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2018年03月01日
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カテゴリ:宮澤賢治の世界
「兄賢治の生涯」宮沢清六著より抜粋

賢治は明治29年8月27日に岩手県花巻町で生まれた。

明治29年という年は、東北地方に天災の多い年であった。

賢治は生後5日目の8月31日午前5時、花巻町の西方約25キロメートルの地にある沢内村に2メートルに及ぶ断層ができるほどの大地震が発生し、死者200人を数えた。

また、大津波、大風雨、また赤痢、伝染病が流行した。

賢治は長子だった。その頃の風習で母の実家の同じ町内の鍛冶町で生まれた。

母は20歳で、生後5日目の朝、大地震がおこったとき、赤子の上に身を伏せて念仏を称えていたが、賢治の祖母のきんが息も絶え絶えに駆けつけたのでやっと人心地がしたという。

兄は初孫として大切に育てられたが、7歳で赤痢を病み、介抱した父も感染して生涯胃腸が弱くなった。

当時の古着・質商という陰気な家業が賢治に与えた影響も少なくない。

父は仏典を好み、同志とともに中央から学者や名僧を呼んで仏教講習会を開いた。

賢治も7,8歳の頃から講習会に父にともなられて行っては熱心に聞いた。

兄は表面陽気に見えながらも、何ともいえない哀しいものを内に持っていた。

父も「賢治には前生に永い間、諸国をたった一人で巡礼して歩いた宿習があって、小さいときから大人になるまでどうしてもその癖がとれなかったものだ」としみじみ話したものだった。

兄は鉱物や植物や昆虫に熱中して、鉱石や植物の説明をしてくれたものだ。

一時あまり鉱物に凝ったので、家族から「石コ賢さん」と言われたほどだった。

若いころの賢治の思想に強い影響を与えたものにキリスト教の精神があった。

賢治の幼年時代、内村鑑三の2人の高弟が花巻におられた。

その一人の高潔な教育者の照井真臣乳(まみじ)に小学校2年のとき教えられている。

私が5歳のとき兄は盛岡中学校の入学試験に合格し、父に連れられて寄宿舎に入った。

4年生のとき、それまでおとなしかったのが、登山して学校を休んだり、寄宿舎の友だちと一緒にいたずらして教師を怒らせたり、舎監の排斥運動に加わって寄宿舎を追放されたりした。
そのため父から厳しく叱責され、何も言わずに頭を下げている兄を見て気の毒であった。

