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2015年10月06日
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東北福祉大学図書館に『ボーイズ・ビー・アンビシャス第3集、第4集』『報徳記を読む第2集』『二宮尊徳と日本近代産業の父鈴木藤三郎』を即座に蔵書とし、7件所蔵館となった、感謝します。

これは現在作成中の『報徳記を読む第3集』と刊行予定の『鈴木藤三郎の米欧旅行日記』『ボーイズ・ビー・アンビシャス第6集』も寄贈するしかないなあ。

二宮尊徳の道歌に

馳せ馬に鞭うちあてて田植えかな

というのがある、人から田植えの手伝いを頼まれて、馬に鞭をうちあてるように急いで田植えの手伝いにいく。

そういった趣きのある、蔵書の手続きである。



東北福祉大学図書館 様

「二宮尊徳の会」では、二宮尊徳の事業と考えを高弟富田高慶が記した『報徳記』等の基本となる報徳の書籍を全ルビにして読書会等で読めるようにした『報徳記を読む』、「報徳の精神」を近代産業に適用した鈴木藤三郎氏シリーズ及び『ボーイズ・ビー・アンビシャス』を刊行し、全国の公共図書館・大学図書館に寄贈しているところです。
貴図書館におかれまして「ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集」など蔵書としていただき、心より感謝申し上げます。
標記の「二宮尊徳と鈴木藤三郎」は、昨年12月袋井市浅羽北公民館での講演録です。鈴木藤三郎は明治時代後期に砂糖王・発明王と称され、二宮尊徳の「報徳の精神」を製糖業など近代産業に適用し成功させ、「報徳」が過去の遺物ではなく、近代産業において有効であることを自らの生涯で証明した偉大な人物です。本会では、現在、本年12月の「鈴木藤三郎の『米欧旅行日記』」の講演に向けて準備中ですが、鈴木藤三郎の生涯とその考え方を知ることは、現代に生きる私たちにとって有益であると確認します。
また、本会では札幌農学校精神は日本の近代化・合理化の一源流であると考え、『ボーイズ・ビー・アンビシャス』シリーズを刊行中です。札幌農学校第二期生の宮部・内村・新渡戸・広井の四人組の交流と彼らの思想の軌跡を「資料集」という形で提示するものです。貴大学の学生の皆様の閲覧に供していただければと幸いです。
貴大学のますますの発展を祈念します。

摂食障害からの復帰 「滑れる幸せ」支えに プロスケーター・鈴木明子さん

フィギュアスケート女子シングルの選手として活躍したプロスケーターの鈴木明子さん(30)。ジュニア時代から注目の選手だったが、大学進学後に摂食障害になり、身長160センチで48キロあった体重は一時、32キロにまで落ちた。スケートを生きる目標に病気を乗り越え、2度の五輪出場を果たした。「滑れる幸せ」がスケート人生の支えになっている。(油原聡子)

 東北福祉大学に進学したのを機に愛知県豊橋市の実家を離れ、仙台市の長久保裕コーチの家に下宿をしました。20歳のときに迎えるトリノ五輪を目指していました。

 フィギュアスケートは体重が重くなると、動きが悪くなり、足への負担も大きくなる。体重管理のため食事制限していたつもりが、だんだん食べられなくなりました。48キロだった体重は1カ月後には40キロに。食事が怖くなってしまったんです。5月には実家に帰り、病院の精神科で摂食障害の診断を受けました。

 <摂食障害は、「太りたくない」という極端なこだわりや「太っている自分には価値がない」という思い込みなど心理的な要因で起こる〉


当初は自分が病気だとは受け入れられませんでした。「コントロールできていないだけ」と思うようにしていたのです。当時、両親は和食の料理店を経営。「食べる」のは人として基本的なことなのに、母が作った食事に手が付けられない。親不孝だと悲しく思いました。母からも「エネルギーのあるものを食べなさい」と言われ、脅迫のように感じていました。

 8月には体重が32キロにまで減りました。疲れやすく、脂肪がないのでいつも寒気を感じていました。

 スケートの練習もできず、焦りが募りました。シニア初のグランプリシリーズになるはずだったスケートカナダも辞退するしかありませんでした。

 体重は一向に増えず、医師からは「30キロまで落ちたら入院しかない」。入院を拒む私の姿に母は、「この子から、生きる目標を奪ってはいけない」と思ったようでした。「まず、食べられるものから、食べよう」と言ってくれました。食事を取るという普通の生活ができず、劣等感と自己嫌悪しかなかった私を母が受け入れてくれた。これが回復のきっかけになりました。

少しずつ食欲が出て、10月には仙台に戻ると、長久保先生が「絶対にできる」と励ましてくれました。病院で栄養指導を受け、11月頃に氷の上に戻りました。

 その年が明け、学生選手権に出場しましたが、久しぶりの試合で怖くなり、母に電話をしました。すると、「氷の上に立てることに感謝して滑ったらいいんじゃない」。五輪など緊張する大舞台でも「滑れるだけで本当に幸せ」と思って演技できたのは、このときの母の言葉があったからです。

 数カ月後、ファンの方のホームページを通じて摂食障害を明かしました。やせた姿から「病気じゃないのか」などと噂が流れていたので、きちんと説明したかったんです。

 大学2年のとき、摂食障害の原因が母との関係にあると医師に言われました。私は一人娘で母から厳しく育てられた。スケートの練習でも「歩くのが遅い」「準備が遅い」と叱られ、褒められたことがありませんでした。「母の理想の娘に近づきたい」という思いが、プレッシャーになっていたのだと思います。

 摂食障害を経験して、私も母も変わりました。私は完璧主義の所があり、周囲に甘えることができませんでした。でも、今はいい意味で「適当でいい」と思えるようになりました。

 目指していたトリノ五輪出場は逃しましたが、その後、2度五輪の舞台を踏むことができました。ちょっと遠回りをしたけれども、目の前のことに一生懸命に取り組んできた結果だと思っています。

 一部のファンの方に報告したつもりでしたが、「摂食障害からの復帰」とメディアに大きく取り上げられることに戸惑いもありました。でも、私が病気を克服し、元気になった姿に勇気づけられたという手紙もたくさん頂きました。私の経験を通して、誰かが救われるのならばよかったのかな、と今は感じています。







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最終更新日  2015年10月06日 20時25分17秒



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