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2014年11月22日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
キリスト教の伝道師として見たるウィリアム・S・クラーク先生(一九二六年七月三十日、軽井沢「日本人教会」における講演の抜粋)  
イエス、彼らに言いけるに、聖書に家造りの捨てた石は家の隅のかしら石となれり これ主のなしたまえる事にして、われらの目に不思議とするところなりとしるされしをいまだ読まざるか(マタイ伝21・42)。
クラーク先生が北海道の札幌において、キリスト教の伝道上、大効果を挙げたという事は、実に大なる不思議であります。先生の故国において、先生をよく知りし者は、先生よりかかる事を決して望みませんでした。先生が誠実なるキリスト信者でありしことは、よく知れわたりました。しかし宗教は先生の本領ではありませんでした。先生は始めに鉱物学者でありました。後に植物学者でした。事業家でありました。勇敢なる軍人でありました。この人が伝道上の功績を挙げようとは、先生の知人、友人は少しも期待しませんでした。ゆえに先生が札幌において、身は日本政府の御雇い教師にありしにかかわらず、職業的宣教師がとてもなすあたわざる伝道的事績を挙げたと聞いて、先生を知る者はみな驚いて言うたのであります。『なんだ、あのクラークが』と。私は故新島襄君が同一の語気をもって先生について語るのを聞きました。先生の伝道上の事業は今になお、宣教師間に解しがたき不可思議の一としてのこるのであります。この天然学者が、軍人が、実業教育家が、日本に上陸するや否や、直ちに聖書会社に行いて、五十冊の英語聖書を買い求めたり(注1)というがごとき、開拓使長官黒田清隆公に倫理教育の方針を問われし時に、「余の道徳と言えばキリスト教である。余に倫理道徳を教えようと言うならば、キリスト教を教うるよりほかに途がない。余にもしキリスト教を教うるなかれと言うならば、倫理を教えよと命ずるなかれ」と断言せしがごとく、そしてついに内密の許可を得て学生間に伝道を開始せしや、札幌在留八ヶ月間、一日も怠らざりしがごとき、実に大伝道者のなすことであって、かかる大胆なる信仰の証明は、世界の伝道史上、ただまれに聞くところであります。そしてこの勇敢なる証明が報いられて、彼は僅々八ヵ月にして、日本の国土に深くキリストの福音を植え付くるの器と成ったのであります。ここに宣教師ならざる一平信徒が、宣教師も及ばざる事蹟を挙げたのであります。実に大なる不思議であります。そしてクラーク先生がよくこの事を知っておられました。前に掲げし聖書の一句が、先生の特愛の聖句でありました。「これ主のなしたまえる事にして、われらの目に不思議とするところなり」と。先生も、自身のなされし事に驚いたのであります。日本においてかかる事をなし得ようとは、先生自身が期待しなかったと思います。私は思います、先生を運びし汽船が太平洋を横断して日本の岸に近づきし時に、先生は急に伝道心を起こしたのであろうと。不思議なる能力が先生に加わり、先生を駆って有力なる伝道師となしたのであろうと。先生の場合においても、多くの他の偉人の場合におけるがごとくに、
 彼は彼の計画以上に築き上げたり
との言が事実となりて現われたのであると信じます。ゆえに、事成りて後に、背後(うしろ)を顧みて、先生もまた言うたに相違ありません。エホバよ、栄光をわれらに帰するなかれ。なんじのあわれみと、なんじのまことのゆえによりて、ただ御名にのみ帰したまえ(詩編115・1)と。(略)
 この事が何を示すかというに、神が信仰を起こさんと欲したもう時に必ずしも教会または教職に由りたまわないということを示します。キリスト教の歴史において、今日まで幾たびも繰り返された事実であります。教職ならぬ者が教職以上の功績を挙げたのであります。預言者アモス、使徒パウロ、詩人ミルトン、貴族トルストイ、これらはその著しき例であります。そして日本国の伝道史上においても同じ事がおこなわれたのであります。日本国のキリスト教は主として職業的宣教師に由らず、平信徒に由りて、しかも日本人招聘の外国平信徒に由りて行われたということは、実に感謝すべきであります。ゆえに、これは直ちに神より賜わりし日本人のキリスト教であります。その点において、日本はシナ、インドと違います。シナ、インドのキリスト教は外国宣教師に由りて伝えられ、彼らに由りて維持せらるるキリスト教であります。ゆえに、もし宣教師が皆、今日直ちに日本を引き上ぐるとも、日本におけるキリスト教は滅びません。そは、これ日本人のキリスト教であるがゆえであります。
 日本におけるキリスト教の歴史を考えて見ますると、実に不思議に堪えません。神は思いがけなき時と所とに、思いがけなき人を送りて、教会の臭味なき福音を伝えしめたまいました。日本は昔より特別の国でありまして、そのキリスト教歴史もまた特別であります。そしてこれただに日本のためにのみしかるのではありません。世界人類のためにしかるのであります。神は日本をもって世界に彼の聖意をおこなわんと欲したもうがゆえに、特別の摂理の下に日本を置きたもうたのであると信じます。それゆえに私どもは、どんな事が臨んでも、日本について失望しないのであります。日本の今日に悲観すべき事が多くあります。政治の腐敗、思想の悪化、宗教の混乱、いずれも悲観の材料たらざるはありません。されども神はいましたまいます。クラーク先生を札幌に送りし神は、また、適当なる時と所とに適当なる人をつかわし、また起こしたまいて、日本にかかわるその善き聖意をおこないたもうと信じます。