卒業と同時に岩手病院で蓄膿症の手術をしたが、原因不明の熱が続き、発疹チフスの疑いで2ヶ月入院した。

☆賢治の主治医だった佐藤隆房さんは「宮澤賢治」で賢治が発疹チフスで病院に入院していたこんなエピソードを伝えている。

「ある晩のこと、急に目を覚まして、パッチリ目を開いた賢治さんは、

『お母さん、今 白いヒゲをはやし、白い着物を着た岩手サンがおいでになったす。

そして手に持った剣で俺は腹をうんと刺されたもす。』

そしてそのご熱はすっかりさがった。」

この後、賢治は岩手山にしきりに登山するようになる。

☆花巻農学校教員時代の教え子、小原忠氏の回想より
    『山と雪と柏林と』
 「岩手山につれてってやろう。」と宮澤賢治先生に云われたのは花巻農学校一年生のときである。それから暫くたった大正十三年の春、ある晴れた日の朝、これから飯豊森(この地方では「いでもり」と呼ぶ)に行こうと私の家に誘いに見えた。飯豊森は花巻南西約四キロ、平野部に佇立する一三一.六米の小さい山で、古い岩鐘である。
 途中先生はその当時売出されたばかりのゼリービーンズと干葡萄を箱ごと私にくれた。そして化学の先生らしく、ゼリーのなかにはゼラチンが入っていると云った。当時私は、ある先生から、骨は石灰と膠からできている。従ってこれらを摂取すれば骨が丈夫になり背も高くなると聞いて、薬店から買求めて摂っていた。それで先生に「ゼラチンを食えばほんとに大きくなるんですか。」と訊いたら、「誰がそんなことを教えたか。」と苦い顔をした。
 そんなことを話しているうちにやがて山に着いて、いよいよ登り始めると、意外に高く路も険しかった。中腹まで登ったら、先生はどんどん頂上目がけて駆出した。私は懸命にその後を追い掛けたが先生はなかなか早くて追いつけなかい。やっとのこと息を切らして頂上に辿りついた。先生は「小原君は案外丈夫なんだな。これなら岩手山に連れてゆける。」と云った。先生は私のことを身体も小さいし、極端に弱いと思っていたらしい。
今迄山登りといえば遠足で花巻東郊の胡四王山(一七六.六米)に登ったぐらいのもので、この飯豊森は平野部にあるだけに意外に遠望がきいて周囲の山々は美しく見えた。
     (中略)
 ところがその夏、ほんとうに岩手山に私を連れて行ってくれた。二年生、一年生をまぜて全部で六・七人位だった。花巻駅を午后出発して滝沢駅に着き、ここから裾野の道を歩き麓の岩手山神社に一休みした。それから夜みちをかけて一人の落伍者もなく頂上に着いた。頂上の神社にざこ寝をするのだがとても寒くてブルブル震えて眠るどころのさわぎではない。先生はかねて用意の新聞紙を配り身体に巻付けるように云った。やがてほかほかとあたたまり眠りにつくことができた。
 あけがたは御来迎を拝むということで早く起きてお鉢まわりを始めた。この日は風が強く眼下は白雲がいっぱい怒濤のように行き来して恐ろしく見えた。ときどき雲の切れ目から、早池峯山、鳥海山、岩木山がぽかりぽかりと顔を出し、先生はいちいちそれを指して教えた。先生はお鉢まわり中、音吐朗朗とお経を唱えた。その声は高く力のこもったもので、頂上の風も持って行けないくらい透った声であった。
 いよいよ下山になり、九合目あたりの傾斜面に大きな残雪が横たわっていた。先生はここでも、そこへ行って雪を一杯とって来て私にくれた。日頃残雪など珍しくもない私も、その雪ばかりは山頂の霊気がこもっているようでありがたく思われた。
 帰り、一行のリーダー格の宮沢貫一君が先頭を切って兎のようにピョンピョンと岩から岩へ飛び下りてゆく。みんな一斉にその後を追う。貫一君は前にも先生に連れられて来たとのことで岩手山の路には委しい。麓まで下りて道はそれから柏林に入る。この林には冷たい水がこんこんと湧いていた。先生に云われるとおり柏の葉を取ってきて水を掬って飲んだ。ここで暫く休息ということになった。私は横になったらいつの間にかとろとろと睡ってしまった。目を覚ましたらみんな出発したあとで、あたりはガランとして静まり返っている。何時かも判らない。日は西にまわっているように思われた。びっくりして道を東に走りに走った。すそ野の道はあきれるほどに遠い。ようやく滝沢駅に着いて一行と落合い、汽車に乗り私はすぐに睡ってしまったが誰か起こす者がある。貫一君が私の席を探して汽車弁当くれた。先生が盛岡駅で求めたもので私には初めてお目にかかる珍しいものだった。弁当はたしか五十銭、当時としては高価かなものだった。家に帰ってから二日二晩眠りこけたから、二千米の初めての登山はそれだけ私の身体に応えた。
  ラクムス青の風だといふ 
  シャツの手帳も染まるといふ
 青い風のリズムをつたえる「林学生」はこの時のものかも知れない。往復の汽車賃のことは全然記憶がない。おそらく全員分を先生が自辨されたものと思われる。
    (以下略)
  <『校本 宮澤賢治全集 第十三巻』「月報」』(筑摩書房)より>





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最終更新日  2018年03月01日 00時37分58秒
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