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2015年08月27日
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カテゴリ:鈴木藤三郎


横浜正金銀行ロンドン出張所 

1881年1月に小泉信吉副頭取が欧米に派遣された。2月末~3月頃小泉はニューヨーク出張員が下宿の一隅で事務を執るのを改めさせ,ニューョークのブロードウェイに出張事務所を開設させた。4月にロンドンに到着した小泉は,同行の一行員をロンドン出張員とし,その後ロンドンのビショップスゲート街に出張事務所を開設させて同年11月に帰国した


トラファルガー広場(トラファルガーひろば、Trafalgar Square)は、イギリスロンドンのウェストミンスターにある広場である。1805年のトラファルガーの海戦における勝利を記念して造られた。当初はウィリアム4世広場という名前だったが、建築家のGeorge Ledwell Taylorの提案によってトラファルガー広場となった。トラファルガーの名は海戦があったスペインのトラファルガル岬に由来するが、元々はスペインに進出したアラビア人がタアリフ・アルガル(洞窟の岬)とアラビア語で呼んでいた。

この広場は、エドワード1世の時代には王家の厩であった。1820年代、ジョージ4世が建築家のジョン・ナッシュにこの地域の再開発を依頼。現在の形になったのは1845年である。


ダービー(英: Derby)は、イングランド中部ダービーシャーの行政中心地となっている工業都市
18世紀初頭にイギリス初の機械式生糸工場がここに建てられ[4]、これが工業化の端緒となった
産業革命以降は鉄道交通の結節点として発展した


マンチェスター (Manchester) は、イングランドの北西部、グレーター・マンチェスターに位置する都市。北部イングランドを代表する都市であり、イギリスで9番目の都市である
マンチェスターは綿工業などが発展し、産業革命において中心的役割を果たした

17世紀にはいると綿織物工業がおこり、1785年に紡績機に蒸気機関が導入されることによって、世界で初めての産業革命が起こると劇的な成長をとげた。1830年、リヴァプールとの間に鉄道が開通し、マンチェスターで生産された綿織物がリヴァプール経由で世界中に輸出され、1894年にはマンチェスター運河の完成によってマージー川河畔にあるイーストハムともむすばれ、外洋航行船が出入りできるようになった。

グラスゴー(英語: Glasgow、 スコットランド・ゲール語: Glaschu)は、イギリスのスコットランド南西部に位置するスコットランド最大の都市である
グラスゴーはスコットランドの中心として発展し、12世紀にはグラスゴー大聖堂が、1451年にはグラスゴー大学が創設された。16世紀に入るとクライド川の水運を用いた貿易が盛んになり、アメリカ大陸のタバコ、カリブ海の砂糖などがこの都市を中継してイギリス国内に運ばれた

産業革命が始まると、ランカシャーで採掘される石炭と鉄鉱石によって工業化が進み、グラスゴーでは綿工業を中心とした産業が盛んになった。また都市の発展に伴ってアイルランド等からの移住者が増え、大英帝国第二の都市と呼ばれるようになった。また海運を通じて造船業も発展する。ヨーロッパ最大の機関車製造会社ノース・ブリティッシュ・ロコモティブはグラスゴーの企業であった。

エディンバラ(英語: Edinburgh、スコットランド・ゲール語: Dùn Éideann)は、スコットランドの首都であり、ロージアン州の州都。

フォース鉄道橋(フォースてつどうきょう、Forth Bridge)は、イギリス・スコットランドのエディンバラ近郊のフォース湾に架かる鉄道橋である。全長2530mのカンチレバートラス橋で1890年に完成した。19世紀、「テイ橋の悲劇」をはじめとして強風による落橋事故が相次いだため非常に強固な橋として設計された。2015年に世界遺産リストに登録された

 


英国が誇る鉄道遺産   スコットランドのフォース鉄道橋
120年前の1890年完成 (明治23年)





1810年に、イングランド北東部のニューカッスル・アポン・タインで、穀物商の息子として生まれた。16歳までの間、ニューカッスルとウィッカム(Whickham)の私立学校で学んだ後、ビショップ・オークランド・グラマースクール(Bishop Auckland Grammar School)へと進学した。グラマースクール在学中に、近くのウィリアム・ラムショーの工場をしばしば訪ね、工場主の娘で後に妻となるマーガレット・ラムショー(Margaret Ramshaw)と知り合った。マーガレットは6歳年上だった。

アームストロングは、グラマースクール卒業後は父親の希望に従って法律家を目指した。父親の友人の事務弁護士アーマラー・ドンキンに弟子入りし、1833年までの5年間をロンドンで過ごした。ニューカッスルに戻った後、1835年にドンキン事務所の共同経営者になった。そして、マーガレットと結婚して、ニューカッスル郊外のジェスモンドに新居を構えた。






