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2017年02月26日
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カテゴリ:広井勇&八田與一
土木第三期時代創造時代
     (台湾では欧州大戦、内地では東京震災後)
 我々は始めて技手として前線に立たされました。しかし係長ではありません。一使用人に過ぎないのです。ただしその効果は外国の模倣を脱せんとする努力であります。
 ちょうど高雄から山形技師が課長として赴任されました。この方は何でも変わった仕事が好きでした。
 水利事業も再検討が大正四年に始まりましたが、余り良い結果がありません。止むを得ず取りかかった仕事が桃園大圳(とうえんたいしゅう)ですが、調査不十分で難工事でした。
 淡水河の橋梁も護岸の残金二十七万円で、コンクリート橋脚という新式の方法で取りかかられました。私はこれに反対したため、山形課長からの信用がゼロとなりました。
 私は台北水道拡張として淡水河説に反対し、大屯山(だいとんざん)の湧泉調査を主張しました。土林や淡水に湧泉があるから火山系統ではまだまだ沢山あるんだというのが私の論拠で、草山下の湧泉は調査後わかったのです。
 山形技師の再検討の結果、生れ出ました工事は日月潭水力と嘉南大圳でした。この時代は私の最も研究努力時代ですから、成立当時の内容を詳細に述べたいと思います。
 近頃は研究しましても討論の相手がないのでありますが、当時は山形課長という相手があったのです。少し旗色が悪くなると馬鹿、馬車馬の一言で追い払われるのです。私は山形課長からこの言葉を三度言われた事があります。

 日月潭水力電気
国弘長重技師が発見しました。同技師は早く技師となって、台中や高雄の電気の所長でした。南部は冬期渇水で后里(こうり:台湾台中市の市轄区)や六亀里(ろっきく:台湾高雄市の市轄区)の発電に困っておりました。当時二層行渓に貯水池を造るといわれた時代でしたが、これは灌漑用のみで水力には使用ができませんので、常にいろいろ案を建てましては同輩である私に賛成を求めていました。最初旗山付近に貯水池を造る案を示しましたが、私が賛成せぬので中部辺まで調べ、遂に日月潭に目を付けました。最初は湖水の水で何とかならぬかと申します故に、私は集水区域が少なくて僅かの電力では引き合いませぬと言って賛成せずにおりましたところ、遂に姉妹原から引き入れたら五里の隧道(トンネル)で来ると申しました。それで私はなるほど図面通りなら結構であると賛成しましたら、喜んで大越、山形両技師に話し込み、先輩中堅階級の技師の賛成を得て大騒ぎとなりました。当時大甲渓が良いのではないかとの説が大部あったのですが、蕃状不穏で、いかんともすることができなかったのです。
 日月潭水力の設計に際し気の毒なのは専任技師がおらなかったのです。庄野技師が専らやっておられましたが、河川調査が本務でしたから多忙で専念設計に従事することができず、運搬は高山技師、機械は中西技師というふうに十分の統括ができず無理が生じたものと思います。しかも設計当時は六十銭くらいであった労働賃金は大正九年には九十銭以上に騰貴し、官吏の増俸も行われたという時代でした。ただ私は取入口の沈砂池の換りに本流に貯水池を造ることを奨めましたが、当時本流締切は危険なりとの観念が強く、逡巡しておったようです。しかし取入隧道の内径十八尺(現在十五尺)や貯水池の容量六十億立方尺(現在四十億立方尺)は良い計画でした。工事用汽車を本線のごとき設計にして工事費を増かした事は余り感心といわれませぬ。
 なお余り急がれたので水量の調査が不十分でしたから、年流水の取り方が大きくなり、通常渇水年でも火力を要するに至りました事は、貯水式発電としては残念な次第です。したがって万大付近に貯水池を設けて河水を調節する必要があるのです。霧社に造るのが利益であるという事ですが、私は調査をしてありませんからわかりかねます。
 いずれにせよ本流を締め切る場合には、その上流の治水策を樹立する要があります。日月潭水力は下流集々、二水と第三、第四の発電を起す可能性はあります。

 嘉南大圳
 土木局の庶務課長で桃園大圳に関係されておられた、嘉義庁長相賀照郷氏が自分の庁でも桃園のごとき池を造ってくれと、当時の土木課長山形技師に申し込みました。
 私はこれまで衛生工事に従事しており、南洋観光団の一員として旅行し復命書を書いておりました。課長は私に相賀君は地勢のいかんを知らず貯水池を造れと無理をいうのである。昨年は南部も水利調査をやったが良い案もない。君は今仕事の手空きだから申し訳的に嘉義まで行って来てくれといわれました。
 私は高雄、台南、嘉義の水道に関係しておったので、南部の地勢も少しは知っているので、図面上でもいろいろ研究した結果、同地方の谷を十四か所締め切ると約十万甲くらいの夏期一作田ができるはずだから、一か月出張させられたいと申し出ますと。昨年来埤圳調査をやった結果、嘉義方面は見込みなしとなかなか承知されないのを、堀見技師の仲裁で二週間ほどの観察ということで折り合いました。相賀庁長は非常に喜ばれ、当時の支庁長あるいは外勤警部補の案内で、貯水池のできそうな各谷々を尋ね回りました。貯水池のできうる所十四か所中最も大なる官佃渓埤圳計画七万五千甲が採用されたのです。三年間に甘庶一回、水稲二回であります。
 然るに当時我が国における砂糖は二百万担不足(需要七百万、生産五百万ピクル)で、年二千万円から一億の輸入を要しました。甘庶二百万ピクル増産の目的で十五万甲に拡張しまして、甘蔗五万甲、水稲二万五千甲、すなわち六年輪作業が議会に提出されたのです。電力会社案と二つ下村長官が持参されたのですが、輸入の関係上大蔵省の空気は嘉南大圳に良過ぎましたので、調査不十分なる理由で一年待たされましたために、調査後五月より急に十五万甲灌漑地調査というものが、四万五千円(人件費以外の調査費)で始まりました。
 工夫共六十人嘉義高砂ホテル跡に陣取りまして不眠不休六か月間で測量調査、支分線の設計まで終わりました。各班長は皆技手で阿部貞寿、齋藤巳代治、佐藤龍橋、小田省三、磯田謙雄の諸氏です。

(続く)





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最終更新日  2017年02月26日 06時42分40秒
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