 そして私ごとき者もまた、神のその聖意の一部分をおこなわんがために彼に使わるるにすぎません。私はクラーク先生の遺されし福音に接して初めて信仰を起こしたものですが、しかしクラーク先生の直弟子ではありません。私は米国において先生を二、三回、その家に訪(おとな)いましたが、先生と私とは師弟の関係に入らずして終わりました。しかるに神の聖意に由り、私が、先生の伝えし福音も最も広く日本に伝うるの役目を務むるに至りました。先生は私以上の多くの善き弟子を日本において持たれました。そして、そのいずれもが立派なる人物でありまして、それぞれの専門をもって、わが国の文化に多大の貢献をなしました。しかるに聖書知識の普及、福音伝播の職務は不肖私の上に落ちました。これは私が自ら進んで選んだ職務ではありません。やむを得ざるに出でたのであります。もしクラーク先生が自らその後継者を指定せられたならば、決して私を指定されなかったと信じます。たぶん、教会や伝道会社が先生の伝道を喜んで見なかったように、先生ご自身が私の伝道を喜びたまわなかったと思います。しかし先生の場合におけるがごとくに、私の場合において、やむを得ないのであります。神に余儀なくせられたのであります。内外の事情が、私をしてこの任に当たるべくなさしめたのであります。私もまたパウロのごとく、キリストに捕えられたのであります。(ピリピ書3・13)
 伝道上のこの事実をわきまえずして、伝道師の動機いかん、人物の大小を批評する者は、正当の批評をなし得ないにきまっています。「なんだ、あのクラークが」、「なんだ、あのジェームスが」、「なんだ、あの内村が、きゃつに何ができるものか」。しかり、「きゃつ」に何もでき得ない。されども神が「彼」を使いたもう時には、どんなえらい事でもできる。パウロ何者ぞ。クラーク何者ぞ。ただ神の器である。そして神に使われて、土器も金銀の器具のなすあたわざる事ができる。ここにおいてか伝道の事について伝道者の人物を批評するがごとき愚かなる事のないことがわかります。クラーク先生の名誉は、喜んで神に使われて、その命を果たしたにとどまります。そして人類の名誉として実はこれ以上の名誉はありません。家造りの捨てたる石は家の隅のかしら石となれり。これ主のなしたまえる事にして不思議でありません。神はかくのごとくにして、常に世を救いたもうのであります。(1926年10月『聖書之研究』)
(注1)クラークは妻あての手紙(1876.7.23)で横浜でギュリック博士から「札幌の生徒用にと英語聖書三十冊」の寄贈を受けたと記す。弟あての手紙(1876.8.5)で「横浜のギュリック博士から英語聖書三十冊を手に入れました。そして私はこれらの聖書を農学校に教科書として導入することを試みるつもりです」と記す。(「クラークの一年」太田雄三p63,87)
(注2)クラークと黒田の石狩川を上る旅(1876.8.7-11)で、聖書を札幌農学校で教える可否の話がされ、約一月後黒田が認めた。これが「内村鑑三などに非常にゆがめられて伝えられ玄武丸事件になった」とある(前掲書107)。


札幌農学校における聖書使用の許可(北大百年史p265-267)                                   
Capt. Wm. B. Churchill;         Sapporo,Hokkaido.1st Nov.19, 1876.
 My dear Brother: ・・・To-morrow morning I propose to begin the College Exercises by reading from the Bible and repeating with the students the Lord’s Prayer. To-day they could all repeat correctly the first seventeen verses of the 20th chapter of Exodus. Thus in the Sapporo Agricultural college the Bible has become a textbook, though forbidden by law in all schools and Colleges under the control of the Japanese government.・・・While traveling with him last summer I conversed with him freely about religion and finally asked leave to use the Bible in the College. He answered that personally he had no objection, but he must forbid it on account of the law and the opinions of the high officials. ・・・He said I could teach its truths to the students, but must not read it publicly nor give them copies for private use. I answered that I was very sorry, for I had thirdly copies, but that I would obey orders. About a month after this he set for me and wished me to teach the students good morals, I replied I could not without constant reference to the Bible and I feared I should give offence. The next day he told me he would withdraw his prohibition in regard to the Bible and I could do as I chose. So I decided to distribute the books and make them useful.・・・
Most truly, Your affect, Brother,    W.S.Clark





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最終更新日  2014年11月22日 21時12分36秒
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