11年の間、アームストロングは事務弁護士として働いたが、その一方で工学技術に対する興味を抱いていた。彼は趣味の釣りをしているときに、石切り場の動力用水車を見て、水力が十分に活用できていないと感じた。そこで、彼は水力を利用した回転式の原動機を考案し、友人のヘンリー・ワトソンの工場で試作品を完成させた。この装置はあまり評価されなかったが、アームストロングは次にピストン式の水力原動機の開発にとりかかった。彼は、この装置がクレーンの動力として有効であると考えていた
1845年にニューカッスルで水道工事が計画されると、アームストロングはこの計画に参加した。彼は、自分の装置を使えば、水道が低地に向かう部分の水圧を利用して、在来型より優れたクレーンを運用できると提案した。彼の提案は採用され、タイン川の船の水面降下用に試作機が設置された。その後、試作機の実績に基づき、さらに3基が増設されることとなった。彼の発明家としての努力が認められ、1846年には王立協会の会員に選ばれている

水力クレーンでの成功を機に、アームストロングは水力関連機器の製造事業に乗り出すことにした。W.G.アームストロング社(W.G. Armstrong & Company)を設立し、1847年にタイン川沿いのエルズウィック(英語版)に2万2千平方メートルの工場用地を購入した。彼の製品は造船所のクレーンやドック閘門の動力として順調に売り上げを伸ばし、1850年には45基、1852年には75基のクレーンを生産した。その後、年産100基まで増えている。また、橋の建設事業にも参入した。1850年に300人だったW.G.アームストロング社の従業員は、1863年には3800人に達している

クリミア戦争中の1854年に、アームストロングはイギリス陸軍向けの新型野砲の設計を始めた。当時のイギリス陸軍は、野砲の重量過大に困っており、それを知ったアームストロングは軽量で機動性の高い野砲の開発を思い立ったのである。同僚のジェームズ・レンデルとともに設計し、1855年に試作した5ポンド野砲は政府の検討会で好評を博した。そして、1858年には口径拡大した18ポンド野砲が陸軍に制式採用され、翌年にはイギリス海軍にも同じ構造の艦載砲が制式採用された。画期的な後装式のライフル砲、いわゆるアームストロング砲である。アームストロングはこの大砲で儲けることを好まず、特許を政府へと譲渡した。その功績で彼は陸軍省(War Department)のライフル砲造兵官に就任することになり、1859年には下級勲爵士(ナイトの一種)の称号とバス勲章コンパニオンを授けられ、ヴィクトリア女王への謁見の名誉を与えられた。

アームストロング砲は、利益相反との非難を避けるため、W.G.アームストロング社とは別の新設会社であるエルズウィック砲兵会社(Elswick Ordnance Company)で生産されることになった。エルズウィック砲兵会社はイギリス政府との専属契約を結んだ。このエルズウィック砲兵会社では、以後のアームストロングの重要な部下となるジョージ・レンデル(ジェームズ・レンデルの子)が経営陣に参加し、アンドルー・ノーブルが火砲の設計技術者として採用されている。陸軍省に任官したアームストロングは、ウリッチ王立造兵廠の主任として設備の近代化に取り組み、ここでもアームストロング砲の生産を可能とした。

1864年にW.G.アームストロング社とエルズウィック砲兵会社は合併し、サー W.G.アームストロング社(Sir W.G. Armstrong & Company)となった。新会社は、海軍向けの兵器生産に重点を変えた。1867年にロー・ウォーカー造船所を持つチャールズ・ミッチェル社と提携し、ロー・ウォーカー製の軍艦にアームストロング製の大砲を搭載することにした。その最初の成果である砲艦「ストーンチ(HMS Staunch)」は、1868年に竣工した
1882年にはチャールズ・ミッチェル社と合併し、サー・ウィリアム・アームストロング・ミッチェル有限責任会社(Sir William Armstrong, Mitchell and Co. Ltd. )となった。そして、1884年にエルズウィックに軍艦専門の造船所を開いた。設計技術者として、海軍省造船官のウィリアム・ホワイトを引きぬいている。エルズウィック造船所は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の水雷巡洋艦「パンター」「レオパルト」を皮切りに、大は戦艦まで含めた各種軍艦の建造を行った。その重要な顧客の一人は日本海軍で、1913年までの出荷艦艇の合計排水量ではイギリス海軍につぐ量であった。エルズウィックでの艦艇設計の中心となったのはジョージ・レンデルで、彼の編み出した巡洋艦の設計手法は防護巡洋艦と呼ばれて世界中の海軍で採用されることになる。


リーズ (Leeds) は、イングランド・ウェスト・ヨークシャーのシティ・オブ・リーズの中心エリア。ウェスト・ヨークシャー地方に位置する。人口は約71万5千人(中心部の人口は約43万人)。ロンドンから鉄道利用で2時間半の場所に位置している。





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最終更新日  2015年08月28日 02時28分20秒



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