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2019年11月30日
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・古語に、 我を非として当る者は我が師なり とある、
かつ大禹は善言を拝す ともある。
なんじら(尊徳の門人たる者)も肝に銘ぜよ。
ごもっとも、これもごもっともなどと、こびへつらう者と喜んで明かし暮し、争友の一人もないのは、危ういというべきじゃ。

・橋本左内「益友とは、時々、面白くないということを、しっかり了簡するべきである。益友が自分身に補いとなるのは、全くその気遣ってくれるところであって「士に争友あれば無道なりといえども令名を失わず」ということが、孝経に有る。
争友とは益友のことである。自分の過ちを告げ知らせ、自分を正してくれ、自分の気づかないところ落ち度や欠点も補ってくれる。このような益友の意見を嫌う時は、天子諸侯に諫言の臣をうとんずるようなものと同様で、遂には刑罰を受けたり、不測の禍いをも招くことがあるであろう。」

夜話巻の1【33】 【33】下館侯の宝蔵が火災にあい、代々、家宝としてきた「天国(あまくに)の剣(つるぎ)」が焼けてしまった。
下館城下で富豪である中村氏に下館藩の役人が尋ねた。
「このように焼けてしまったが、この剣は当家第一の宝物である。
よく研いで白鞘にしまって、蔵に納めおこうと思うがどうだろうか。」
中村はその焼けた剣を見て言った。
「ごもっともな話ですが、そんなことをしてもなんの益がございましょう。
たとえこの剣が焼けないとしても、このように細うございます。
何の用に立ちましょう。
このように焼けてしまったのを、いまさら研いで何の用にたちましょう。
このまましまっておかれればよろしいでしょう」と言った。

これを聞かれて尊徳先生は、大声で叱責された。
「なんじは、大家の子孫に生まれ、祖先の余光によってこのように格式をたまわり、人の上に立って人に敬せられているではないか。
なんじのような者が、そのような事を申すのは、大きな過ちである。
なんじが人に敬せられるのは、太平のお蔭ではないか。
今は太平の世である。
どうして、剣が用に立つとか、立たないとか論ずる時であろうか。
なんじ自身を省りみてみよ。
なんじがなんの用にたっているか。
この天国の焼剣と同じように、実は用に立つ者ではないのだ。
ただ先祖が積んできた徳と、家柄と格式とによって、
やくに立つ者のように見え、人にも敬せられているのだ。
焼身であっても細身であっても重宝と尊ぶのが、太平のお蔭であり、この剣の幸福なのだ。
なんじを中村氏と人々が敬するのは、これまた太平の恩徳と先祖の余蔭である。
用に立つ、用に立たない論ずるならば、なんじのような者は捨ておいてよい。
たとえ用に立たなくとも、当家御先祖の重宝としてこれを大切にするのが、太平の今日において至当の理である。
私はこの剣のために言うのではない。
なんじのために言うのだ。
よくよく沈思せよ。
かって水戸の殿様が、寺社のつりがねを取りあげて、大砲に鋳造された事があった。
わたしはこの時にも、 御処置は悪いわけではないが、まだ太平の世であるからはなはだ早い。
太平の世には鐘や手水鉢を鋳て、社寺に納めて、太平を祈らせるがよい。
事があった時にすぐにそれらを取り上げて大砲とすればよい。
その時、誰か異議を言おうか、社寺ともに喜んで出すであろう。
このようにして国は保つのだ。
敵を見て大砲を造る、
いわゆる盗人を捕へて縄をなうようだと言う人もあろうが、
通常の敵を防ぐべき備えは、今日足っている。
その敵が容易でないのを見て、自分の領内の鐘を取って大砲を鋳造する、どうして遅いことがあろうか。
この時日もないほどであれば、大砲があっても、必ず防ぐ事はできないであろうと言った事があった。
どうして太平の時に、乱世のような論を出す必要があろう。
このように用に立たない焼身であっても宝とする。
ましてや用に立つ剣ならなおさらである。
そうであれば自然とよい剣もでてくるであろう。
そうであればよく研ぎあげて白鞘におさめて、元のように、ふくさに包んで二重の箱に納めて、重宝とするがよい。
これはなんじのような者に帯刀を許し、格式を与えるのと同じだ。
よくよく心得えておくがよい。」

中村氏は、頭を何度も畳にくっつけて先生に謝った。
時に九月であった。
翌朝、中村氏は句を作って、ある人に示した。
その句に
「じりじりと 照りつけられて みのる秋」と。
ある人はこれを尊徳先生に見せた。
尊徳先生はこれを見て大変に喜ばれ、こうおっしゃった。

