全て
| 報徳記&二宮翁夜話
| 二宮尊徳先生故地&観音巡礼
| イマジン
| ネイチャー
| マザー・テレサとマハトマ・ガンジーの世界
| 宮澤賢治の世界
| 五日市剛・今野華都子さんの世界
| 和歌・俳句&道歌選
| パワーか、フォースか
| 木谷ポルソッタ倶楽部ほか
| 尊徳先生の世界
| 鈴木藤三郎
| 井口丑二
| クロムウェル カーライル著&天路歴程
| 広井勇&八田與一
| イギリス史、ニューイングランド史
| 遠州の報徳運動
| 日本社会の病巣
| 世界人類に真正の文明の実現せんことを
| 三國隆志先生の世界
| 満州棄民・シベリア抑留
| 技師鳥居信平著述集
| 資料で読む 技師鳥居信平著述集
| 徳島県技師鳥居信平
| ドラッカー
| 結跏趺坐
| 鎌倉殿の13人
| ウクライナ
| 徳川家康
カテゴリ:鈴木藤三郎
120年前の1890年完成 (明治23年) 1810年に、イングランド北東部のニューカッスル・アポン・タインで、穀物商の息子として生まれた。16歳までの間、ニューカッスルとウィッカム(Whickham)の私立学校で学んだ後、ビショップ・オークランド・グラマースクール(Bishop Auckland Grammar School)へと進学した。グラマースクール在学中に、近くのウィリアム・ラムショーの工場をしばしば訪ね、工場主の娘で後に妻となるマーガレット・ラムショー(Margaret Ramshaw)と知り合った。マーガレットは6歳年上だった。 アームストロングは、グラマースクール卒業後は父親の希望に従って法律家を目指した。父親の友人の事務弁護士アーマラー・ドンキンに弟子入りし、1833年までの5年間をロンドンで過ごした。ニューカッスルに戻った後、1835年にドンキン事務所の共同経営者になった。そして、マーガレットと結婚して、ニューカッスル郊外のジェスモンドに新居を構えた。 11年の間、アームストロングは事務弁護士として働いたが、その一方で工学技術に対する興味を抱いていた。彼は趣味の釣りをしているときに、石切り場の動力用水車を見て、水力が十分に活用できていないと感じた。そこで、彼は水力を利用した回転式の原動機を考案し、友人のヘンリー・ワトソンの工場で試作品を完成させた。この装置はあまり評価されなかったが、アームストロングは次にピストン式の水力原動機の開発にとりかかった。彼は、この装置がクレーンの動力として有効であると考えていた 1845年にニューカッスルで水道工事が計画されると、アームストロングはこの計画に参加した。彼は、自分の装置を使えば、水道が低地に向かう部分の水圧を利用して、在来型より優れたクレーンを運用できると提案した。彼の提案は採用され、タイン川の船の水面降下用に試作機が設置された。その後、試作機の実績に基づき、さらに3基が増設されることとなった。彼の発明家としての努力が認められ、1846年には王立協会の会員に選ばれている 水力クレーンでの成功を機に、アームストロングは水力関連機器の製造事業に乗り出すことにした。W.G.アームストロング社(W.G. Armstrong & Company)を設立し、1847年にタイン川沿いのエルズウィック(英語版)に2万2千平方メートルの工場用地を購入した。彼の製品は造船所のクレーンやドック閘門の動力として順調に売り上げを伸ばし、1850年には45基、1852年には75基のクレーンを生産した。その後、年産100基まで増えている。また、橋の建設事業にも参入した。1850年に300人だったW.G.アームストロング社の従業員は、1863年には3800人に達している クリミア戦争中の1854年に、アームストロングはイギリス陸軍向けの新型野砲の設計を始めた。当時のイギリス陸軍は、野砲の重量過大に困っており、それを知ったアームストロングは軽量で機動性の高い野砲の開発を思い立ったのである。同僚のジェームズ・レンデルとともに設計し、1855年に試作した5ポンド野砲は政府の検討会で好評を博した。そして、1858年には口径拡大した18ポンド野砲が陸軍に制式採用され、翌年にはイギリス海軍にも同じ構造の艦載砲が制式採用された。画期的な後装式のライフル砲、いわゆるアームストロング砲である。アームストロングはこの大砲で儲けることを好まず、特許を政府へと譲渡した。その功績で彼は陸軍省(War Department)のライフル砲造兵官に就任することになり、1859年には下級勲爵士(ナイトの一種)の称号とバス勲章コンパニオンを授けられ、ヴィクトリア女王への謁見の名誉を与えられた。 アームストロング砲は、利益相反との非難を避けるため、W.G.アームストロング社とは別の新設会社であるエルズウィック砲兵会社(Elswick Ordnance Company)で生産されることになった。エルズウィック砲兵会社はイギリス政府との専属契約を結んだ。このエルズウィック砲兵会社では、以後のアームストロングの重要な部下となるジョージ・レンデル(ジェームズ・レンデルの子)が経営陣に参加し、アンドルー・ノーブルが火砲の設計技術者として採用されている。陸軍省に任官したアームストロングは、ウリッチ王立造兵廠の主任として設備の近代化に取り組み、ここでもアームストロング砲の生産を可能とした。 1864年にW.G.アームストロング社とエルズウィック砲兵会社は合併し、サー W.G.アームストロング社(Sir W.G. Armstrong & Company)となった。新会社は、海軍向けの兵器生産に重点を変えた。1867年にロー・ウォーカー造船所を持つチャールズ・ミッチェル社と提携し、ロー・ウォーカー製の軍艦にアームストロング製の大砲を搭載することにした。その最初の成果である砲艦「ストーンチ(HMS Staunch)」は、1868年に竣工した 1882年にはチャールズ・ミッチェル社と合併し、サー・ウィリアム・アームストロング・ミッチェル有限責任会社(Sir William Armstrong, Mitchell and Co. Ltd. )となった。そして、1884年にエルズウィックに軍艦専門の造船所を開いた。設計技術者として、海軍省造船官のウィリアム・ホワイトを引きぬいている。エルズウィック造船所は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の水雷巡洋艦「パンター」「レオパルト」を皮切りに、大は戦艦まで含めた各種軍艦の建造を行った。その重要な顧客の一人は日本海軍で、1913年までの出荷艦艇の合計排水量ではイギリス海軍につぐ量であった。エルズウィックでの艦艇設計の中心となったのはジョージ・レンデルで、彼の編み出した巡洋艦の設計手法は防護巡洋艦と呼ばれて世界中の海軍で採用されることになる。 リーズ (Leeds) は、イングランド・ウェスト・ヨークシャーのシティ・オブ・リーズの中心エリア。ウェスト・ヨークシャー地方に位置する。人口は約71万5千人(中心部の人口は約43万人)。ロンドンから鉄道利用で2時間半の場所に位置している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年08月28日 02時28分20秒
[鈴木藤三郎] カテゴリの最新記事
|