぶき)を呼んだが戸を閉じて寂寥(せきりょう)として声がない。ここにおいて大神楽は去って隣家に行った。母と子は始めて心が安堵(あんど)する思いがした。この一事をもっても艱苦・辛労を推して知ることができよう。

小田原酒匂川(さかわがわ)は、その源は富士山のもとから流出し、数十里を経て小田原にいたって海に達する。急流激波で洪水ごとに砂や石を流し、堤防を破って、ややもすると田んぼを推し流し、民家を壊していった。年々、洪水防止のための堤防作りの土木工事がやむことがなかった。このために村民は戸ごとに一人ずつ出してこの役に当った。先生は十二歳の年からこの役に出て勤めた。しかしながら年が幼くして力が足らない。一人の役に当るに足らなかった。天を仰いで嘆いて言った。「私は力が足らず、一家の勤めに当たるに足りない、願わくば速やかに成人にならしめたまえ」と。また家に帰って思った。「人々は私が父無し子で貧しいことを憐れみ、一人の役に当たるとしているが、私の心においてどうしてそれに安んずる事ができよう。いたずらに力の不足を憂えても仕方がない、他の労をもってこれを補わないではいられない」と。そこで夜半になるまで草鞋(わらじ)を作り、翌日の未明、人より先に工事の場所に来て、人々に言った。「私は若年で一人の役にも足りません。他の力を借りてこれを勤めています。その恩を報ずる道を求めましたが得ることができません。寸志ではありますが、わらじを作って持って来ました。日々、私の力の不足を補ってくれる人に答えたいのです」と言った。人々はその志の常ではないことをほめ、これを愛し、そのわらじを受け取ってその力を助けた。役夫が休んでも休まず、終日一生懸命に勤めた。このために幼年といっても怠らないために土石の運ぶことはかえって人々の右に出るほどだった。人は皆このことを感心した。

 時に享和二年(一八〇二)、先生年十六歳の時、母が病気にかかり、日々におもくなり、先生は大変これを嘆いて、天に祈り地に祈った。心力を尽してその治癒を求め、日夜帯を解かずその側を離れず、看病に手を尽した。しかしその甲斐(かい)もなく、病むこと十何日かに亡くなった。先生の慟哭(どうこく)・悲痛は、ほとんど身体をそこなうほどであった。家財は既に尽きてしまい、田地もまたことごとく他人のものとなった。残ったものはただ空家だけだった。二人の弟をかかえて泣いて悲しむだけでなすところを知らなかった。親族会議が開かれて言った。「三人の男子は幼く養育する者はいない。このまま家にいるとどうしてその飢渇をしのぐことができよう。親族に託して後年を待つのがよかろう」と。近親の万兵衛という者が先生を家に招いてこれを養い、弟の友吉(三郎左衛門)と末子とは曽我別所村の川窪某がこれを養った。

 






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最終更新日  2014年03月15日 04時05分36秒



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