「私は昨夜中村氏を教戒した。
定めて不快の念であろうか、怒気が内心に満ちていようかと、ひそかに案じていた。
しかし家柄と大家とをおそれて、おもねる者ばかりだから、しらずしらず増長して、ついには家を保つ事もおぼつかなくなるだろうと思ったから、やむを得ず厳しく教戒した。
それなのに怒気をたくわえることなく、不快の念もなく、虚心平気にこの句を作った、
その器量は案外大きいように見える、
この家の主人たるに恥じない、この家の維持は疑いない、
古語に、
我を非として当る者は我が師なり とある、
かつ大禹(たいう:古代中国の聖王であった禹)は善言を拝す ともある。
なんじら(門弟)も肝に銘ぜよ。
富家の主人は、何を言っても、ごもっとも、ごもっともと錆つかせる者ばかりで、と石に出合って研ぎ磨かれる事がないから、慢心を生ずるのだ。
たとえば、ここに正宗の刀があっても、研ぐ事がなく磨く事がなく、錆つく物とのみ一つところにに置けば、たちまち腐れて紙も切れないようになるであろう。
そのように、三味線引きや太鼓持(たいこもち)などとだけ交っていて、
それもごもっとも、これもごもっともなどと、こびへつらうのを喜んで明かし暮し、争友の一人もないのは、危ういというべきである。 

☆「我を非として当る者は我が師なり」は

「中国の荀子(じゅんし)という人の言葉で、

我を非として当る者は我が師なり 

といって、

自分の善くないところを指摘してくれる人は、自分の先生であるっていうこと。

「大禹は善言を拝す」というのは、孟子にある言葉で、

「禹善言を聞けばすなわち拝す」

禹という王様は善い言葉を聞いたら、慎んで拝んだという。
そのくらい自分を忠告してくれる善い言葉を言ってくれる人を大事にした。
ところがつい何を言うかと蜘蛛が糸を吐くように自分が吐いた自尊心の糸にからみとられて素直に忠告を受け取るどころか、反発してあなどることになりやすい。

尊徳先生は「争友の一人もないのは、危ういというべきである。 」と門弟に教えられた。

これは孝経にある言葉で、「士に争友(そうゆう)あれば、すなわち身み、令名れいめいを離れず。父に争子あれば、すなわち身、不義に陥らず。」

橋本左内の啓発録に「朋友を択ぶ」というのがある。

左内はなんと15歳の時にこれを書いて「幼稚な心を去れ」から始まる自戒の文を作った。
そのなかに友人の選び方が書いてある。
「択とはえらび出すという意味である。自分の同門同郷の人、同年輩の人、自分と交りを求める人はいずれも大切にするべきである。
しかしながらその中に損友益友というのがある。
だから択ぶということが大事だ。
損友は、自分が得た道によって、その人の正しからざる事を正してやり、益友は、自分から親みを求めて、常に兄弟のようにするべきである、
世の中に益友ほどありがたい者はない。一人でも有れば、大切にするべきである。
すべて友に交わるには、飲食娯楽の上で付き合い、遊山や魚釣りでなれあうのはよろしくない。
学問の講究、武事の練習、士たる志の研究など心の吟味から交わるべきである。
飲食や遊山でなれあった友だちは、普段は腕をさすり肩をたたき、互いに友達だと言い合っていても、無事の時には、自分の徳を補うに足らず、有事の時には、自分の危難を救ってくれる者ではない。これはなるだけ出会わないように、自分の身を厳重にして、必ずなれあって自分の道をふさがないようにして、なんとか工夫して、その者を正道に導いて、武道や学問に勧め入れることこそが、友だちの道というものだ。
また益友と申すは、とにかく気遣ってくれるもので、時々、面白くないということを、しっかり了簡するべきである。
益友が自分身に補いとなるのは、全くその気遣ってくれるところであって「士に争友あれば無道なりといえども令名を失わず」ということが、孝経に有る。
争友とは益友のことである。自分の過ちを告げ知らせ、自分を正してくれ、自分の気づかないところ落ち度や欠点も補ってくれる。
このような益友の意見を嫌う時は、天子諸侯に諫言の臣をうとんずるようなものと同様で、遂には刑罰を受けたり、不測の禍いをも招くことがあるであろう。」

自分のことを考えて親身に戒めてくれる人こそが一生を通じての争友(そうゆう)というべきなのかもしれない。





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最終更新日  2019年11月30日 18時57分16秒



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