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2014年11月21日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
「ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集」が酪農学園大学図書館の蔵書となった。

調べてみると、黒澤酉蔵という人と縁が深い大学である。

黒澤酉蔵とはどのような人物か。



黒沢酉蔵は、1885(明治18)年に茨城県久慈郡世矢村(常陸太田市)の農家に生まれる。尋常小学校4年を終えると家業を継ぐこととなる。酉蔵10歳の時である。しかし、勉学は続け近所の漢学塾や近村の義塾に通っていた。義塾が閉鎖されると勉学の志を抱き上京する。家に迷惑をかけることができないことから交通費と生活資金をアルバイトで稼いでの旅立ちであった。酉蔵15歳の時であった。



田中正造との出会い

 明治34(1905)年、代議士・田中正造が足尾銅山の鉱毒に苦しむ農民の苦しい境遇を明治天皇に直訴しました。酉蔵はその行為に感動し、会ってみたい一心で田中を訪ねました。突然のことでしたが、田中は酉蔵に会い事件の話をしてくれました。

 酉蔵は後に田中正造の人柄について、色白で、好々爺然としており、温顔まことに慈父のような印象である。正義感と切々たる人間愛を持った人物であったと述べています。酉蔵は、正造の「健土健民」思想を実践するために北海道に渡るのです。後に、酉蔵は「健土健民」(健やかな土地には健やかな民族がある)を理念に掲げますが、その思想は正造から受け継いだものだと語っています。

宇都宮仙太郎との出会い

 明治38(1905)年の夏、酉蔵18歳の時、札幌郊外白石村(札幌市白石区)にある宇都宮農場を訪ね「農場で働きたい」と訴えます。

 農場主の宇都宮仙太郎は、大臣になる夢を断ち、酪農をめざして北海道に渡った。その後、アメリカで研鑽を重ね、明治23年に帰朝して北海道で搾乳業をはじめた。製造したバターが札幌在住のお雇い外人の評判になり、ようやく事業が軌道に乗ったところだった。

 仙太郎は酉蔵を雇い入れることに決めた。

「牛飼いには三つの“徳”がある。役人に頭を下げなくてもよい。
牛には嘘をつかなくてもよい。
そのうえ、牛乳は人を健康にする」
と説いて聞かせた。酉蔵はその言葉を胸に刻んだ。その後、独立した酉蔵は朝3時に起きて夜の10時まで目一杯働き、経営を支えたのであった。

組合を設立

 大正12年、関東大震災の救援物資として、アメリカから大量に練乳が入ってきた。それにまして、輸入関税が撤廃され、乳製品がどんどん入ってくる。北海道の練乳会社は困って、酪農家から牛乳を買うわけにいかず、受け入れを制限した。そこで酉蔵は札幌酪農組合で「練乳会社の言いなりになっているようでは酪農の将来がない。どんな場合でも牛乳の受け入れ制限のない処理機関を自分たちの手で共同して作ろう。例えば、バターもクリームも自分たちで作って売る…」と主張した。

4コマ・マンガ「ガマくんとローズくん」
 大正14年5月17日、札幌市石狩支庁で画期的な組合創立の総会が開かれた。総会は満場一致で賛成。こうして産業組合法による「有限責任北海道製酪販売組合」(のちの雪印乳業)が誕生。出資金を出し合い、最初は仮工場で製造していたが、品質に問題があった。大正15年3月、「保証責任北海道製酪販売組合連合会」(酪連)に組織を改正し、札幌市苗穂に本工場を建設。操業を開始したのは、大正15年10月1日。最新式の乳製品製造機器を備えた工場であった。

乳製品の普及に尽力

 工場で製品が作られると、次は販売である。酉蔵は販路の確保・拡大と市場調査をかねて、全国を回った。この調査結果からも品質を向上することはもちろん、商標を決めたり、冷蔵庫などを使うことが急ぎの課題となった。品質の向上は大正15年に建てた新工場で見通しが立ち、ブランドイメージは「雪印」を商標として、対策を図ることとした。

 その後、酉蔵は、昭和9年に「酪連」の会長に就任すると「雪印」を全国ブランドにするとともに、北海道産バターの品質の向上を図り、海外に輸出するまでになる。 昭和7年、チーズの製造販売を開始。昭和8年,アイスクリーム工場を建設。以後、アイスクリームは急速に普及するのであった。


酪農の発展に生涯を捧げる

 酪農の発展に貢献してきた酉蔵であったが、昭和23年に自らが改正した「北海道酪農協同株式会社」が経済力集中排除法の該当会社に指定され、雪印乳業と北海道バターに分割されると雪印乳業の相談役に就任し、実務に追われる生活から解放される。また、酉蔵は酪農業の発展だけではなく、人材育成の面にも力を入れている。昭和8年に社団法人「北海道酪農義塾」を設立。のちに「酪農義塾」は昭和17年に甲種農業学校の「野幌機農学校」(戦後は野幌機農高校)に発展する。 戦後は「三愛女子高等学校」「酪農学園短期大学」「酪農学園大学」などを設立。晩年は「酪農こそ農業の最高の形態である」をモットーに酪農学園などで青年たちと酪農の真のあり方について語り合った。

 「長寿自成」、長寿は自ら“成る”のではなく、自ら“成す”のである。むろん天寿はあろう。しかし,生命は神から授かったものとあきらめず、一年でも一月でも一日でも「延ばす」つもりで生きねばならない。

 酪農に全てを捧げた人黒沢酉蔵 98歳の人生である。

出典・参考資料

「私の履歴史 黒沢酉蔵」





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最終更新日  2014年11月22日 04時05分51秒
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