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2014年09月02日
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3 岸右衛門について
「中村氏岸右衛門問答聞書」が『近世の村と生活文化』大藤修著p.131に紹介されている。
「谷田部藩が尊徳仕法を導入した発端は、野州芳賀郡中里村の出身で、江戸に医術の修業に出ていた中村元順が、親族の桜町領物井村の百姓岸右衛門から、尊徳仕法のことを伝聞したことにある。玄順は、自らが借財に苦しんでいたことから、これに関心を持ち、岸右衛門に仕法金拝借を尊徳に懇願してくれるよう依頼した。これに対し、岸右衛門は『そこもとが借財に苦しんでいるには、財を施すことはさて置き、草の根木の皮のたぐいにて薬代を貪り、その身を富ますことしか念頭にないため、世間の人々に人徳を慕われることがなく、したがって医者の家業も不振にならざるをえないからだ』と批判した。そして、『自分もかつては、自分の利益しか考えなかったが、二宮様よりご教諭を受け、他人の生活が成り立つよう献身してこそ、自己の家業も安泰を保てる』ということを悟り、『ただただ大勢を助ける道につき自分のことは暮らし方の内を取り縮めて、冥加のために無給にて』二宮様の手足となって働いているのだと話して聞かせた。この岸右衛門の話には、尊徳の教諭によって、農民がどのように精神変革を遂げたかがよく示されていよう。」(太字・傍線は編者、以下同じ)。
 岸右衛門は、八、九年は二宮尊徳の教諭が分らなかったと告白する。次第に恩徳に報いることが第一であるとの明暮のご教諭が心魂に徹し、「難有」(ありがたし)と自分から進んで随身し、自弁で江戸に出てその事業をお手伝いしているという。
内山稔氏は言う。「尊徳の生涯と事業、あるいはさらにその精神を知るには、彼の高弟富田高慶が熱誠をこめて綴った伝記『報徳記』にしくものはない」「『報徳記』を読んで感動しない者は、たとえ他にどんなにたくさん解説書・研究書を読んでも、尊徳の精神、尊徳の事業を正しく理解することはできないし、その神髄に迫ることはできないであろう。内村鑑三はこの本を読んでいたく心を打たれたので、尊徳を『代表的日本人』の一人として海外に紹介し、また、尊徳の精神と事業とを『後世への最大遺物』の一つに加えたのであった。」(「尊徳の実践経済倫理」p.139)
 内村鑑三は「諸君はまず善人となるべし、至誠の人となるべし。二宮先生の根本とするところは道徳なるが故に諸君も必ずまず道徳的大変化大復興起こらざるべからず」と言う(「予が見たる二宮尊徳翁」BBA1-66)。
岸右衛門の「精神変革」は、まさに内村のいう「道徳的大変化大復興起こらざるべからず」を体現している。報徳は「精神変革」の思想である。報徳思想を真に継承しようという人間は、「必ずまず道徳的に大変化・大復興」が起こらなければならないのである。
岸右衛門の人脈や行動力は尋常ではない。
岸右衛門の不二孝仲間の頭領的役割を指摘されたのは、岡田博氏である。『二宮尊徳政道論序説』の「桜町領仕法と不二孝仲間」で、文政十年三月一五日「夜峯右衛門不二孝聞に行」、翌一六日「岸右衛門方夜に入り行、富士こう聞。」とある。岡田氏は一五日の「峯右衛門」も「岸右衛門」であろうとされている。(「序説」p.125)
 文政一一年八月七日二宮尊徳夫人波が子供二人と不二孝仲間五人と宇都宮にいた不二孝指導者小谷三志に会いに行く。不二孝仲間として筆頭で挙げられるのが岸右衛門で、物井の不二孝仲間の中心であった。八月一八日『金銭出納帳』に左の文がある。
「一八日銭六八七文相渡す 右不二孝仲間岸右衛門、金兵衛、伴治、澤治、清右衛門、弥七、利右衛門、藤蔵、政吉、清左衛門三軒の内にて入用」(『序説』p.126)
 文政一二年の尊徳失踪事件で、二月二五日物井村村民が「内々江戸表罷出」、三月一八日一四人が江戸表へ出て、「仕法」復活を宇津氏に願い、「御聞届」となり、豊田正作は召還される。一四人組の頭領が岸右衛門で物井七人全て不二孝仲間である(『序説』p.127)。
また「不二孝仲間米穀商と下野米価対策」では、文政五年、二宮先生が桜町着任後初めての蔵米と大豆、えごまの入札が行われた。その落札価格は低く、先生は対策を講じた。先生自らが米商人となり、配下の商人を組織化した。この構想に共感し集まった商人がいた。水海道の鍵屋勘兵衛、宇都宮の柴田屋平八、釜屋嘉右衛門。下館の桐屋新兵衛、常陸国井上村の柴兵衛門、同下高田村の大山太助たちで、これらの商人は皆不二孝の三志の門下であると指摘される。彼らは桜町の領民から物井村峯高七郎治などの優れた米商人を育てた。(『序説』p.128)。
大藤修氏は「村や町さらには領域を越えて連携していた不二孝仲間が、尊徳仕法が関東一円に広まった際にその手足となって働き、米麦ほかの物資の大量調達、経済情報の収集・提供、仕法資金の活用増殖などに大きな役割を果たしていたことを解明された岡田博氏の研究も、尊徳仕法の広域的展開を支えた社会的基礎の一端を明らかにされた点で貴重である」とする(『近世の村と生活文化』p.57)。
桜町の報徳仕法を支えた中心の一人が岸右衛門である。そして報徳の教えにより「精神変革を遂げた」人間は、いかに実践すべきかということをも、後世に教えるものである。





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最終更新日  2014年09月03日 01時26分40秒



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