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2015年08月23日
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カテゴリ:鈴木藤三郎
 余の理想の人物 鈴木藤三郎(「人格の修養」『実業の日本』十巻一号所収・読みやすくするため現代表記に改めた)
 お恥ずかしい話ですが、私は明治九年二十二歳になるまで理想などということは少しももたなかった。その時までは極めて単純の生活をしていたのである。八歳の時より十二歳まで寺子屋に通学の時は、いつも先生からほめられていたが、父はほめられるだけに心配して菓子屋の子に学問は不必要だといって、十三の春から家業を手伝い、隔日に荷を持って近所に商っていた。私は勝気の性質で、朝は暗いうちに起きて夜の明けぬ前に一、二里くらいを歩かなければ承知ができず、終日の奔走でくたびれたために、夜が明けて後にめざめるときは終日商いに出かけなかった。この時までは頭はボンヤリとして運動する機械のようでいたが、十九の時にふと想いついたことがある。自分は菓子の商いをしているが、今後どうなるのであるか。近所の人を見れば、だんなと尊ばれている人もいるが、菓子商いなどをしていては、いくらたっても発達の見込みがない。だんなといわれる人はみな金を貯めた人であるから、自分も大いに金を作らねばならぬ。当時、製茶は横浜市場の主な輸出品で、遠州は茶の産地だけに、私の郷里森町でも富者(かねもち)となった人は茶商に多かったので、私も富者となるには茶商となるほかなしと決心し、父に相談したところ、茶商は十か年ぐらいは小僧で見習いしなければならないのに、中途から従事しても無理であるといって最初は聴かなかったが、私の決心が固かったので、いくらかの資本を他から借りてくれ、私は菓子業に関係なく、独立して茶業に従事していた。最初の一年は見習いに過ぎなかったが、二年目からは各地方に出かけ、四日市、豊橋等にまで行って買い集め、これを横浜に送っていた。
茶の鑑定その他の事が一とおり了解でき、相当の利益もあったが、二十二歳の正月に実家へ年始に行ったところが、二宮という本があった。何のことかと聞くと二宮尊徳先生のお説を書いたものだという。私も報徳ということは聞いていたが、実は単に金をケチに貯めるとか、朝は早く起きることということに止まり、その教えが本になっているとは思わなかった。これを借りて帰って読んでみるととても面白い。その大体はこうである。人はなぜこの世に生まれてきたのであるか。どうして生きるのであるか。金銭も名誉も、その目的とするものではない。人は国家社会のためにその利益を増進する仕事をなすべきものである。過去の人がなしておくことを今の人は更に増殖し、これを後世の子孫に伝え、もって国家社会の利益を増進する。言いかえれば、代々の人はその消費するよりも以上の仕事をして、前人から受け継いだほかに更に増して子孫に伝える。何事もしないで先人のことを後人に伝えるは恩義の賊である。人間は個々としては生れたり死んだりするが、大体よりいえば人間は生きているのである。この目的は一人ではできない。また一代二代でできるものでもない。すべての人間がこの目的に向かって勤労する。その個人が分担して行うのが各自の職務である。職務は人の賢愚によって異なってはいるが、国家社会を利するという大目的に比べると同一であり、その間に上下尊卑の区別があるべきはずがない。ただ自分の職務とするところを遺憾(いかん)なく尽して明らかにすべきである。いわゆる天地の秘をも発(あば)くべきである。これが人生の大目的で、また人が禽獣(きんじゅう:鳥やけもの)と異なる理由である。
この人生の大目的の一分を達するために、各人はその職務に全力を傾注するときは、たとえ自己の利益、栄達を主としていても、これらはその職務の遂行にともなっておのずから発達して来るものである。この主義を服膺(ふくよう)する間に、自ら自己も発達することができるという意味である。
この書を読んで私は豁然(かつぜん)と悟った。
今まで金さえ貯めればよしとしていた思想は全く誤りであることを発見し、報徳主義のとても大切なことを知ることができた。まさに大河を渡らんとしたときに船を得た心地がしたので、今度はいかにしてこの道を進むべきかという問題を解くこととなった。
それからは毎月開かれる報徳の集会に出席する。会日以外にも行って種々なことを質問し、議論する。狂熱のようになって報徳主義を研究した。報徳記も当時はわずかに写本ばかりで、それすら容易に見ることはできなかったが、特に読まさせてもらった。同時に他の方面の研究をする必要もあったので、また勉強を始めた。十二歳からは以来全くやめていた経書などをあさって読み、二十三歳の時には夜学に通って勉強し、研究すればするほど、他と対照して報徳主義が立派な教えとなり、ついには二宮先生は人間以上の、神のようなものに思われてきた。
このように研究すればするほど、過去の我が身の過ちを発見し、新生活を開く必要を感じたので、明治十年一月一日を紀元とし自分は全く生まれかわったものとして新生活に入ることを決心し、今なおその決心にしたがって暮らしているつもりである。 その後もなお勉強は続け、中国の経書はもちろん、仏書も少しは読んでみたが、これは単に報徳主義を明らかにする道具に使ったもので、報徳主義の大切なことは依然として変わらない。いな、むしろますますその光輝を発揮するように思われる。
大工は曲尺(かねじゃく)一つで、小屋も作れば堂々たる大邸宅も建てる。造った物は大いに異なっているが、結局ただ曲尺一つ使用したにすぎない。二宮先生の報徳主義も、一度会得すれば、万事に応用して最も有効に活用することができると思う。
そこで、自分はすでに多年の覚悟として守り、また青年の決心すべきものとして常にこう言っているのである。
人間はその本分としてみな尽すべきだけの職務を持っている。国家社会の利益を増進するために、分業して互いに天地の秘を発(あば)くまで勤労すべきである。このためには全力を発揮して勤めなければならない。もし職務のために死ぬことがあれば、これは名誉の戦死である。軍人が戦いに死ぬのと異ならない。自分を棄てて全力を発揮すれば、目的を達するとともに、立身や栄達は副産物としてついてくる。初めからこれを目的として望むべきではない。人間はこの職務に全力を注がなくてはならない。知るということは、これを明らめ尽さなければならない。世間では「知っている」といって、実行の伴わないものが多い。知っていれば行わなければならない。それが実行されないのは、真に知らないのであり、知っているというのは間違いである。人間がこの世に生れてきた以上は、その職務本位とすることを知らなければ真の仕事はできない。
強固な意志を有する者も困難に耐え忍ぶことができる。しかし、これは一種の我慢である。つまり普通の人は十までは忍耐できるが、意志の強い人は十二とか十五まで忍耐できるということに過ぎない。しかし、道理にもとづいた意志は水火の中をも辞さない、まして困難辛苦をやである。どのようなところまでも忍耐して達成することができる。
何事にも元値を知ることが必要である。元値とは、人は生れたからは死ぬということである。必ず死ぬと決まっているから今日も生きているということは儲(もう)けものである。その他すべてがみな儲けの上の儲けものと一大覚悟さえすれば、一生涯に苦痛ということはない。これが、報徳主義の活悟道(真に活かす道)である。世間では悟道は座禅とか本を読まなければできないように言うが、そんな難しいことは大道ではない。大道は老人や子どもでも差し支えなく行けるから大道なのである。修行しなければ歩けない道は糸の道である。





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最終更新日  2015年08月24日 02時20分43秒



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